第72話 さらわれた翠
石動レンからの通話が切れた後、黒瀬透真はしばらく端末を握ったまま動けなかった。
相原ユウがさらわれた。
ロロに。
花束を持って現れた人物が、管理局提携の医療施設から相原を連れ去った。
報告は短かった。
けれど、必要な情報は揃っていた。
場所は、探索者用の簡易医療施設。
相原は頬の傷と色相反応の確認のため、観察室にいた。
石動たちは近くにいた。
ロロは花束を持って現れた。
相原は一度逃げようとして失敗した。
二度目でナースコールに触れた。
しかし、その直後に意識を落とされ、連れ去られた。
石動は、何度も「すみません」と言っていた。
俺たちが守るって言ったのに。
戻る条件を決めたのに。
近くにいたのに。
その声は、責任感というより、後悔そのものだった。
透真は、石動を責めなかった。
責めるべきではないと思った。
ロロは、透真の首にナイフを当てられる距離まで近づいた相手だ。
相原の先輩たちが油断していたから連れ去られた、というほど単純ではない。
だが。
それでも。
相原がいない。
その事実だけが、透真の胸の中で重く沈んでいた。
端末が震える。
佐伯ユズルからだった。
『黒瀬さん。今どこですか』
通話に出ると、佐伯の声は普段より硬かった。
「相談窓口近くです」
『そこから動かないでください』
「相原さんがさらわれました」
『把握しています』
「なら、動かないわけには」
『動けば、相手の思う壺です』
佐伯の声が、強くなった。
透真は言葉を止める。
『ロロは、あなたの反応を見ています。前回、相原さんの名前にあなたが反応した。その直後に相原さんへ接触した。今回の誘拐は、相原さん本人だけでなく、あなたへの餌でもあります』
「分かってます」
『分かっているなら、今すぐ動かないでください』
分かっている。
そのはずだった。
ロロは相原を狙った。
だが、それだけではない。
相原を使って、透真を動かそうとしている。
透明が、誰の名前で濁るのか。
ロロはそれを見たがっている。
だから、今すぐ飛び出せば、ロロの観察結果を増やすだけだ。
透真は分かっていた。
分かっているのに、足が勝手に動きそうになる。
相原は弱い。
自分は弱いのに、ようやく怖いと言えるようになった。
失敗を手順に変え始めた。
戻る道を確認できるようになった。
その矢先だった。
育つ前に、折られる。
ロロの言葉が、頭の奥に残っている。
「佐伯さん」
『はい』
「相原さんは、生きていますか」
通話の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
『現時点で、死亡を示す情報はありません』
「それは、生きている証拠ではない」
『はい』
佐伯はごまかさなかった。
『ですが、ロロがその場で殺さず連れ去ったことには意味があります。即座に殺害する目的なら、医療施設内で可能だったはずです』
「見たいから」
『おそらく』
ロロは、相原の成長を見たいと言った。
翠がどう育つのか。
透明がどう濁るのか。
それを見たいから、相原を連れ去った。
最悪だ。
だが、その最悪さが、相原がまだ生きている可能性になっている。
透真は奥歯を噛んだ。
「俺は何をすればいいですか」
『まず、あなたが受け取ったロロ関連の全メッセージ、前回接触時の鑑定表示、今回の石動さんからの報告を時系列で整理してください』
「今それをしている間に、相原さんが」
『黒瀬さん』
佐伯の声は静かだった。
『焦って動いても、あなたはロロに勝てません』
その言葉は、容赦がなかった。
でも、事実だった。
透真は戦えない。
ロロに首筋へ刃を当てられても、何もできなかった。
危険を見ても、止められなかった。
相原を狙うと分かっていても、守れなかった。
『あなたが行くなら、情報が必要です。道が必要です。味方が必要です』
「……はい」
『こちらでも医療施設周辺の映像、交通ログ、通信履歴を追います。ただし、ロロは意図的に痕跡を薄くしています。通常の追跡だけでは難しい』
佐伯の声が、少し低くなる。
『鴉羽ミナトさんに連絡します』
「ミナトさんに?」
『裏の情報経路が必要です。ロロは正規の探索者ルートだけで動いていない可能性が高い』
透真は、ミナトの顔を思い浮かべた。
信用できるのか、できないのか分からない男。
情報を売ることもある。
隠すこともある。
冗談のような顔で、人の痛いところを避けたり突いたりする。
だが、今回必要なのは、まさにそういう場所へ手を伸ばせる人間だった。
「俺からも連絡します」
『構いません。ただし、単独行動はしないでください』
「分かっています」
『本当に?』
佐伯が疑っている。
当然だった。
透真は、自分でも自分を信用しきれなかった。
相原の名前を出された時、透真は動きそうになった。
ロロはそれを見ていた。
今回も、同じことをするかもしれない。
「分かっているつもりです」
『なら、つもりで止まってください』
佐伯らしい言い方だった。
通話が切れる。
透真は、すぐに端末を開いた。
ミナトへ通話をかける。
数コール。
繋がった。
『はいはい。嫌な予感しかしない時間帯の黒瀬くんだ』
「相原さんがさらわれました」
通話の向こうの空気が変わった。
ミナトの声から、軽さが一段消える。
『ロロ?』
「はい」
『場所は』
「管理局提携の医療施設。花束を持って観察室へ入って、相原さんを連れていきました」
『なるほどね』
ミナトは短く言った。
その声が冷静すぎて、透真は少し苛立った。
「驚かないんですか」
『驚いてるよ。ただ、声に出すと君がもっと焦るから出してないだけ』
「……すみません」
『謝らなくていい。怒ってるのも焦ってるのも正常』
ミナトは、すぐに続けた。
『医療施設の位置情報、送って。あと石動くんたちから聞いた時系列。花束、煙、窓、相原くんが押したナースコールの時刻。全部』
「今送ります」
透真は、記録をまとめて送信する。
ミナトは通話をつないだまま、何かを操作し始めた。
キーを叩く音。
短い沈黙。
『まず、医療施設の正面映像は使えないね』
「もう見たんですか」
『見たというか、見えない。ちょうど該当時間帯だけ、搬入車両の影で死角ができてる。偶然ならすごいね』
「偶然ではない」
『だろうね』
ミナトの声が少し低くなる。
『裏口、非常階段、隣の建物の防犯カメラ。こっちは残ってる。ただし、ロロ本人は映ってない。映ってるのは、相原くんを積んだ可能性がある車両だけ』
「車両」
『白い配送車。医療廃棄物回収を装ってる。でもナンバーが途中で変わってる。偽装だね』
透真は拳を握った。
「追えますか」
『正規ルートでは途中まで。都内を西へ抜けた後、ログが薄くなってる』
「薄く?」
『追跡カメラが少ないルートを選んでる。あと、途中で車を乗り換えてる可能性が高い』
透真は、思わず立ち上がりかけた。
どこへ向かえばいいのかも分からないのに。
ミナトが言う。
『黒瀬くん』
「はい」
『立った?』
「……立ちかけました」
『座って』
透真は、言われるまま椅子に座った。
『君、今すごく分かりやすい。ロロが見たら喜ぶよ』
「分かってます」
『分かってても動くタイプの顔してるから言ってる』
言い返せなかった。
ミナトは操作を続ける。
『車両ログだけじゃ足りない。裏の搬送ルートを見る』
「裏の搬送ルート?」
『探索者の違法装備、魔物素材、記録端末、薬品、借金持ちの新人。そういう表に出せないものを運ぶルート』
「そんなものまで知っているんですか」
『昔取った杵柄ってやつ』
ミナトは軽く言った。
だが、その言葉の裏にあるものは軽くない。
鴉羽ミナトは、情報屋だった。
売る情報と売らない情報を選ぶようになったのは、最近のことだ。
それ以前の彼が、どこまで深い場所にいたのか。
透真は、まだ知らない。
『あった』
ミナトの声が変わった。
「何が」
『都内から関西方面へ抜ける非正規の探索者物流ルート。医療廃棄物、魔物素材、違法ドローン部品の名目で荷物を流すやつ』
「相原さんがそこに?」
『可能性が高い。ロロ本人が直接ずっと運ぶより、途中でそういうルートに乗せた方が追跡を切りやすい』
関西。
その言葉が、急に遠く感じた。
都内で起きた誘拐が、もう関西方面へ繋がっている。
早い。
早すぎる。
「どこへ向かっているんですか」
ミナトは少し黙った。
その沈黙が、嫌だった。
『浪華色街』
「なにわ、いろまち?」
『関西の半グレ系探索者集団。表向きは違法配信と賭け試合。裏では色相能力者のデータ売買、闇契約、能力見世物興行みたいなこともやってる』
透真の喉が詰まる。
相原。
翠。
成長する能力。
ロロは、それを見たいと言った。
浪華色街という場所が、能力者を見世物にする場所なら。
「相原さんを、そこへ連れていくつもりですか」
『たぶんね』
ミナトの声は低かった。
『相原くんは戦闘向きじゃない。でも、翠は育つ。失敗から変わる。賭け試合で見せ物にするには、かなり悪趣味で面白い素材だよ』
「素材って言わないでください」
『ごめん。向こうがそう見るって意味』
分かっている。
ミナトがそう思っているわけではない。
だが、その言葉に怒りが湧く。
相原は素材ではない。
見世物ではない。
弱い新人探索者で、怖がりで、でも二度目に少しだけ動けるようになった少年だ。
それだけの人間だ。
だから、連れ戻さなければならない。
「俺も行きます」
透真は言った。
通話の向こうで、ミナトがため息をついた。
『言うと思った』
「止めても無駄です」
『止めるよ。一応』
「でも行きます」
『だろうね』
ミナトは、少しだけ声を柔らかくした。
『黒瀬くん。君が行くと餌になる』
「分かっています」
『分かってない。ロロは、相原くんを見たいんじゃない。相原くんを見ている君も見たいんだよ』
透真は何も言えなかった。
『君が来る。焦る。怒る。見えるのに止められない。そういう顔を見たい。だから、君が行けばロロは喜ぶ』
「それでも、相原さんを戻すには」
『必要かもしれない』
ミナトは否定しなかった。
『君の鑑定は要る。相原くんの色を見たのは君だし、ロロの色も見てる。向こうの仕組みを読むには、たぶん君が必要になる』
「なら」
『でも、君が先頭で走ったら終わる。だから俺が先に行く』
「ミナトさんが?」
『俺はあの辺に少し伝手がある』
「浪華色街に?」
『昔ね。情報を売ったことも、買ったことも、売られかけたこともある』
さらっと言う。
だが、その声は笑っていなかった。
『あそこは、正面から殴り込む場所じゃない。誰が誰に借金してるか、どの試合が八百長で、どの倉庫が通行可能で、どの配信者が裏の入口を持ってるか。そういうのを知らないと入った瞬間に詰む』
「そんな場所に、相原さんが」
『だから急ぐ』
ミナトの声が少しだけ鋭くなった。
『俺が先に関西へ入る。現地のルートを探る。君は佐伯さんと合流して、正式に動ける準備をして』
「正式に動いている間に遅れたら」
『正式と非正式の両方で動くんだよ』
ミナトは言った。
『佐伯さんは管理局のルート。俺は裏のルート。君はその間で、必要になった時に透明を使う』
「俺は待つだけですか」
『待つのも仕事』
「相原さんがさらわれているのに」
『だからこそ』
ミナトの声は、珍しく強かった。
『君が今一人で行ったら、相原くんだけじゃなくて君も取られる。そうなったら、誰が戻す道を見るの?』
透真は言葉を失った。
戻す道。
第一部から、ずっと追ってきた言葉。
休む場所。
戻る場所。
選び直す道。
相原を戻すには、透真が壊れてはいけない。
それは分かる。
でも、胸が納得しない。
今すぐ動けと叫んでいる。
ミナトは、少し息を吐いた。
『君が行くと餌になる。でも、どうせ来るんだろ』
透真は黙った。
『だから、餌になるにしても、針くらい仕込もう』
「針」
『ロロが君を見たいなら、見せるものを選ぼう。君がただ焦って壊れるところじゃなくて、ちゃんと相原くんを戻すために動くところを見せる』
透真は、端末を握り直した。
「どうすればいいですか」
『まず、佐伯さんに俺からも連絡する。君は相原くんに関する鑑定記録を全部まとめて。あと、ロロに見られた君の反応も書いて』
「俺の反応も?」
『そこが一番大事。ロロは君の反応を使って動いてる。何に反応したか、どの言葉で怒ったか、どこで動きかけたか。それを見直さないと、また使われる』
痛い指摘だった。
でも、必要だった。
「分かりました」
『あと、リアちゃんとセイラちゃんには今すぐ詳細を送らない方がいい。動くから』
「二人なら動くでしょうね」
『特にリアちゃんは配信を切ってても走るし、セイラちゃんは財団の権限で医療施設を買い取りかねない』
「……ありそうですね」
『でしょ。情報共有は佐伯さん経由で制御。カナタくんには撤退条件と契約面で相談。神楽坂さんは管理局側の証言者として動けるか確認』
ミナトは、次々に役割を切っていく。
普段の軽さが嘘のようだった。
いや。
軽く見せているだけで、こういう人間なのかもしれない。
情報を売ってきたからこそ、人の動かし方を知っている。
人の焦りも、欲も、弱さも。
透真は深く息を吸った。
「ミナトさん」
『ん?』
「相原さんを、戻したいです」
『うん』
「お願いします」
通話の向こうで、少しだけ沈黙があった。
それから、ミナトがいつもの調子に少しだけ戻る。
『そういう素直なお願い、君にされると断りにくいんだよね』
「断るつもりでしたか」
『ないよ』
ミナトは短く言った。
『俺も、あの子は戻した方がいいと思ってる』
「理由を聞いても?」
『売らない情報に価値があるって、最近ちょっと覚えたから』
それだけ言って、ミナトは通話を切った。
透真は、しばらく端末を見つめていた。
怒りは消えない。
焦りも消えない。
だが、少しだけ形になった。
相原を戻す。
そのために、今やることがある。
透真は、机に座り、記録を開いた。
相原ユウ。
最初の相談。
撤退条件。
色相:翠。
二度目の手順。
第三層訓練。
緑のノイズ。
ロロの接触。
誘拐。
そして、ロロ。
色相:紅/黒。
嘘:殺すかどうかは決めていない。
危険:予測不能。
祈り:壊れる瞬間を見たい。
透真は、指を止めた。
ロロは、壊れる瞬間を見たい。
相原が壊れる瞬間。
透真が濁る瞬間。
なら、そこを逆に使う。
壊れる瞬間ではなく、戻す瞬間を見せる。
そんな綺麗なことを考えている自分を、透真は少し甘いと思った。
相手は遊びで人をさらう人間だ。
綺麗事で勝てる相手ではない。
でも、綺麗事を捨ててしまえば、ロロの望む方へ近づく気がした。
だから、捨てない。
甘くても、持っていく。
端末が震える。
佐伯からのメッセージ。
『鴉羽さんと連携します。黒瀬さんは現在地を共有してください。単独行動は禁止です』
続いて、もう一件。
ミナトから。
『浪華色街の入口を探る。君はまだ来るな』
その後に、もう一文。
『でも来る準備はしておいて』
透真は、短く返信した。
『分かりました』
そして、相原の最後のメッセージを開いた。
『映像に、緑っぽいノイズがありました。関係あるか分かりません』
その文章を見て、透真は目を閉じた。
関係はある。
ありすぎるほどある。
相原が見つけた小さなノイズ。
それが、今や人をさらう理由になっている。
それでも、あの翠は間違いではない。
相原が失敗を手順に変えたことは、間違いなく彼の力だった。
誰かに奪われるための価値ではない。
相原自身が、怖いまま進むための力だ。
戻さなければならない。
透真は端末を閉じた。
その頃。
関西方面へ向かう高速道路のどこかで、一台の貨物車が夜の中を走っていた。
荷台は暗い。
金属の床が、走行の振動で小さく鳴っている。
相原ユウは、薄く目を開けた。
頭が重い。
首筋が痛い。
手首には拘束具。
足も固定されている。
声を出そうとしたが、口の中が乾いてうまく動かなかった。
それでも、相原は必死に周囲を見た。
暗い荷台。
箱がいくつか積まれている。
花の匂いはもうほとんどしない。
代わりに、油と金属の匂い。
車の揺れ。
右へ大きく曲がった。
少しして、路面が滑らかになった。
高速道路かもしれない。
何かを覚えなければ。
失敗を、手順にするために。
逃げられなかった。
連れ去られた。
でも、まだ終わっていない。
相原は、薄れる意識の中で耳を澄ませた。
荷台の外で、男たちの声がする。
「登録は済ませたか」
「済んでる。翠、未成熟。観察枠」
「名前は」
「相原ユウ」
「ランクは」
「E。戦闘力は低い」
「なら初戦は調整枠だな」
登録。
初戦。
観察枠。
相原は、その言葉の意味を考えようとした。
しかし、薬がまだ残っている。
意識が沈む。
最後に聞こえた声は、笑っていた。
「浪華色街へようこそ、ってな」
相原は、その言葉を覚えた。
浪華色街。
自分がどこへ連れていかれるのか。
分かった。
分かっただけで、まだ何もできない。
でも、覚えた。
一度目は、逃げられなかった。
なら、次に何をするか。
相原ユウは、暗い荷台の中で、意識を失う直前までその言葉を繰り返した。
浪華色街。
浪華色街。
浪華色街。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、相原ユウ誘拐後の回でした。
透真はすぐに動こうとしますが、佐伯に止められます。
ロロにとって透真自身も餌であり、焦って動けば利用されるからです。
一方で、ミナトが裏の物流ルートを辿り、相原が関西の浪華色街へ運ばれている可能性を掴みました。
次回から、舞台は少しずつ裏社会側へ移っていきます。
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