第71話 ロロ、花束を持ってくる
相原ユウは、自分が病院にいることに、まだ少し違和感があった。
病院と言っても、大きな総合病院ではない。
管理局と提携している探索者用の簡易医療施設だ。
低ランクダンジョンで負った軽傷や、探索後の異常反応を確認するための場所。
診察室は白く、廊下は静かで、壁には探索者向けの注意書きが貼られている。
ダンジョン内の負傷は軽く見ないこと。
魔物による傷は、浅くても必ず洗浄処置を行うこと。
精神干渉、記憶混濁、異常な色彩反応が見られた場合は、速やかに管理局へ報告すること。
最後の一文を見た時、相原は思わず足を止めた。
異常な色彩反応。
まるで、自分のことを言われているようだった。
第三層での撤退訓練。
一度目は爪鼠の動きに反応できず、頬を掠られた。
二度目は、同じ状況を見て、天井への跳躍を読めた。
それだけなら、ただの経験だと言えた。
失敗から学んだ。
次に活かした。
探索者なら、誰でもやることだ。
でも、端末の映像には緑のノイズが残っていた。
黒瀬透真は、それを「色相」と言った。
翠。
相原ユウの色。
まだ、実感はない。
自分の体が光った感覚もない。
何か特別な力が湧いた感覚もない。
ただ、一度失敗した場面が、頭の中で手順に変わった。
小石の音。
爪鼠の反応。
天井への跳躍。
盾の角度。
弓の射線。
怖かった映像が、二度目には少しだけ読めた。
それが嬉しくて。
同じくらい、怖かった。
「ユウ」
石動レンの声で、相原は我に返った。
「大丈夫か?」
「あ、はい」
「顔色悪いぞ」
「ちょっと緊張してるだけです」
相原がそう言うと、高峰サナが横から覗き込んだ。
「それ、ちゃんと言えてるのは偉いけど、無理なら無理って言ってね」
「はい」
熊谷ダイチは無言で頷いた。
石動たちは、昨日から少し変わった。
劇的に優しくなったわけではない。
別人になったわけでもない。
でも、相原が「怖い」と言うと、笑わずに聞くようになった。
それだけで、相原にとっては大きかった。
頬の傷は浅い。
処置だけなら、すぐに終わる。
ただ、緑のノイズの件もあって、管理局から「追加確認をしたい」と言われていた。
石動たちは、相原を一人にしないように待合室に残ってくれた。
相原だけが、簡易観察室へ通された。
白いベッド。
小さな机。
カーテン。
壁際のナースコール。
相原はベッドに腰かけ、端末を握った。
黒瀬からのメッセージが届いている。
『訓練記録を確認しました。怪我が浅くてよかったです』
『二度目に対応できたことは大きいです。ただし、無理に繰り返そうとしないでください』
『失敗を手順にすることと、自分を追い込むことは違います』
相原は、その最後の一文を何度も読んだ。
失敗を手順にすることと、自分を追い込むことは違う。
分かるようで、まだ分からない。
自分は弱い。
だから、失敗から学ばなければならない。
二度目にできるなら、二度目は必ずできなければならない。
そう考えそうになる。
でも、黒瀬はたぶん、それは違うと言っている。
翠。
育つ力。
でも、育つことを強制されたら、それは別の何かになる。
相原は、頬の医療シートにそっと触れた。
少しだけ痛い。
その痛みが、昨日の訓練が本当にあったことを教えてくれる。
自分は失敗した。
戻った。
もう一度行った。
少しだけできた。
それだけでいいのかもしれない。
今は。
カーテンの向こうで、足音がした。
相原は顔を上げた。
看護師だと思った。
しかし、声はなかった。
足音は、相原の観察室の前で止まる。
静かすぎた。
病院の廊下で、誰かが立ち止まるなら、服の擦れる音や端末の音がする。
でも、その足音は止まった後、急に存在感を消した。
相原の背筋に、嫌なものが走る。
カーテンの隙間から、花束が差し込まれた。
白と淡い黄色の花。
綺麗だった。
だからこそ、異様だった。
「お見舞い」
軽い声。
相原は息を止めた。
知らない声。
でも、聞いた瞬間に分かった。
この人は、普通ではない。
カーテンがゆっくり開く。
そこに立っていたのは、年齢の読みにくい人物だった。
男にも見える。
女にも見える。
細い体。
柔らかい笑み。
整いすぎて、逆に印象が定まらない顔。
手には花束。
病室に来た見舞客のような姿。
それなのに、目だけが違った。
心配していない。
同情もしていない。
相原を見る目は、珍しい虫を瓶の中に入れて眺める子どものようだった。
「相原ユウくん?」
相原は答えられなかった。
喉がひりつく。
「合ってるよね」
その人物は勝手に椅子を引き、相原の横に座った。
動きが自然すぎた。
まるで、最初からここに座る権利があったかのように。
「誰、ですか」
相原はようやく声を出した。
声が震えていた。
「ロロ」
短い名前。
相原はその名前を知らない。
しかし、その名前が口にされた瞬間、室内の温度が少し下がった気がした。
ロロは花束を机に置く。
「似合わない?」
「え?」
「君、花束もらい慣れてなさそうだから」
言葉の意味が分からない。
いや、意味は分かる。
分かるが、何を返せばいいのか分からない。
相原の視線が、壁際のナースコールへ動いた。
押せば、誰かが来る。
石動たちも、すぐ近くにいるはずだ。
その視線を、ロロは当然のように追った。
「押す?」
相原の指が止まる。
「押してもいいよ。看護師さんが来るかな。管理局の人かな。石動先輩たちかな」
石動。
高峰。
熊谷。
名前は出していない。
でも、ロロは知っている。
相原の心臓が跳ねた。
ロロは笑った。
「来るまでに、僕が何歩動けるか試してみる?」
優しい声だった。
だが、その意味は、脅しだった。
相原はナースコールから手を離した。
「いい子」
ロロは本当に嬉しそうに言った。
相原は自分の膝の上で拳を握る。
怖い。
叫びたい。
逃げたい。
でも、体が動かない。
ロロは、相原の顔を覗き込んだ。
「翠って、育つんだってね」
相原の呼吸が止まった。
「なんで、それを」
「知ってるから」
「誰から」
「それ、知ってどうするの?」
ロロは首を傾げる。
「知ったら逃げられる?」
何も言えない。
相原は、唇を噛んだ。
ロロは花束の中から、白い花を一本抜いた。
茎を指先でゆっくり回す。
「君、弱いよね」
相原はうつむいた。
「はい」
「即答なんだ」
「事実なので」
「そっか」
ロロは退屈そうに花を見た。
「でも、俺なんかって顔をするのは、ちょっとつまらない」
相原は顔を上げる。
「え?」
「弱いのはいいよ。怖いのもいい。震えるのもいい。逃げたいのもいい。でも、自分には価値がないって決めるのは早い」
ロロは、相原の手元に花を置いた。
「君はこれから価値が出るんだから」
言葉が、冷たく体の中に入ってくる。
価値。
人としてではない。
能力として。
成長するものとして。
見ていて面白いものとして。
ロロは相原を見ている。
相原ユウという人間ではなく、育つ翠として。
「俺に、何をするつもりですか」
相原は言った。
声は震えていたが、何とか言葉になった。
ロロは少し考えるように目を細める。
「まだ決めてない」
「決めてない?」
「うん。今殺すには薄いし、放っておくには面白すぎる」
相原の指先が冷える。
「殺す……」
「あ、今は殺さないよ」
ロロは軽く笑う。
「君、今はまだ折っても音が小さそうだし」
この人は、冗談を言っているのではない。
そう分かった。
心のどこかで、本気で相原を折ることを考えている。
それを悪いことだと思っていない。
相原は、視線だけで部屋を確認した。
入口まで三歩。
カーテンの向こうに廊下。
廊下へ出れば、右に待合室。
石動たちはたぶんそこにいる。
ナースコールは左。
ロロは椅子に座っている。
足を組んでいる。
花を持つ右手。
左手は袖の中に隠れている。
何か持っているかもしれない。
相原は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
逃げられるか。
無理だ。
でも、逃げなければ。
ロロが、相原の視線の動きに気づいて笑った。
「逃げる?」
相原は答えない。
次の瞬間、相原はベッドから飛び降りた。
入口へ向かう。
体は重い。
足がもつれそうになる。
でも、動けた。
一歩。
二歩。
カーテンまで、あと少し。
その時、視界が横にずれた。
ロロがいた。
さっきまで椅子に座っていたはずなのに。
相原の前に、もう立っていた。
「一度目」
ロロの声。
相原の腹に、軽く手が触れる。
押された。
強くはない。
なのに、相原の体は簡単にバランスを崩した。
足が絡み、床へ倒れ込む。
痛みより先に、悔しさが来た。
やっぱり。
やっぱり無理だった。
逃げられない。
弱い。
何もできない。
ロロは、倒れた相原を見下ろしている。
「いいね」
何がいいのか分からない。
相原は床に手をつき、息をする。
心臓がうるさい。
ロロの動きが見えなかった。
椅子に座っていたはずなのに、カーテンの前にいた。
いや。
違う。
見えていなかったわけではない。
見ていなかった。
ロロが立った瞬間、相原は入口だけを見ていた。
相手の足を見ていなかった。
歩幅。
床を蹴る音。
距離。
ロロは一歩で詰めたのではない。
たぶん、二歩。
一歩目が小さく、二歩目が異様に長い。
いや、逆か。
相原は床に倒れたまま、ロロの足元を見た。
靴の向き。
重心。
右足のつま先が、少し外を向いている。
動き出しの癖。
ロロは、相手の視線を入口へ誘導し、自分は斜めから入る。
さっきの爪鼠と同じではない。
でも、似ている。
一度目の失敗。
二度目の手順。
相原の呼吸が変わった。
怖い。
でも、頭が動いている。
ロロが嬉しそうに目を細める。
「あ」
気づかれた。
相原は、もう一度立ち上がった。
「まだやるの?」
ロロは楽しそうに言った。
相原は答えなかった。
今度は、入口を見ない。
ロロの足を見る。
正面から逃げるふりをする。
ロロの右足がわずかに開く。
斜めに入る。
その瞬間、相原は逆へ体を倒した。
逃げるのではなく、ベッドの側面へ滑り込む。
ロロの手が、空を切った。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
相原はロロとの距離を取った。
カーテンへは行けない。
でも、ナースコールに手が届く。
相原は手を伸ばした。
指先が、ボタンに触れる。
押す。
警告音が鳴った。
室内に、短い電子音が響く。
相原は荒い息を吐いた。
押せた。
助けを呼べた。
ロロは、動きを止めていた。
怒っているのかと思った。
違った。
笑っていた。
今までで一番、嬉しそうに。
「すごい」
ロロは拍手した。
軽く、ゆっくり。
「一度目より二度目。ちゃんと変わった」
相原は、ナースコールのボタンを押したまま、震えていた。
廊下の向こうで足音がする。
誰かが来る。
石動たちも気づくはずだ。
逃げられる。
そう思った瞬間、ロロの姿が消えた。
いや、消えたように見えた。
黒い影が、相原の視界の端を滑る。
次の瞬間、首筋に軽い衝撃。
「二度目は合格」
ロロの声が、耳元で聞こえた。
「でも、三度目までは待たない」
体から力が抜ける。
相原は床に崩れた。
意識が落ちる直前、カーテンの向こうで声がした。
「ユウ!」
石動の声。
高峰の悲鳴。
熊谷の足音。
でも、遠い。
ロロは、倒れた相原を軽々と抱えた。
カーテンの向こうから石動が飛び込んでくる。
目が合った。
石動の顔が怒りに変わる。
「お前、誰だ!」
「見舞客」
ロロは笑った。
熊谷が盾を構える。
高峰が弓を構えようとする。
しかし、場所が悪い。
ここは病院だ。
狭い観察室。
周囲には患者と職員。
相原はロロに抱えられている。
下手に動けば、相原に当たる。
石動が歯を食いしばる。
「ユウを離せ」
「やだ」
ロロは即答した。
子どものような返事だった。
熊谷が一歩踏み込む。
その瞬間、ロロの気配が薄くなった。
黒。
そこにいるのに、視線が滑る。
見ているはずなのに、意識が逸れる。
高峰が矢を番えたまま、狙いを定められない。
「何、これ……!」
ロロは相原を抱えたまま、窓際へ移動していた。
動きが速いのではない。
認識が遅れる。
気づいた時には、そこにいる。
ロロは窓を指先で軽く叩いた。
ガラスに細い罅が入る。
そして、次の瞬間。
窓が割れた。
外の非常階段へ、ロロが飛び出す。
石動が追おうとする。
だが、観察室の床に落ちた花束が、彼の足元で弾けた。
白い花びらの中に、細い煙。
「下がれ!」
熊谷が叫び、盾を出す。
煙は毒ではなかった。
少なくとも、即効性のあるものではない。
だが、視界を白く塗りつぶすには十分だった。
石動は咳き込みながら叫ぶ。
「ユウ!」
返事はない。
煙が晴れた時、窓の外にロロの姿はなかった。
非常階段にも。
下の路地にも。
どこにも。
ただ、机の上に、白い花が一本だけ残されていた。
茎に、小さな紙片が結ばれている。
石動がそれを掴み、開いた。
短い文章。
『翠の子、少し借りるね』
石動の手が震えた。
高峰が口元を押さえる。
熊谷は壁を殴った。
管理局職員が駆け込んでくる。
警報が鳴る。
病院の中が騒然となる。
石動は、すぐに端末を取り出した。
黒瀬透真へ連絡する。
指が震えて、うまく打てない。
それでも送る。
『ユウがさらわれました』
送信。
すぐに既読がつく。
だが、返事はなかった。
数秒後、着信。
黒瀬透真。
石動は通話を取った。
『何がありましたか』
黒瀬の声は、低かった。
怒っているのか。
焦っているのか。
それとも、無理に抑えているのか。
石動には分からない。
ただ、声の奥にあるものが、普段と違うことだけは分かった。
「ロロって奴が来ました。花束を持って。ユウを……ユウを連れていきました」
『怪我人は』
「今のところ、ユウ以外はなしです。煙を使われました。ユウは意識を落とされて」
『相原さんは、生きていますか』
その質問に、石動は一瞬詰まった。
見ていない。
確認できていない。
でも、ロロは殺していない。
少なくとも、その場では。
「連れていかれました。殺されたわけじゃない」
『分かりました』
黒瀬は短く言った。
『その場を離れないでください。管理局に全て話してください。落ちていた物には触らないでください』
「でも、ユウを追わないと」
『追跡は管理局とこちらで考えます。石動さんたちは、見たことを記録してください』
「俺たちが、守るって言ったのに」
石動の声が震えた。
「戻る条件も決めたのに。俺たちがついてたのに」
通話の向こうで、黒瀬は少しだけ黙った。
それから言った。
『責めるのは後にしてください』
その声は冷たくはなかった。
でも、甘くもなかった。
『今は、相原さんを戻すための情報をください』
戻す。
その言葉に、石動は息を吸った。
そうだ。
戻る道。
相原はまだ戻れる。
戻さなければならない。
「分かりました」
石動は言った。
「全部、話します」
通話が切れる。
石動は、割れた窓を見た。
白い花びらが、床に散らばっている。
綺麗だった。
だから、余計に腹が立った。
その頃。
相原ユウは、揺れる車内で目を覚ましかけていた。
視界はぼやけている。
体は動かない。
口も、うまく開かない。
でも、音は聞こえる。
車の走る音。
タイヤが路面を拾う音。
誰かが鼻歌を歌っている音。
ロロだ。
相原は、必死に意識を繋ぎ止めようとした。
逃げなければ。
記録しなければ。
見なければ。
でも、体が重い。
首筋に打たれた何かが、まだ効いている。
ロロの声がした。
「起きた?」
相原は答えられない。
「すごかったよ、さっき」
ロロは楽しそうだった。
「一度目で転んで、二度目で僕の足を見た。ナースコールまで届いた。あれ、かなりよかった」
褒められている。
でも、嬉しくない。
気持ち悪い。
「だから、連れていくことにした」
ロロは言う。
「近くで見たいから」
相原は、ぼやけた視界の中で、車の窓を見た。
外の景色が流れている。
どこへ向かっているのか分からない。
ただ、街の明かりが少しずつ少なくなっている気がした。
「安心して」
ロロの声は優しい。
「まだ壊さないよ」
相原は、震える指を動かそうとした。
端末。
位置情報。
何か。
だが、手首には細い拘束具が巻かれていた。
動かない。
ロロが笑う。
「三度目は、もう少し難しくしようね」
相原は目を閉じそうになる。
意識が沈む。
その直前、黒瀬の言葉を思い出した。
失敗を手順にすることと、自分を追い込むことは違います。
今は、失敗した。
逃げられなかった。
連れていかれた。
でも、まだ終わっていない。
一度目。
次があるなら、二度目。
相原は、意識が落ちる前に、一つだけ覚えた。
車の中に漂う、花の匂い。
白と黄色の、甘すぎる匂い。
そして、ロロが鼻歌を歌う時、必ず二拍目だけわずかに遅れること。
それが何の役に立つのかは分からない。
でも、覚えた。
失敗を、手順にするために。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、ロロが相原ユウに接触し、そのまま連れ去る回でした。
相原は一度目の逃走には失敗しましたが、二度目でロロの歩幅の癖を読み、ナースコールに手を伸ばすところまでは成功しました。
それでもロロとの実力差はまだ大きく、結果として誘拐されてしまいます。
弱いままでも、見て、覚えて、次へ繋げる。
相原の翠は、そこにあります。
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