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第73話 浪華色街

 鴉羽ミナトは、東京駅のホームで缶コーヒーを買った。


 甘いやつだ。


 普段ならブラックを選ぶ気分だったが、今日はやめた。


 頭を回すには糖分がいる。

 それに、これから向かう場所を思えば、少しくらい甘いものを入れておいた方がいい。


 改札を抜ける前、端末が震えた。


 黒瀬透真からだった。


『今どこですか』


 短い。


 焦りを抑えているのが分かる文章だった。


 ミナトは、ホームの柱にもたれながら返信した。


『新幹線のホーム。関西方面に向かう』


 すぐに既読がつく。


『俺も行きます』


 やっぱり。


 ミナトは、小さく息を吐いた。


『まだ来ないで』


『相原さんがさらわれています』


『知ってる。だから来ないで』


 少し間が空く。


 ミナトは、透真が画面の向こうで言葉を選んでいるところを想像した。


 彼は怒っている。

 焦っている。

 自分の無力さに苛立っている。

 そして、そういう自分を見られていることにも気づいている。


 ロロは、それを見たい。


 透明が濁る瞬間。


 なら、透明をこちらから持っていくのは、まだ早い。


『君が来ると、ロロの餌になる』


 ミナトはそう打った。


 続けて。


『でも、いずれ必要になる。だから佐伯さんの指示を聞いて、準備してて』


 送信。


 数秒後。


『分かりました』


 素直だ。


 素直すぎて危ない。


 ミナトは端末をポケットにしまい、新幹線に乗った。


 指定席ではない。


 あえて自由席。


 乗車記録を少しぼかすためだ。


 もちろん、完全には消せない。


 今の時代、正規の交通機関を使えば、足跡は残る。


 だが、痕跡は残り方が大事だ。


 見せていい痕跡。

 見せたくない痕跡。

 わざと見せる痕跡。

 後で消す痕跡。


 情報屋にとって、移動は移動ではない。


 どこから誰に見られるかを選ぶ行為だった。


 新幹線が動き出す。


 東京の景色が窓の外で流れていく。


 ミナトは座席に深く腰かけ、端末を開いた。


 相原ユウの誘拐に使われた可能性のあるルート。


 医療廃棄物回収を装った白い配送車。

 途中で変わったナンバー。

 郊外の物流倉庫。

 そこから関西方面へ伸びる非正規探索者物流。


 そして、その先にある名前。


 浪華色街。


 なにわいろまち。


 関西の半グレ系探索者集団。


 表向きは、違法配信と賭け試合の温床。

 裏では、魔物素材、違法装備、借金持ち探索者、能力データ、契約書、負け試合の台本まで扱う。


 ミナトは昔、何度かあそこと取引したことがある。


 正確に言えば、浪華色街そのものではなく、そこに出入りする情報屋、賭け師、裏配信者、輸送屋と接触した。


 いい思い出は、あまりない。


 向こうは派手で軽い。

 笑いながら人を売る。

 泣いている新人を見て「ええ顔するやん」と言う。

 借金も怪我も恐怖も、全部盛り上がりの一部にする。


 東京の裏社会が冷たい水なら、浪華色街は油だ。


 軽く見えて、火がつくとよく燃える。


 端末に、佐伯からメッセージが入った。


『鴉羽さん。管理局関西支部には限定共有済みです。ただし、正式介入には証拠が足りません』


 ミナトはすぐ返信する。


『でしょうね』


 正式介入には、手順がいる。


 誘拐の証拠。

 相原ユウの所在。

 浪華色街が関与している証拠。

 現地支部の令状申請。

 関係各所への通達。


 必要なことだ。


 手順がなければ、後で全てが崩れる。


 でも、手順は遅い。


 ロロや浪華色街は、その遅さを利用する。


 ミナトは、別の端末を取り出した。


 仕事用ではない。


 登録名義も違う。

 入っている連絡先も少ない。

 昔の名残だ。


 そこに一件だけ、まだ使える連絡先が残っている。


【辰兄】


 通話はしない。


 まずはメッセージだけ。


『久しぶり。色街の入口を聞きたい』


 送信。


 三分ほど返事はなかった。


 窓の外には、ビル群の終わりが流れている。


 やがて返信。


『死んだと思ってた』


『残念、生きてる』


『情報売らんようになったって聞いたで』


『たまには売る』


『嘘つけ。最近の鴉羽は売らん情報を抱えるらしいやん』


 ミナトは、画面を見て少しだけ笑った。


 やっぱり、噂は早い。


 情報屋が情報を売らない。


 それは、料理人が包丁を捨てるようなものだ。


 いや、少し違う。


 包丁を持ったまま、切らないものを選び始めた料理人。


 裏の連中からすれば、気味が悪いだろう。


『人は成長するんだよ』


『気色悪』


『それで入口は?』


『無料か?』


『まさか』


『何出す』


 ミナトは少し考えた。


 ここで情報を出しすぎると、相原の存在がさらに広がる。


 かといって、何も出さなければ動いてくれない。


 売る情報と、売らない情報。


 その線引き。


 昔は、もっと簡単だった。


 高く売れるものを売る。

 自分が危なくなるものは売らない。

 それだけ。


 今は違う。


 誰を守るために伏せるのか。

 誰を動かすために出すのか。

 どこまでなら戻れるのか。


 面倒になった。


 でも、たぶんその面倒さを引き受けることを、最近のミナトは覚え始めている。


『東京から若い探索者が一人流れた。浪華色街に登録される可能性がある』


『色は?』


 早い。


 ミナトは画面を見つめた。


 ここで「翠」と打てば、情報として強すぎる。


 相原の価値を上げる。


 向こうの食いつきも上がる。


 なら。


『未成熟。見世物にすると値がつくタイプ』


 嘘ではない。


 だが、色は出さない。


 返信はすぐだった。


『色隠すんか。ほんま変わったな』


『入口』


『新今宮の南、旧劇場街。表の店名は毎晩変わる。今日はたぶん“虹札倶楽部”』


『たぶん?』


『ワシも全部は知らん。今の色街は難波ジャックの気分で動く』


 難波ジャック。


 浪華色街の中心人物。


 派手好きで、声が大きく、金と熱気の匂いがする男。


 直接会ったことはない。


 だが、噂は知っている。


 賭け試合の胴元。

 違法配信の演出家。

 探索者を商品にする男。

 笑いながら契約書に血判を押させる男。


『ロロは?』


 ミナトは打った。


 返事が来るまで、少しだけ間があった。


『その名前、出すな』


 空気が変わった。


 画面越しでも分かる。


『知ってるのか』


『知っとる奴から順番に死ぬ名前や』


『詩的だね』


『茶化すな。鴉羽、お前ほんまに関わる気か』


『もう関わってる』


『なら忠告や。ロロは色街の人間やない。客でも胴元でもない。あれは遊びに来る災害や』


 災害。


 あながち間違っていない。


 ロロは組織に所属しているようには見えなかった。


 目的のために動くというより、面白そうな場所へ現れる。


 それでも、浪華色街はロロを受け入れるのだろう。


 危険な客ほど、盛り上がるから。


『入口代は?』


『今のお前なら高いぞ』


『いくら』


『金やない。信用や』


 ミナトは眉を上げた。


『信用?』


『お前、売らん情報持っとるやろ。それを出せ』


『何が欲しい』


『黒瀬透真の透明』


 ミナトは、そこで端末を閉じた。


 即答はしない。


 東京から関西へ向かう新幹線の中で、窓の外の景色だけが流れていく。


 黒瀬透真の透明。


 やはり、そこへ来る。


 相原の翠だけではない。


 ロロは透真を見ている。

 浪華色街も、透明という色に興味を持ち始めている。

 情報屋たちは、透真の鑑定がどこまで見えるのかを知りたがる。


 ミナトは、昔の自分ならどうしたかを考えた。


 少しだけ売ったかもしれない。


 全部ではない。


 透真の価値が下がらない程度に。

 自分が得をする程度に。

 相手が食いつく程度に。


 嘘を見抜くが、戦闘能力は低い。

 危険や祈りの表示が出る。

 色相を見る可能性がある。


 そんな断片を売れば、入口は開くだろう。


 でも、それは戻れない。


 一度売った情報は、回収できない。


 透真の透明は、浪華色街の賭け札になる。


 それは駄目だ。


 ミナトは端末を開き、返信した。


『それは売らない』


 すぐに返事。


『ほんま変わったな』


『老けたんだよ』


『入口、教えたる。代わりに別の情報よこせ』


『何』


『七曜会が動いとるかどうか』


 ミナトは少し目を細めた。


 七曜会。


 管理局とは別に、国家の非公式な危機対応に関わるとされる集団。


 表には出ない。

 正式には存在しない。

 だが、色相反応の会議資料に未確認アクセスがあった件で、その影のようなものは既に見えていた。


 土。


 管理局資料に残った謎の識別子。


 まだ、ミナトも詳しくは知らない。


 知っているふりをすれば、逆に足元をすくわれる。


『知らない』


『お前が知らんわけないやろ』


『知らないものは知らない。ただ、管理局は焦ってる』


『それは誰でも分かる』


『佐伯ユズルが直接動いてる』


 これは出してもいい。


 いや、出すべきだ。


 佐伯が動いていると知られれば、浪華色街側も迂闊には相原を処分しにくくなる。


 管理局が追っている。


 その情報は、相原の生存率を上げる可能性がある。


『佐伯か。あいつまだ辞めてへんのか』


『しぶといからね』


『分かった。入口は虹札倶楽部。合言葉は“白は何倍や”』


『返しは?』


『“黒が沈んでから決める”』


 悪趣味な合言葉だ。


 ミナトは端末にメモする。


『礼は?』


『生きて帰ったら考えたる』


『優しいね』


『死んだら端末だけ回収したるわ』


 通話は終わった。


 ミナトは座席に背を預ける。


 外の景色は、もう東京ではない。


 西へ向かっている。


 相原ユウは、さらに先にいる。


 たぶん、浪華色街に登録される。


 未成熟な翠。


 賭け試合に出すには、格好の見世物だ。


 弱い。

 怖がる。

 失敗する。

 それでも二度目に変わる。


 観客は喜ぶだろう。


 最初に泣きそうな顔を見て笑う。

 次に、少しだけ対応したところで沸く。

 最後に、折れるか伸びるかへ金を賭ける。


 浪華色街は、そういう場所だ。


 ミナトは、缶コーヒーを開けた。


 甘い。


 甘すぎる。


 それでも、今はちょうどいい。


 夕方、新大阪に着いた。


 ミナトは人混みに紛れ、改札を抜ける。


 正規のルートでは、ここから管理局関西支部へ向かうべきだった。


 佐伯にはそう報告してある。


 ただし、実際にはその前に一つ寄り道をする。


 表の管理局が動く前に、裏の入口を見る。


 ミナトは地下鉄を乗り継ぎ、新今宮方面へ向かった。


 駅を出ると、東京とは違う空気があった。


 湿った熱。

 古い看板。

 昼と夜の境目が曖昧な路地。

 安い酒の匂い。

 油の匂い。

 笑い声。

 怒鳴り声。

 遠くで流れる違法配信の音声。


 探索者装備の若者が、何人も歩いている。


 正規の探索者もいる。

 そうでない者もいる。


 腕に包帯を巻いた男。

 配信用ドローンを抱えた女。

 顔を隠した少年。

 笑いながら契約書らしき紙にサインする二人組。


 ミナトは、フードを軽く上げた。


 目立たないようにする。


 だが、完全に消えようとはしない。


 裏社会では、見えなさすぎる人間も怪しい。


 適度に怪しく、適度に軽く、適度に金を持っていそうに見せる。


 それが入り口では大事だ。


 旧劇場街の端に、その建物はあった。


 看板には、安っぽいネオンでこう書かれている。


【虹札倶楽部】


 昼間は別の名前だったのだろう。


 看板の裏に、別の文字が少し見えている。


 入口には、派手なスーツの男が二人。


 用心棒というより、呼び込みに見える。


 だが、腰の位置、足の置き方、視線の動かし方は完全に戦闘職だった。


 ミナトが近づくと、一人が笑った。


「兄ちゃん、初めてか?」


「久しぶり」


「久しぶり言う顔やないなあ」


「顔変えたんだよ」


「おもろない嘘や」


 男は笑いながら、ミナトの前に立つ。


「何しに来た」


「白は何倍や」


 男の目が少し変わった。


 もう一人が、こちらを見る。


「黒が沈んでから決める」


 ミナトが返すと、男は口角を上げた。


「合っとるな」


 入口の男は、ミナトの服装を上から下まで見る。


「荷物は」


「端末だけ」


「武器は」


「口」


「一番危ないやつやん」


 男は笑った。


「中では喧嘩禁止、撮影禁止、正義禁止や」


「正義禁止はいいね」


「ただし金は歓迎や」


「分かりやすい」


 男が扉を開ける。


 その先には、地下へ続く階段があった。


 音が上がってくる。


 歓声。

 怒号。

 笑い声。

 金属音。

 配信の電子音。

 オッズを読み上げる声。


 ミナトは階段を降りた。


 地下に広がっていたのは、劇場だった。


 古い円形劇場を改造した空間。


 中央には、小さな試合場。

 周囲には観客席。

 壁には複数のモニター。

 モニターには、探索者の名前、ランク、予想色、倍率、過去戦績らしき数字が表示されている。


【紅:短期決着向き】

【白:観客人気補正あり】

【黒:初手不明、事故率高】

【翠:長期戦で倍率変動】

【金:契約条件次第】


 色が、賭け札になっている。


 ミナトは、奥歯を噛みそうになった。


 予想はしていた。


 だが、実際に見ると腹が立つ。


 色相は、まだ管理局ですら慎重に扱っている仮説だ。


 本人の理解も追いついていない。


 それを、ここではもう倍率にしている。


 紅は何倍。

 翠は伸びるか。

 黒は事故るか。

 白は観客が乗るか。


 人間の祈りも恐怖も、ここでは全部オッズになる。


 いい場所だ。


 最悪の意味で。


 ミナトは表情を崩さない。


 怒りを顔に出すと、ここでは負ける。


 中央の試合場では、二人の探索者が向き合っていた。


 一人は巨漢。

 もう一人は細身の青年。


 モニターには、こう表示されている。


【第六試合】

【紅寄り打撃型 VS 黒寄り回避型】

【現在倍率:紅 1.8 / 黒 3.2】


 観客が叫ぶ。


「紅いけや!」


「黒に張ったんやぞ逃げ切れ!」


「三分以内KOで倍や!」


 打撃型の男が突っ込む。


 細身の青年は、ふっと姿勢を沈め、認識の外へ滑るように避けた。


 黒。


 認識ずらし。


 ミナトは、自然と目を細める。


 あれは訓練された黒ではない。


 半端な隠蔽。


 だが、観客には十分だ。


 見えた、見えないで盛り上がる。


 数十秒後、紅の拳が青年の腹に入った。


 観客が沸く。


 青年は膝をつく。


 モニターの倍率が跳ねる。


 その数字を見て、さらに歓声が上がる。


 ミナトは、その光景を横目で見ながら、人の流れを読む。


 受付。

 賭け札販売。

 試合場裏への通路。

 関係者席。

 機材室。

 非常出口。


 相原がいるなら、試合場裏か、登録用の控室。


 ただし、いきなりそこへ行けば怪しまれる。


 まずは、情報を拾う。


 ミナトが受付近くへ向かおうとした時、誰かが横からぶつかってきた。


「うわっ、すんまへん!」


 小柄な男だった。


 いや、男というより、年齢不詳の小さい中年。


 派手なシャツ。

 やたら大きな帽子。

 丸いサングラス。

 腰には安っぽいポーチがいくつもぶら下がっている。


 背は低く、声は高い。


「兄ちゃん、都会の人? 歩き方がシュッとしとるなあ!」


 ミナトは、ぶつかられた肩を軽く払った。


「前見て歩きなよ」


「見とった見とった! 見とったけど床が悪いねん。床がワシを転ばせにきた」


「床に嫌われてるんだ」


「せや。ワシは床にも天井にも時代にも嫌われとる」


 小柄な男は、妙に大げさな身振りで嘆いた。


 周囲の客が少し笑う。


 道化。


 ミナトは、そう判断した。


 場を温めるタイプの下っ端。


 浪華色街には、こういう人間が何人もいる。


 賭け客を笑わせ、緊張をほぐし、時には財布を軽くする。


 情報価値は低い。


 ミナトはそう判断しかけた。


「ほな、お詫びにええこと教えたるわ」


 小柄な男が、にやりと笑った。


「今日の第八試合、翠が出るらしいで」


 ミナトの足が止まった。


 男は、それを見逃さなかった。


 サングラスの奥で、目が笑っている気がした。


「お、食いついた?」


「翠は珍しいからね」


 ミナトは、何でもないように返す。


「名前は?」


「それ聞くには札買わな」


「いくら」


「兄ちゃんの端末一個」


 ミナトは笑った。


「高いね」


「情報は生ものやからな」


「古い芸だ」


「芸が古くても金は新しい方がええ」


 男はくるりと回った。


「まあ、ええわ。ワシ優しいからヒントだけ。東京から来た若い子や」


 ミナトの内側が冷える。


 相原だ。


 ほぼ間違いない。


 男はさらに続ける。


「怖がりで、弱くて、でも二回目がちょっと上手い。そういう子、客が好きやねん」


 ミナトは表情を変えなかった。


 変えなかったつもりだった。


 男は笑う。


「兄ちゃん、今ちょっと怖い顔したで」


「元からこういう顔」


「嘘やなあ」


 男は踊るように後ろへ下がる。


「ほな、楽しんでってや。虹札倶楽部へようこそ!」


 そう言って、人混みに紛れた。


 ミナトは追わなかった。


 追うべきか、一瞬迷った。


 だが、ここであの小男を追えば、相原に反応したと周囲に見せることになる。


 ミナトは、視線だけで小男の動きを追う。


 派手な帽子が、観客席の間をちょこまか動く。


 誰かに話しかけ、笑わせ、肩を叩き、くるくる回る。


 ただの道化。


 そう見える。


 見えるが。


 ミナトは自分のポケットに手を入れた。


 端末。


 ある。


 もう一つの端末。


 ある。


 鍵。


 ない。


 ミナトの指が止まった。


 バックアップ端末用の物理認証キー。


 小さな金属片。


 さっきまで内ポケットに入っていた。


 ない。


 ミナトは、ゆっくり息を吐いた。


「……やられた」


 さっきぶつかった時。


 小男は端末ではなく、認証キーを抜いた。


 しかも、ミナトが気づくまでの時間を稼ぐために、相原の情報を餌にした。


 下っ端ではない。


 少なくとも、ただの道化ではない。


 ミナトは、人混みの中で小男を探す。


 いた。


 観客席の上段。


 小男は振り返り、サングラスを少し下げた。


 口が大きく笑う。


 そして、指先に小さな金属片を挟んで見せた。


 ミナトの認証キー。


 小男は、声が届くはずのない距離で口だけ動かした。


 読めた。


『もろたで』


 次の瞬間、観客が立ち上がった。


 試合場で決着がついたのだ。


 歓声が爆発する。


 視界が遮られる。


 ミナトが一歩踏み出した時には、小男の姿は消えていた。


 人混み。

 歓声。

 金の匂い。

 色の倍率。

 そして、盗まれた認証キー。


 ミナトは、久しぶりに心の底から腹が立っていた。


 怒りを顔に出すのは損だ。


 分かっている。


 分かっているが、少しだけ口元が引きつった。


「……あの小さいの」


 ミナトは端末を開く。


 盗まれたキーからアクセスされる前に、バックアップ端末の一部を凍結する。


 だが、完全には止めない。


 止めれば、相手はキーを捨てる。


 少しだけ泳がせる。


 どこから接続するかを見る。


 相原の情報。

 浪華色街の内部。

 小柄な道化。

 盗まれた認証キー。


 最悪だ。


 だが、糸はできた。


 ミナトは、端末の画面に表示された接続待機ログを見つめた。


 怒りはある。


 かなりある。


 けれど、怒りは後でいい。


 今は、利用する。


 売らない情報を守るために。

 さらわれた翠を戻すために。


 観客席のどこかで、派手な声が聞こえた。


「次の札、買うなら今やで! 伸びる翠は倍率が命や!」


 ミナトは、ゆっくり顔を上げた。


 バグ丸。


 誰かが、その小男をそう呼んでいた。


 笑い声の中で、ミナトはその名前を覚えた。


 そして、久しぶりに本気で思った。


 あいつは必ず捕まえる。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、ミナト視点で浪華色街へ入る回でした。


色相がすでに賭けの倍率として扱われている場所。

相原の翠も、完全に見世物として登録されかけています。


そして、バグ丸が初登場しました。

一見ただの道化ですが、ミナトの認証キーを抜き取るくらいには厄介です。


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