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第63話 妹の墓前

 墓地へ向かう日は、よく晴れていた。


 晴れすぎていて、少し腹が立った。


 空は青く、風は穏やかで、駅前の花屋には季節の花が並んでいた。

 街はいつも通り動いている。

 電車は時刻表通りに来るし、改札前では学生が笑っているし、コンビニの前では配達員が缶コーヒーを飲んでいる。


 世界は、誰かが死んでも普通に続く。


 そんな当たり前のことを、俺は何度も思い知らされてきた。


 澪が死んだ日も、きっとどこかでは誰かが笑っていた。

 神楽坂が記録を封印した日も、管理局の誰かは昼飯の味を気にしていたかもしれない。

 俺が何も知らずに過ごしていた日々も、世界はいつも通りだった。


 そのことが、昔は許せなかった。


 いや、今も少し許せない。


 でも、世界が止まらなかったから、俺もここまで来てしまったのだと思う。


 花屋で、白い花を買った。


 澪が好きだった花、というわけではない。


 正直、澪が花に詳しかった記憶はあまりない。


 昔、母さんが花を飾っていた時に、澪は「きれいだけど名前覚えられない」と言っていた。


 俺も同じだった。


 だから、店員に勧められた花を買った。


 少しだけ情けない気もしたが、無理に意味のある花を選ぶ気にはなれなかった。


 意味なんて、後からいくらでもつけられる。


 それが怖いことを、俺はもう知っている。


 墓地に着くと、人は少なかった。


 掃除の音。

 遠くの鳥の声。

 線香の匂い。


 その中を、俺は一人で歩いた。


 リアも、セイラも、ミナトも、カナタも来なかった。


 誘えば来てくれたと思う。


 リアはたぶん心配そうな顔で「一緒に行こうか」と言っただろうし、セイラは「必要なら付き添いますわ」と言っただろう。

 ミナトは軽口を叩きながらも、少し距離を置いてついてきただろう。

 カナタは何も言わずに隣を歩いたかもしれない。


 でも、今日は一人で来たかった。


 澪に会いに来たのではない。


 澪がここにいるかどうかも、正直よく分からない。


 墓は、死んだ人そのものではない。


 それでも、ここに来ることでしか言えないことがある気がした。


 墓前に立つ。


 黒瀬家の墓。


 何度も来たはずなのに、今日は少し違って見えた。


 俺は水をかけ、花を供え、線香に火をつけた。


 手を合わせようとして、やめた。


 まだ、何を祈ればいいのか分からなかった。


「澪」


 声に出す。


 返事はない。


 当たり前だ。


 ナギの街なら、返事があったかもしれない。


 実家の玄関が開いて、澪が「お兄ちゃん」と呼んでくれたかもしれない。


 でも、ここでは何も返ってこない。


 現実だから。


「来たぞ」


 言ってから、間抜けな言葉だと思った。


 来たぞ、って何だ。


 報告するようなことでもない。


 でも、他に言葉が出なかった。


 しばらく黙っていた。


 風が吹く。


 線香の煙が、少しだけ横に流れる。


「怒ってる」


 俺は言った。


「まだ怒ってる」


 墓石は何も答えない。


「勝手に決めたこと。俺に見せないって決めたこと。俺が背負えないって、お前が勝手に思ったこと」


 胸の奥が痛む。


「俺は兄なのに、何も知らなかった」


 言葉にすると、また悔しくなった。


 子どもみたいだと思う。


 兄だから何でも知っているべきだったなんて、そんなことはない。

 澪には澪の人生があって、俺に言わないこともあって当然だ。


 それでも、悔しかった。


「守りたかったなら、言えよ」


 声が少し震えた。


「一人で抱えるなよ」


 神楽坂に対しても、同じことを思った。


 澪にも。


 ナギにも。


 みんな、守ると言いながら勝手に決めた。


 優しさの顔をして、選ぶ権利を奪った。


 そのことが、どうしても許せない。


 でも。


「分かったこともある」


 俺は続けた。


「お前が、世界を救おうとしてた聖人じゃなかったこと」


 少しだけ笑いそうになった。


「まあ、お前が聖人なわけないよな」


 澪が聞いていたら、たぶん怒ったふりをしたと思う。


『失礼すぎない?』


 そんな声が、頭の中で再生される。


 でも、それは俺の記憶だ。


 ナギの幻じゃない。


 俺の中に残っている澪だ。


「お前は、俺を守ろうとした」


 言葉にすると、胸がまた痛んだ。


「それは、分かった」


 許せるかどうかは別だ。


 でも、分かった。


 澪は俺を軽んじたわけじゃない。

 俺を邪魔だと思ったわけでもない。

 俺に関係ないと思ったわけでもない。


 むしろ、俺のことを考えすぎていた。


 俺が傷つく姿を見たくなかった。


 俺が自分を責めることを恐れていた。


 それが優しさだったことも、分かる。


 でも、その優しさが俺を傷つけたことも、同じくらい本当だ。


「俺、まだ分からない」


 墓前で、俺は正直に言った。


「お前のことも、神楽坂さんのことも、ナギのことも。管理局のことも、ダンジョンのことも」


 全部が整理されたわけではない。


 澪の記録を見たからといって、心が晴れたわけではない。

 神楽坂が証言席に立ったからといって、怒りが消えたわけでもない。

 ナギと契約したからといって、優しい嘘の怖さがなくなったわけでもない。


「嘘が嫌いだった」


 俺は言う。


「隠されたことが嫌だった。真実が欲しかった。全部見えれば、何か分かると思ってた」


 でも、違った。


 見えたら見えたで、もっと分からなくなった。


 神楽坂は悪人ではなかった。

 でも、許せないことをした。


 澪は被害者だった。

 でも、俺から選ぶ権利を奪った。


 ナギは危険だった。

 でも、孤独で、必要とされたがっていた。


 アルカディアは明確に悪質だった。

 それでも、彼らが利用したのは人間の願望や不安だった。


 真実は、思ったより綺麗じゃなかった。


 嘘よりも分かりにくいことさえあった。


「でも、嘘を全部なくせばいいわけでもなかった」


 風が吹く。


 花が少し揺れた。


「リアさんは配信の自分を全部捨てたわけじゃない。セイラさんは見栄も誇りも捨ててない。ミナトさんは情報屋をやめてない。カナタさんは強がりを全部捨てたわけじゃない。神楽坂さんだって、救った人がいる事実は消してない」


 俺は、少しだけ息を吐く。


「嘘とか、演技とか、見栄とか、物語とか。そういうものが人を立たせることもあるんだと思う」


 澪が俺に見せなかったことも。


 完全に否定することは、もうできなかった。


 でも、それを正しかったと言い切ることもできない。


「優しい嘘でも、人を傷つける」


 墓石の前で、俺は言った。


「でも、優しい嘘に救われることもある」


 ナギの街で見た、澪のいる家。


 あれは嘘だった。


 でも、俺は確かに救われかけた。


 救われたいと思った。


 その気持ちを、偽物だからといって切り捨てたくない。


 ただ、あそこに閉じこもりたくはない。


「いつか、澪の部屋を見るかもしれない」


 俺は墓前で言った。


「ナギにそう言った」


 返事はない。


「でも、その時は戻るために見る。閉じこもるためじゃなくて」


 それが本当にできるのかは分からない。


 また声を聞いたら、戻りたくなくなるかもしれない。


 澪に「お兄ちゃん」と呼ばれたら、また足が止まるかもしれない。


 それでも、今はそう思う。


 戻るために見る。


 現実へ帰るために、嘘に休む。


 それなら、きっと嘘は檻ではなくなる。


 線香の煙が薄くなってきた。


 俺は、ようやく手を合わせた。


 祈るというより、姿勢を整えるためだった。


「俺、まだ分からない」


 もう一度言った。


「納得もしてない。許せてもいない」


 目を閉じる。


「でも、分からないまま進む」


 それが今の俺に言える、精一杯だった。


 答えはない。


 綺麗な決着もない。


 澪が何を思っていたのか、全部分かったわけじゃない。


 俺自身が何を望んでいるのかも、まだ怪しい。


 でも、止まっていたくはない。


 誰かに整えられた物語に入るのではなく、自分で選びながら進みたい。


「今度は、俺が選ぶよ」


 声は小さかった。


 でも、墓前ではそれで十分だった。


 しばらくして、目を開ける。


 何か奇跡が起きるわけではない。


 澪の声が聞こえるわけでもない。


 花が光るわけでもない。


 鑑定表示が出るわけでもない。


 ただ、墓石があり、花があり、煙があり、青い空があった。


 それでよかった。


 帰り道、墓地の出口で端末が震えた。


 リアからだった。


『無事?』


 短いメッセージ。


 俺は少しだけ考えて、返信する。


『無事です』


 すぐに返ってきた。


『ならよかった。今日はちゃんと休んでね』


 続いて、セイラからも通知が来る。


『明日、財団関連の相談があります。体調が悪ければ延期しますが、返事はしなさい』


 強引だ。


 でも、少し笑った。


 ミナトからは、なぜか花の名前を調べるサイトのリンクが送られてきた。


『花の名前分からない顔してたから』


 見られていたのかと思ったが、違う。


 たぶん、適当な勘だ。


 カナタからは一言だけ。


『戻ったら飯を食え』


 命令だった。


 神楽坂からは何も来ていなかった。


 公聴会の最中だろう。


 それでいいと思った。


 端末をしまい、駅へ向かう。


 途中、小さな公園の横を通った。


 ブランコが風で少し揺れている。


 子どもの頃、澪とここで遊んだ記憶がある。


 たぶん、本物の記憶だ。


 でも、記憶なんて曖昧だ。


 都合よく変わる。


 それでも、全部が嘘になるわけではない。


 俺は足を止めずに歩いた。


 その時、視界の端に小さな表示が出た気がした。


 鑑定表示かと思って、思わず足を止める。


 だが、すぐに消えた。


 見間違いかもしれない。


 あるいは、俺の中に残った祈りが、少しだけ形になりかけたのかもしれない。


 分からない。


 でも、今は分からないままでよかった。


 駅に着く頃には、空が少し夕方の色に変わっていた。


 改札を通る。


 人々が行き交う。


 誰も俺のことを見ていない。


 それでいい。


 世界は、俺の悲しみのために止まらない。


 でも、俺も世界に置いていかれるだけではない。


 自分の足で戻る。


 自分の足で進む。


 端末がもう一度震えた。


 今度は佐伯からだった。


『低ランク探索者から、鑑定相談の依頼が来ています。急ぎではありません。後日で構いません』


 俺は画面を見て、少しだけ息を吐いた。


 後日で構いません。


 そう書いてあるのに、なぜか今すぐ返事をしなければならない気がした。


 でも、今日は返さない。


 今日は、澪の墓へ行った日だ。


 少しだけ立ち止まる日だ。


 赤信号なら止まる。


 青なら進む。


 黄色なら注意する。


 全部、必要だ。


 俺は端末をしまった。


 今日は帰って、飯を食って、寝る。


 明日からまた考える。


 分からないまま。


 それでも、戻るために。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、透真が澪の墓前へ向かう回でした。


澪の記録を見たことで、透真はすべてを理解できたわけではありません。

澪を完全に許せたわけでも、神楽坂や管理局への怒りが消えたわけでもありません。


ただ、澪が世界を救おうとした聖人ではなく、兄を守ろうとした妹だったことを知りました。

それは優しさであり、同時に透真から選ぶ権利を奪うものでもありました。


透真は、嘘を憎むだけではなくなりました。

嘘や物語に人が救われることもある。

でも、戻る道を失えば檻になる。

そのことを抱えたまま、まだ分からないまま進むと決めました。


次回は、第一部完結です。

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