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第70話 透明は色ではない

 佐伯ユズルから呼び出しが来たのは、管理局の色相会議が終わった翌日の昼だった。


 場所は、管理局本部ではなかった。


 低ランク探索者向けの相談窓口から、歩いて十分ほどの場所にある小さな分室。


 管理局の看板は出ているが、利用者は少ない。

 主な用途は、契約相談や軽度の事情聴取。

 大きな事件を扱う場所ではない。


 つまり、目立たない。


 俺が指定された部屋へ入ると、佐伯はすでに待っていた。


 机の上には端末が一つ。

 紙資料が数枚。

 紙コップのコーヒーが二つ。


 佐伯は、いつものように疲れた顔をしている。


 ただ、今日は少しだけ目つきが鋭かった。


「急に呼び出してすみません」


「いえ」


 俺は向かいの椅子に座った。


「相原さんの件ですか」


「それもあります」


 佐伯は端末を操作した。


 画面に、相原ユウの訓練映像が映る。


 第三層。

 爪鼠。

 一度目の失敗。

 二度目の対応。

 そして、端末に走る緑のノイズ。


 俺はその映像を見ながら、あの日の鑑定表示を思い出した。


 色相:翠。


 未成熟な色相発現。


 一度目の失敗を、二度目の手順へ変換する傾向あり。


 佐伯が言う。


「この反応は、映像機器の不具合ではありませんでした。複数の記録に同時に残っています」


「やっぱり、相原さん自身の反応ですか」


「その可能性が高いです」


 佐伯は別の資料を出した。


 文字だけの資料。


 紅。

 蒼。

 翠。

 金。

 黒。

 白。

 紫。

 透明。


 八つの言葉が並んでいる。


「管理局内部では、これを色相反応と呼んでいます」


「色相反応」


「正式名称ではありません。まだ仮説です。ただ、相原さんの翠、白峰さんの過去配信に残った白と紅、九条さんの所有権に干渉した白鷺家の反応。複数の現象が、同じ枠組みで説明でき始めています」


 俺は資料を見た。


 文字だけなのに、妙に圧がある。


 色。


 たった一文字で、能力の性質を決められてしまうような怖さがある。


「これは、属性みたいなものですか」


「違います」


 佐伯は即答した。


「そこが一番誤解されやすい。火を出すから紅、水を操るから蒼、という単純な分類ではありません。能力が何に支えられているのか。どんな恐怖や願望、祈り、役割意識と結びついているのか。そちらに近い」


「祈り」


 その言葉に、俺は少しだけ反応した。


 S級ダンジョンで、俺の鑑定は祈りを見るようになった。


 嘘。

 危険。

 本音。

 祈り。


 そして今度は、色。


「相原さんの翠は、何なんですか」


「成長、適応、回復、反復。現時点では、そういう方向性に近いと見ています」


 佐伯は映像を戻す。


 一度目、相原は爪鼠の動きに対応できなかった。


 二度目、彼は同じ状況を見て、言葉にした。

 足元の小石。

 天井への跳躍。

 盾役の上方向警戒。

 弓の射線。


「相原さんの能力は、強い攻撃力ではありません。ただ、一度失敗した状況を手順に変え、二度目の成功率を上げる傾向がある」


「本人は、まだ気づいていません」


「でしょうね。だから扱いが難しい」


「本人に全部話すべきですか」


 佐伯は少しだけ間を置いた。


「今すぐ全部は危険です。ですが、隠しすぎるのも危険です」


 その言い方に、俺は少し笑いそうになった。


 笑えない話なのに。


「その中間ばかりですね」


「ええ。現実はだいたい中間です」


 佐伯は淡々と言った。


「相原さんには、あなたから伝えた範囲で十分だと思います。一度失敗したことを、次の手順に変える力があるかもしれない。だから、無理に前へ出ず、観察役として育てる。それ以上の情報は、本人の安全を見ながらです」


 俺は頷いた。


 相原は、自分が弱いと思っている。


 そこに「成長する色」なんて言葉を与えれば、希望になるかもしれない。


 でも同時に、重荷にもなる。


 成長しなければならない。


 二度目は成功しなければならない。


 翠だから期待に応えなければならない。


 そんなふうに、自分を追い込むかもしれない。


 名前は、人を助ける。


 でも、人を縛る。


「白峰さんや九条さんにも、似た反応が出ているんですか」


「はい」


 佐伯は資料を切り替えた。


「白峰リアさんは、白と紅に近い反応。配信者として視聴者と共鳴する白。危機時に感情と反応速度が跳ねる紅」


 リアの顔が浮かぶ。


 配信禁止区域での笑顔。

 謝罪配信での声。

 S級ダンジョンで避難情報を伝える時の表情。


 白。

 紅。


 確かに、どちらもリアの中にあるような気がした。


「九条セイラさんは金。所有、権利、領域、資源。ただし白鷺家の白、つまり承認や正統性に干渉されると揺らぐ可能性があります」


「セイラさん、かなり嫌がりそうですね」


「既に嫌がっています」


 佐伯は少しだけ疲れたように言った。


 財団初日に白鷺家が来たという話は、セイラから聞いている。


 所有権が揺らいだ、と。


 あの人にとって、それはかなり屈辱だったはずだ。


「神楽坂さんは白ですか」


「おそらく」


 佐伯は言った。


「大衆の信頼、正義、英雄像、共鳴。あの人の能力は、それらと深く結びついていたと考えています」


「それで、英雄像が崩れた時に弱くなった」


「可能性は高いです」


 俺は黙った。


 色は、力の説明になる。


 同時に、弱点の説明にもなる。


 リアの白は、配信や視聴者に利用されるかもしれない。

 セイラの金は、承認を揺らされれば鈍る。

 神楽坂の白は、信頼が崩れれば折れる。

 相原の翠は、育つ前に狙われるかもしれない。


 では、俺は。


「俺は、透明なんですよね」


 佐伯は、俺を見た。


「そう見ています」


「透明は、どういう色なんですか」


「厳密には、色ではない可能性があります」


 静かな声だった。


 俺は資料を見る。


 透明。


 他の七色と同じように並べられているが、そこだけ妙に空白に見えた。


「色ではない?」


「紅や白のように、特定の心理傾向や発動条件に強く寄るのではなく、他の色を透過して構造を見る。嘘、危険、本音、祈り、そして色相の歪み。黒瀬さんの鑑定は、そこに触れている可能性があります」


 俺は、自分の手を見た。


 何の色もない手。


 戦闘向きではない。

 魔物を倒せるわけでもない。

 誰かを腕力で守れるわけでもない。


 外れスキル。


 そう言われてきた。


 でも、嘘が見えた。

 危険が見えた。

 祈りが見えた。

 そして今は、色が見え始めている。


「透明って、便利ですね」


 自分でも少し嫌な言い方になった。


 佐伯は否定しなかった。


「便利です」


 はっきり言った。


「だから危険です」


 部屋の空気が少し重くなる。


「黒瀬さん。透明は、最も狙われやすい」


「佐伯さんにも前に言われました」


「何度でも言います。あなたは、自分で思っている以上に利用価値が高い」


 利用価値。


 嫌な言葉だった。


 でも、たぶん正しい。


 佐伯は続ける。


「色相能力が広まれば、能力者は自分の色を隠したがる。企業は測定したがる。名家は血統や承認と結びつけたがる。裏社会は売買する。管理局は危険管理に使いたがる」


「管理局も、俺を使いたいですか」


「はい」


 即答だった。


 俺は佐伯を見た。


「正直ですね」


「ここで綺麗事を言う方が不誠実です」


 佐伯は資料を閉じた。


「管理局は、あなたの鑑定を必要としています。現場の危険把握にも、色相反応の検証にも。ですが、それはあなたを管理局の所有物にしていい理由にはなりません」


 所有物。


 その言葉で、セイラの顔が頭をよぎる。


 そして、澪の記録のことも。


 人の記憶。

 人の恐怖。

 人の祈り。


 それらは、役に立つからといって、勝手に使っていいものではない。


「俺が協力しないと言ったら?」


「困ります」


「困るだけですか」


「上層部には、あなたを保護名目で管理下に置きたい人間もいます」


 佐伯は言った。


「研究対象として扱いたい人間もいる。危険物として隔離したい人間もいるでしょう」


「でしょうね」


「だから、先にあなたへ話しています」


 佐伯の声に、わずかな疲れが滲む。


「知らないまま囲われるより、知った上で拒否や交渉ができる方がいい」


 その言葉は、少しだけ救いだった。


 完全に信用できるわけではない。


 管理局は、何度も隠してきた。


 神楽坂も、澪の記録を隠していた。


 佐伯だって、管理局の人間だ。


 でも、今ここで彼は隠さずに言っている。


 俺を使いたい。

 管理したい人間もいる。

 狙われる。


 その危険を、俺自身に渡している。


 選ぶために。


「透明は、中立なんですか」


 俺は聞いた。


 佐伯は少し考えた。


「違うと思います」


「即答じゃないんですね」


「分からないことを即答したくありません」


 佐伯らしい答えだった。


「ただ、観測するということは、中立では終われません。見えた時点で、どう扱うかを選ばなければならない」


 その言葉は、胸に残った。


 見える。


 それだけなら、ただの能力だ。


 でも、見えたものを黙るのか。

 伝えるのか。

 利用するのか。

 守るのか。

 売るのか。


 そこに、選択がある。


 透明だから中立。


 そんな単純な話ではない。


「俺が色を見たら、どうすればいいんですか」


「まず、本人の安全を優先してください」


「本人が危険な場合は?」


「その場合も、記録と確認を。あなた一人で判断しすぎないでください」


 佐伯は少し間を置いた。


「黒瀬さんの鑑定は強力ですが、万能ではありません。見えた表示は手がかりであって、判決ではない」


 判決ではない。


 それも覚えておくべきだと思った。


 嘘が見える。


 危険が見える。


 祈りが見える。


 だからといって、それだけで人を決めつけてはいけない。


 それをした瞬間、俺の透明はただの暴力になる。


 説明は一時間ほど続いた。


 相性については、まだ詳しくは共有されなかった。


 分かっていないことが多すぎるからだ。


 ただ、佐伯は最後に言った。


「民間企業や裏市場が、色相を利用し始めています」


 リアに来た診断アプリの案件。

 セイラの財団に来た白鷺家。

 相原を観測していた不明な人物。


 それらはもう、偶然では済まない。


「色相は、必ず商品になります」


 佐伯は言った。


「人間は、自分と他人を分類したがる。企業はそれを売る。組織はそれで管理する。裏社会はそれで狙う」


「色を知らないままの方が、幸せだったかもしれませんね」


「そうかもしれません」


 佐伯は否定しなかった。


「ですが、知らないまま利用される方が、もっと危険です」


 説明が終わると、佐伯は紙資料を回収した。


 俺の端末には、最小限のメモだけが送られる。


 外部送信不可。

 スクリーンショット不可。

 閲覧期限付き。


「相原さんには、こちらからも安全確認を入れます」


「お願いします」


「白峰さんと九条さんにも、個別に注意喚起をします」


「全員に説明会をするんですか」


「いずれ。ただ、今は個別の方がいい。全員を一度に集めると、目立ちます」


 佐伯は端末をしまった。


「特に、あなたは」


 俺は頷いた。


「狙われるから」


「はい」


 分室を出る頃には、外は夕方になっていた。


 空は少し赤い。


 ビルのガラスに、沈みかけた日の光が反射している。


 紅。


 そう思ってから、少し嫌になった。


 何でも色で見ようとしている。


 色を知ると、世界が色に分かれて見える。


 それは便利で、同時に危険だ。


 俺は駅へ向かって歩いた。


 端末には、いくつかメッセージが届いている。


 リアからは、診断アプリの件について追加情報。

 セイラからは、財団の所有権干渉についての報告。

 相原からは、第三層訓練の記録。

 ミナトからは、何の脈絡もなく「今日の夕飯何?」というメッセージ。


 最後のは無視した。


 駅前の人通りは多かった。


 会社員。

 学生。

 買い物帰りの人。

 探索者装備のまま歩く若いパーティー。


 誰も、色など気にしていないように見える。


 けれど、その一人一人にも何かがあるのかもしれない。


 嘘。

 危険。

 祈り。

 色。


 俺は、首を振った。


 全部を見る必要はない。


 見えたからといって、全部背負う必要もない。


 そう言い聞かせる。


 だが、その時。


 首筋に、冷たい感触が触れた。


「動かないでね」


 耳元で声がした。


 軽い声だった。


 楽しそうで、柔らかくて、ひどく近い。


 人混みの中。


 駅前の交差点。


 誰も気づいていない。


 俺の首筋には、細い刃が当たっていた。


 呼吸が止まる。


「黒瀬透真くん」


 声の主は、俺の背後にいる。


 近すぎる。


 振り向けない。


「君、弱いのに視えてるんだって?」


 首筋に当たる刃が、ほんの少しだけ沈む。


 皮膚が切れるほどではない。


 でも、動けば切れる。


 俺は喉を鳴らした。


「誰ですか」


「まだ名乗るほど仲良くないかな」


 その声は笑っている。


「でも、名前くらいはあげてもいいか」


 背後の気配が、ほんの少し近づく。


「ロロ」


 短い名前。


 それだけで、周囲の音が遠のいた気がした。


 ロロ。


 佐伯が警告した危険人物。


 相原に届いた、差出人不明のメッセージ。


 翠は育つと面倒だよ。


 あの文面が頭をよぎる。


「何が目的ですか」


「目的」


 ロロは、その言葉を味わうように繰り返した。


「いいね。弱い人ってすぐ目的を聞くよね。理由があれば納得できると思ってる」


「納得したいわけじゃない」


「じゃあ、何?」


「逃げ方を考えるためです」


 一瞬、沈黙。


 次の瞬間、ロロは小さく笑った。


「正直でいいね」


 刃が少しだけ離れる。


 でも完全には離れない。


「逃げられないよ」


 声は優しい。


「今なら殺せる」


 分かっていた。


 鑑定するまでもない。


 距離が近すぎる。

 相手の気配が薄すぎる。

 人混みで、俺は動けない。


 大声を出せば周囲を巻き込む。


 抵抗すれば首を切られる。


 佐伯の言葉が頭に蘇る。


 透明は、最も狙われやすい。


 俺は、ゆっくり息を吸った。


 鑑定する。


 対象:ロロ

 嘘:殺すかどうかは決めていない

 危険:予測不能

 祈り:壊れる瞬間を見たい

 色相:紅/黒


 表示が揺れた。


 紅。


 黒。


 混ざっている。


 燃えるような衝動と、底の見えない隠蔽。


 見えた瞬間、背筋が冷たくなった。


 ロロは嘘をついていない。


 今なら殺せる。


 それは事実。


 ただ、殺すと決めていない。


 だから厄介だ。


「見た?」


 ロロが囁く。


 俺は返事をしなかった。


「見たよね。今、君の中で何か動いた」


 刃が、首筋から離れた。


 俺はすぐに振り向こうとした。


 だが、その前にロロの指が俺の肩に触れた。


「振り向いてもいいけど、顔を見たらもっと怖くなるかもよ」


 その言葉に意味はない。


 脅しでも、忠告でもない。


 ただ、遊んでいる。


 俺はゆっくり振り向いた。


 そこにいたのは、年齢の読みにくい人物だった。


 男にも見える。

 女にも見える。


 細い体。

 柔らかい笑み。

 派手ではないが、妙に目に残る服装。

 瞳だけが、楽しそうに歪んでいる。


 まるで、目の前の人間を人間としてではなく、割れる前の硝子細工として見ているような目。


「はじめまして、透明くん」


 ロロは片手を振った。


 その手には、さっきまで首筋に当たっていた細いナイフがある。


 誰も気づいていない。


 周囲の人間は普通に歩いている。


 まるで、ロロだけが人混みから切り離されているようだった。


「俺を殺しに来たんですか」


「うーん」


 ロロは首を傾げた。


「それ、今聞かれると難しいな」


「難しい?」


「殺したいかどうかで言えば、ちょっと殺したい。でも今殺すと、まだ薄い」


「薄い」


「君、まだ割れてないから」


 意味が分からない。


 でも、ロロの中では筋が通っているらしい。


「透明ってさ、綺麗だけど退屈なんだよね。向こう側が見えるだけだから」


 ロロは俺の目を覗き込む。


「でも、ヒビが入った透明は違う。光が曲がる。色が出る。すごく綺麗」


 俺は、何も言わなかった。


 言葉を返せば、相手の遊びに乗る気がした。


 ロロは楽しそうに続ける。


「君、弱いでしょ」


「はい」


「即答するんだ」


「事実なので」


「いいね。弱いのに、弱いって言える。弱いのに、見えてる。弱いのに、誰かの危ないところへ首を突っ込む」


 ロロの笑みが深くなる。


「すごく壊したい」


 冷たい言葉だった。


 だが、そこに怒りはない。


 恨みもない。


 ただ、興味。


 それが一番気味が悪い。


「俺を壊して、何がしたいんですか」


「見たいだけ」


「何を」


「君が、何色になるか」


 ロロは俺の胸元を軽く指で叩いた。


「透明って言われてるんでしょ? でも、本当に何も色がないのかな。怒ったら? 失ったら? 守れなかったら? 誰かのせいで大切な子が壊れたら?」


 大切な子。


 その言葉に、俺の呼吸が一瞬だけ止まる。


 ロロは、それを見逃さなかった。


 瞳が嬉しそうに細まる。


「反応した」


「誰のことですか」


「さあ」


 ロロはとぼける。


「君の妹? それとも、配信者の子? お嬢様? 黒い情報屋? それとも」


 少し間。


「翠の子?」


 相原ユウ。


 名前は出ていない。


 だが、分かった。


 俺の反応を見て、ロロは満足そうに笑った。


「へえ」


 しまった。


 そう思った時には遅かった。


 ロロは、こちらの表情だけで十分な情報を得た。


「その子なんだ」


「何をするつもりですか」


「まだ決めてない」


 ロロは本当に楽しそうだった。


「でも、育つ前の翠って、折ったらどんな音がするんだろうね」


 体が動きかけた。


 その瞬間、ロロのナイフが俺の喉元に戻っていた。


 速い。


 見えていたのに、間に合わない。


「だめだよ、透明くん」


 ロロは優しく言う。


「君が動くと、周りの人が切れる」


 俺は止まった。


 駅前の人混み。


 数歩先に親子連れがいる。

 後ろには会社員。

 横には学生。


 ここでロロが暴れれば、巻き込まれる。


 俺は戦えない。


 それが、これほど重く感じたのは久しぶりだった。


 鑑定は見える。


 危険も分かる。


 でも、止める力がない。


「いい顔」


 ロロは囁いた。


「そういう顔が見たかった」


「……相原さんには手を出すな」


 声が低くなった。


 自分でも驚くほどだった。


 ロロは目を丸くする。


 そして、嬉しそうに笑った。


「出た。透明に、ちょっと色が混ざった」


 ロロは一歩下がった。


 ナイフをくるりと回し、袖の中へ消す。


「今日はここまで」


「逃げるんですか」


「うん。君を殺さないって決めたから」


「なぜ」


「今より後の方が面白そうだから」


 ロロは人混みへ溶けるように歩き出した。


 俺は追えなかった。


 追っても追いつけない。


 追えば、周囲を巻き込む。


 それが分かっていた。


 ロロは数歩先で振り返る。


「またね、透明くん」


 そして、軽い声で言った。


「翠の子にもよろしく」


 人混みの中に、ロロの姿が消える。


 俺はしばらく動けなかった。


 首筋に、刃の冷たさが残っている。


 手が震えていた。


 恐怖だけではない。


 怒り。


 焦り。


 自分の弱さへの苛立ち。


 相原の名前を出された瞬間に、反応してしまった自分への後悔。


 透明は色ではない。


 佐伯はそう言った。


 でも今、俺の中には確かに色のようなものがあった。


 冷たい透明ではない。


 濁った、熱を持った何か。


 俺は端末を取り出し、佐伯へ連絡した。


『ロロという人物と接触しました』


 少し迷って、続ける。


『相原さんを狙う可能性があります』


 送信。


 すぐに既読がつく。


 佐伯から着信。


 俺は通話に出た。


『黒瀬さん、今どこですか』


「駅前です」


『怪我は』


「ありません」


『周囲の被害は』


「ありません」


 通話の向こうで、佐伯が息を吐いたのが分かった。


『動かないでください。近くの管理局職員を向かわせます』


「相原さんは」


『こちらで確認します。あなたはそこにいてください』


「でも」


『黒瀬さん』


 佐伯の声が強くなった。


『あなたが今動くと、相手の誘導に乗ります』


 俺は口を閉じた。


 その通りだった。


 ロロは、俺の反応を見ていた。


 誰の名前に反応するか。

 どの言葉で怒るか。

 どこを突けば動くか。


 俺は、もう一つ情報を渡してしまった。


 透明なのに。


 見ていたはずなのに。


 見られていた。


『相原さんには、警戒を入れます』


「お願いします」


『黒瀬さん』


「はい」


『自分を責めるのは後にしてください。今は記録を残してください。相手の発言、動き、表示。全部です』


 記録。


 確認。


 選ぶ前に、見る。


 俺は目を閉じ、息を整えた。


「分かりました」


 通話を切る。


 駅前の喧騒は、何も変わらない。


 誰も、さっき俺の首筋に刃が当たっていたことを知らない。


 誰も、あの人物が人混みの中で一人を殺せる距離にいたことを知らない。


 俺だけが知っている。


 そして、俺だけでは止められなかった。


 透明は色ではない。


 けれど、透明でいるだけでは済まない。


 その言葉の意味が、ようやく少し分かった気がした。


 見えるだけでは、守れない。


 でも、見えたものを誰に渡すかは選べる。


 俺は震える指で、ロロについての記録を書き始めた。


 対象:ロロ。

 色相:紅/黒。

 嘘:殺すかどうかは決めていない。

 危険:予測不能。

 祈り:壊れる瞬間を見たい。


 そして、最後に一文を追加した。


 相原ユウへの接触可能性あり。


 送信。


 夕方の赤い光が、駅前のガラスに反射している。


 その赤が、さっきまでより少しだけ怖く見えた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、透真が「透明」の危うさを知る回でした。


透明は色ではない。

だからこそ、他の色を見てしまう。

そして、見えるからこそ狙われる。


さらに、ロロが初登場しました。

透真は彼の危険を見抜いても、戦闘力の差で何もできません。


次回、ロロの狙いが相原ユウへ向かっていきます。


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