第61話 世界は綺麗にはならない
S級ダンジョンの暴走が止まった日、世界は救われた。
ニュースは、そんな言葉を使った。
緊急速報の見出し。
探索者向け掲示板。
切り抜き動画のタイトル。
誰かの考察配信。
管理局の臨時発表。
どこを見ても、似たような言葉が並んでいた。
【S級ダンジョン暴走、停止】
【神楽坂レイジ、黒瀬透真らと帰還】
【謎の契約により危機回避か】
【灰原ナギとは何者か】
【黒瀬澪記録、再調査へ】
【管理局隠蔽問題、第三者委員会設置】
けれど、俺にはその言葉が少し遠く聞こえた。
世界は救われた。
たぶん、間違いではない。
S級ダンジョンの境界拡大は止まった。
外へ漏れ出していた願望幻影も収束した。
避難所で幻に引き寄せられていた人たちも、ほとんどが現実へ戻った。
探索者たちも、各地のダンジョン異常を少しずつ抑え始めている。
でも、世界が綺麗になったわけじゃない。
神楽坂が謝ったからといって、澪は戻らない。
管理局が再調査を始めたからといって、隠されていた時間が返ってくるわけじゃない。
アルカディアへの捜査が始まったからといって、記憶を加工された新人たちの傷が消えるわけじゃない。
ナギとの契約が成立したからといって、人間の願望や恐怖がなくなるわけでもない。
ただ、暴走が止まった。
戻る道が残った。
それだけだ。
でも、たぶん。
それだけでも、今は十分だった。
管理局の臨時医療室で、俺は簡易ベッドに座っていた。
体に大きな傷はない。
だが、頭の奥が重い。
願望部屋。
澪の記録。
救世願望。
ナギの涙。
目を閉じれば、全部が戻ってくる。
「黒瀬さん、生きてる?」
カーテンの向こうからリアの声がした。
「一応」
「返事が暗い」
「明るく返事する内容じゃないので」
カーテンが少し開いて、リアが顔を出した。
彼女も検査を終えたらしい。
髪は少し乱れていて、目の下に疲れが残っている。
それでも、ドローンだけはしっかり抱えていた。
「配信者の鑑だな」
俺が言うと、リアは苦笑した。
「これ、もう身体の一部みたいな感じだし」
そう言ってから、少し表情を曇らせる。
「でも、今回は配信してよかったのか、まだ分かんない」
「避難情報、かなり届いてましたよ」
「うん。それは分かってる。分かってるんだけど……」
リアはベッド横の椅子に座る。
「また、見せちゃったなって思う。必要だったけど。怖かった」
俺は何も言わなかった。
リアは続ける。
「前は、見せれば勝てるって思ってた。今回は、見せない方がいいものもあるって分かってた。でも、必要な情報は見せなきゃいけなかった」
彼女はドローンを撫でる。
「配信って、やっぱり怖いね」
「やめるんですか」
リアは少し考えた。
「やめない」
短い答えだった。
「でも、前と同じには戻れないと思う」
彼女は端末を開いた。
そこには、復帰配信についての通知が山ほど来ていた。
称賛。
批判。
心配。
好奇心。
悪意。
善意。
全部が混ざっている。
「視聴者数、たぶん減ると思う」
「そうなんですか」
「うん。派手に盛り上げる配信じゃなくなるだろうし。見たい人も減るよ」
リアは少し寂しそうに笑う。
「でも、それでいいかなって。ちゃんと見てくれる人だけ見てくれれば」
それは、願望部屋で見た完璧なコメント欄とは違う。
誰も叩かない世界ではない。
それでも、リアが選んだ現実だった。
カーテンの外が騒がしくなる。
「失礼しますわ」
返事を待たずに、セイラが入ってきた。
リアが半目になる。
「九条さん、医療室のカーテンくらい返事待とうよ」
「緊急性があります」
「今?」
「今後の契約管理についてです」
セイラは端末を俺たちに見せた。
そこには、S級ダンジョン契約管理に関する暫定資料が並んでいる。
【契約管理対象:S級ダンジョン灰色街区】
【契約存在:灰原ナギ】
【帰還経路:維持確認】
【外部対話権:限定承認】
【第三者記憶利用:禁止】
【監査者:探索者管理局、九条セーフティリンク臨時隊、外部有識者】
「早いですね」
「遅いくらいですわ」
セイラは当然のように言った。
「契約は結んで終わりではありません。誰が管理し、誰が確認し、誰が悪用を防ぐかを決めなければ、またアルカディアのような者が出ます」
アルカディア。
その名前が出ると、空気が少し重くなった。
リアが言う。
「捜査、進んでるの?」
セイラの表情が冷える。
「進んでいます。ただし、想像通り面倒ですわ。下請け、関連会社、研究委託、匿名出資、海外サーバー。逃げ道は山ほどあります」
「逃げられる?」
「逃がしません」
即答だった。
「ただ、全てを一気に裁けるとは限りません。証拠はある。ですが、彼らは責任を分散することに慣れている」
ミナトの声がカーテンの向こうからした。
「呼んだ?」
今度は彼も勝手に入ってきた。
手には端末。
いつもの軽い笑みを浮かべているが、顔色は悪い。
「鴉羽ミナト。盗み聞きですの?」
「聞こえる位置で話してたからね」
「医療室ですわよ」
「俺も患者だし」
そう言って、ミナトは近くの椅子に座った。
「アルカディアは逃げるよ。というか、もう逃げ始めてる。『一部下請けの独断』『研究データの管理不備』『契約上の認識違い』あたりで切り捨てに来る」
セイラが冷たく言う。
「想定済みです」
「だろうね。だから俺の方で、切り捨てられそうな下請けログを拾ってる」
リアが目を丸くする。
「それ、危なくない?」
「危ないよ」
ミナトは軽く言った。
「でも、売らない情報にも価値があるって言っちゃったからね。たまには自分の発言に責任持たないと」
セイラが少しだけ目を細めた。
「あなたが自分でそれを言うと、少し気味が悪いですわ」
「ひどいなあ」
「褒めています」
「それは嘘でしょ」
「嘘ではありません。嫌味です」
「もっと悪い」
くだらない会話だった。
でも、少しだけ呼吸が楽になった。
そこへ、カナタが入ってきた。
彼は医療班の検査を嫌がっていたが、どうやら捕まったらしい。
腕に検査用のバンドが巻かれている。
リアが笑う。
「カナタさん、ちゃんと検査受けたんだ」
「逃げたらセイラに怒られる」
「そこなんだ」
セイラが当然のように頷く。
「単独行動は禁止です」
カナタは俺を見る。
「黒瀬。動けるか」
「一応」
「なら、後で低ランク探索者たちの聞き取りに付き合え」
「今ですか?」
「後でと言った」
それでも早い。
カナタは壁に寄りかかる。
「願望幻影を見た新人が多い。戦闘中に動けなくなった奴もいる。何が起きたか説明できる人間が必要だ」
セイラが言う。
「あなたが説明すればよいのでは?」
「俺は説明が下手だ」
「自覚があるのはよろしいですわ」
カナタは気にしない。
「怖いものを見た奴に、怖がるなと言う気はない。だが、怖いものを見た後にどう戻るかは教える必要がある」
それは、カナタらしい言葉だった。
彼もまた、変わっている。
罰されるために危険へ進むのではなく、誰かが同じ間違いをしないように動こうとしている。
最後に、神楽坂が入ってきた。
部屋の空気が少しだけ変わる。
以前なら、それだけで安心感が広がったのかもしれない。
だが、今は違う。
緊張。
戸惑い。
まだ残る怒り。
それでも、誰も彼を追い出さなかった。
神楽坂は俺の前で立ち止まる。
「黒瀬透真」
「はい」
「これから、管理局の公聴会に出る」
リアが目を見開く。
「今から?」
「ああ。今回の件、澪の記録、私の隠蔽関与、S級ダンジョン契約。話すべきことが多い」
神楽坂の顔には、疲労が濃く出ていた。
《正義》の補正が弱まった今、彼は以前ほど頑丈ではないのかもしれない。
それでも、立っている。
「逃げるつもりはありません、って顔ですわね」
セイラが言う。
神楽坂は頷いた。
「逃げない。だが、すべてを背負うとも言わない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
神楽坂は続ける。
「私は証言する。私が関わったこと、止めなかったこと、判断を誤ったこと。ただし、私一人の謝罪で制度全体を終わらせることはしない」
俺は静かに聞いていた。
「黒瀬澪の記録については、個人記録を無断で公開しないよう求める。必要な部分は検証されるべきだが、彼女の言葉をまた誰かの都合のいい物語にしてはならない」
胸が少しだけ痛んだ。
澪の言葉。
世界を救おうとした聖人ではない。
ただ、兄に苦しんでほしくなかった妹。
それを、世間はきっとすぐに物語にしたがる。
悲劇の鑑定士。
隠蔽された天才。
世界の真実を見た少女。
どれも、間違いではないのかもしれない。
でも、それだけでは澪ではない。
俺は言った。
「澪を綺麗な被害者にしないでください」
神楽坂は頷く。
「分かっている」
「神楽坂さんの償いの道具にも」
「ああ」
「俺の怒りの理由だけにも」
神楽坂は少しだけ目を伏せた。
「それも、分かっている」
俺は彼を許したわけではない。
たぶん、まだ長く許せない。
でも、神楽坂が今言ったことは、澪の記録に向き合うために必要なことだった。
リアが小さく言う。
「難しいね」
「難しいですわね」
セイラが答える。
「しかし、難しいからといって誰か一人に預けるのは、もうやめるべきです」
その通りだった。
誰か一人を悪者にするのも。
誰か一人を英雄にするのも。
誰か一人に救わせるのも。
もう、そこには戻れない。
管理局のモニターに、外の映像が映った。
S級ダンジョン周辺。
境界は止まっている。
防壁はまだ警戒態勢のまま。
探索者たちは周囲で待機し、医療班が避難者を誘導している。
そして、遠くから市民の声が聞こえた。
「神楽坂はどうなるんだ!」
「管理局は責任を取れ!」
「黒瀬澪の記録を全部出せ!」
「全部出すな、遺族を守れ!」
「アルカディアを許すな!」
「ダンジョンは結局何なんだ!」
世界は混乱している。
当然だ。
隠されていたものが出てきたのだから。
優しい嘘で丸くしていないのだから。
人々は怒る。
疑う。
傷つく。
考えなければならなくなる。
それは、苦しい。
でも、戻る道のある現実だった。
佐伯ユズルが部屋に入ってきた。
「皆さん、検査中に失礼します」
リアが小さく言う。
「佐伯さん、失礼しますって言えば入っていいと思ってるタイプだ」
「緊急性がありますので」
「やっぱり」
佐伯は端末を開いた。
「現時点での状況共有です。S級ダンジョンは契約管理状態へ移行。ナギとの限定対話回線は、まだ不安定ですが確保可能です。アルカディア関連施設には一斉監査が入りました。ただし、中枢メンバーの一部は所在不明です」
ミナトが眉を上げる。
「逃げたね」
「はい」
佐伯は隠さなかった。
「追跡中です。また、黒瀬澪さんの記録に関しては、管理局内で公開範囲をめぐり意見が割れています」
俺は顔を上げる。
「割れてる?」
「はい。全面公開を求める声と、完全非公開を求める声があります」
セイラが鼻で笑った。
「両極端ですわね」
「どちらも危険です」
佐伯は淡々と言った。
「全面公開すれば、個人記録が消費される。完全非公開にすれば、再び隠蔽になる。第三者委員会と遺族の意向、専門家の検証を含め、段階的公開が妥当だと考えています」
遺族。
その言葉が、胸に刺さる。
俺は澪の兄だ。
でも、澪の記録を全部俺が決めていいのか。
それも違う気がした。
澪自身の言葉。
家族のこと。
社会に必要な検証。
隠蔽を防ぐための公開。
全部が絡んでいる。
「俺だけで決めることじゃないと思います」
俺は言った。
佐伯が頷く。
「はい。ただ、黒瀬さんの意見は重要です」
「なら、俺の意見は一つです」
皆が俺を見る。
「澪を、利用しないでほしい」
声が低くなった。
「神楽坂さんを責めるためだけにも、管理局を守るためにも、ダンジョン研究を進めるためだけにも、俺を慰めるためにも」
少し息を吸う。
「澪の記録は必要な範囲で出す。でも、澪個人の言葉を切り売りしないでほしい」
佐伯は真剣に頷いた。
「記録します」
ミナトが小さく言った。
「切り売りって言葉、嫌に刺さるね」
「あなたには刺さってください」
セイラが即座に言う。
「刺さってるよ、ちゃんと」
ミナトは苦笑した。
神楽坂は、俺を静かに見ていた。
「黒瀬」
「はい」
「私は、公聴会でそれを言う」
「お願いします」
俺は少し迷った後、付け加えた。
「でも、神楽坂さんの言葉だけにならないようにしてください」
「分かっている」
神楽坂は頷いた。
「私一人が言えば、また重くなりすぎる。記録、委員会、遺族、研究者、探索者。複数の声で扱うべきだ」
ほんの少しだけ、神楽坂は変わったのだと思った。
英雄として正解を言うのではなく。
証人として、一つの声になる。
それは小さな変化だ。
でも、小さくない。
医療室の外で、誰かが神楽坂を呼んだ。
彼は一度だけ俺たちを見た。
「行ってくる」
リアが小さく手を振る。
「無理しすぎないでくださいね」
セイラが言う。
「一人で背負う発言をしたら、後で訂正させますわ」
ミナトが笑う。
「ログ取っとくね」
カナタが短く言う。
「逃げるな」
神楽坂は、少しだけ笑った。
「分かった」
そして部屋を出ていった。
その背中は、もう英雄の背中ではなかった。
疲れた、一人の探索者の背中だった。
でも、だからこそ信じられる部分もあるのかもしれない。
俺は、ベッドに座ったまま息を吐いた。
体が重い。
心も重い。
だけど、止まってはいられない。
リアが俺を見る。
「黒瀬さん、顔やばいよ」
「リアさんもですよ」
「私はかわいいからセーフ」
「そういう問題ですか」
「そういう問題」
少し笑った。
ほんの少しだけ。
世界は綺麗にはならない。
誰も簡単には許されない。
怒りも、悲しみも、混乱も残っている。
でも、戻る場所はある。
休む場所も、少しだけできた。
そして、選び直すための道も。
俺はモニターに映るS級ダンジョンを見た。
灰色の街の奥で、信号機が小さく点滅しているように見えた。
赤。
青。
黄。
止まる時。
進む時。
注意する時。
どれも必要だった。
その全部を抱えたまま、俺たちは現実に戻ってきた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、S級ダンジョン暴走後の世界を描きました。
暴走は止まりました。
ナギとの契約も成立し、戻る道は残りました。
けれど、それで世界が一気に綺麗になるわけではありません。
神楽坂は許されたわけではなく、管理局の隠蔽問題もこれから調査されます。
アルカディアへの捜査も始まりましたが、すべてがすぐに明らかになるわけではありません。
澪の記録についても、全面公開すれば消費され、完全非公開にすればまた隠蔽になるという難しさがあります。
透真は、澪を誰かの都合のいい物語にしないでほしいと願いました。
悲劇の鑑定士としても、隠蔽を責めるための道具としても、自分を慰めるための存在としても、切り取られたくない。
世界は綺麗にはならない。
それでも、隠されていたものを、少しずつ選べる形で表に出していく。
次回は、それぞれのその後を描いていきます。
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