第60話 ナギの名前
灰色の街に、風が吹いていた。
最初にこの場所へ来た時、風なんてなかった。
空は重く、街は止まり、駅前の時計も、商店街のシャッターも、学校の窓も、全部が誰かの息を待っているみたいに沈黙していた。
でも今は違う。
信号機の下を、淡い風が通り抜ける。
赤。
青。
黄。
三つの光は、もう同時には点いていない。
順番に、ゆっくりと点滅している。
止まる時がある。
進む時がある。
注意する時がある。
どれか一つに決めつけるのではなく、選び続けるための光。
ナギは、その信号機の下に立って泣いていた。
声を上げて泣くわけではない。
涙だけが静かに頬を伝っていた。
彼女自身も、それが何なのか分かっていないみたいだった。
「みんな、戻っていった」
ナギは、小さく言った。
さっきまで街中に開いていた無数の扉は、ほとんど消えている。
ただし、完全になくなったわけではない。
駅の改札の横。
商店街の路地。
学校の昇降口。
住宅街の角。
ところどころに、小さな扉が残っていた。
扉には、同じ文字が刻まれている。
【戻る】
願望世界から現実へ戻るための扉。
閉じ込めるためではなく、帰すための扉。
それを開いたのは、ナギだった。
彼女が、初めて自分で選んだ。
人間を優しい嘘の中に閉じ込めるのではなく、戻る道を作ることを。
ミナトが端末を見ながら息を吐いた。
「外部への幻影漏出、ほぼ停止。境界拡大も止まってる。まだ不安定だけど、少なくとも今すぐ街が飲まれることはなさそう」
リアのドローンも、ゆっくりと降りてくる。
「避難所の人たちも戻ってる。泣いてる人は多いけど……動けてる」
セイラが周囲の表示を確認する。
「契約文も維持されていますわ。願望世界の出入口、帰還経路、定期確認、外部対話権。どれも消えていません」
カナタは契約剣を鞘に収めた。
「契約は生きている」
神楽坂は、灰色の街を見渡していた。
「S級ダンジョンが、安定し始めている」
その声には、安堵だけではないものが混じっていた。
彼にとって、この場所はただのダンジョンではない。
澪が異常を読んだ場所。
神楽坂自身が隠蔽に関わるきっかけになった場所。
英雄としての物語が壊れた後、一人の探索者として戻ってきた場所。
俺は、ナギの方へ歩いた。
彼女は、まだ信号機を見上げている。
「ナギ」
呼ぶと、彼女はゆっくりこちらを見た。
「これで、終わり?」
その声は、不安げだった。
俺は首を横に振った。
「終わりじゃない」
ナギの瞳が揺れる。
「じゃあ、また暴れる?」
「たぶん、問題は起きる」
「また人間は苦しむ?」
「苦しむ」
「また願望が溜まる?」
「溜まると思う」
ナギは、目を伏せた。
「じゃあ、私は失敗したの?」
「違う」
俺は言った。
「全部を終わらせることが、成功じゃない」
ナギは俺を見上げる。
「全部、終わらせなくていいの?」
「たぶんな」
俺は灰色の街を見る。
この街は、消えていない。
S級ダンジョンも消えない。
願望も、恐怖も、怒りも、後悔も、人間からなくなるわけじゃない。
でも、だからこそ契約が必要だった。
苦しみをゼロにするためではない。
苦しみが怪物になった時、戻る道を残すために。
「ナギ。ここは、休む場所になった」
俺は言った。
「終わる場所じゃなくて」
ナギは小さく呟く。
「休む場所」
「ああ」
「人間は、また休みに来る?」
「来る人もいる」
「来ない人もいる?」
「いる」
「忘れる人もいる?」
「いると思う」
ナギは、少しだけ寂しそうに笑った。
「それ、やっぱり寂しい」
「そうだな」
俺は頷いた。
「でも、戻ってこない自由も、必要なんだろ」
ナギは黙った。
しばらくしてから、小さく頷く。
「うん」
その頷きは、今までのナギのどんな言葉よりも、人間らしく見えた。
リアが近づいてくる。
「でもさ」
ナギがリアを見る。
「戻ってくる人もいると思うよ。私も、ほんとにしんどくなったら、ここを思い出すかもしれない」
「リアも?」
「うん。ただし、閉じ込めたら怒るけど」
ナギは目をぱちぱちさせる。
「怒るの?」
「めっちゃ怒る」
「でも、来るの?」
「来るかも」
ナギは少し困った顔をした。
「人間、難しい」
「それはそう」
リアはあっさり頷いた。
セイラも歩いてくる。
「契約管理は今後も必要ですわ。あなたが孤独を理由にまた閉じ込めようとする可能性もありますから」
ナギは少し怯えたようにセイラを見る。
「私、またする?」
「しないと断言できるほど、あなたを信用してはいません」
リアが小声で言う。
「九条さん、言い方」
セイラは気にせず続ける。
「ですが、だから契約があります。信用だけに頼らないための形です」
ナギは契約文の残光を見上げる。
「信用だけに頼らない」
「ええ。人間同士でも、そうですわ」
ミナトが笑った。
「まあ、信用だけで回したらだいたい揉めるしね」
ナギはミナトを見る。
「ミナトは、私を信用してない?」
「してないよ」
ミナトは即答した。
リアがまた顔をしかめる。
「だから言い方」
「でも、必要だとは思ってる」
ミナトは端末を軽く振った。
「信用してない相手とも、条件次第で一緒にやれる。契約って便利だね」
ナギは、その言葉を真剣に受け取ったらしい。
「信用してない。でも、必要」
「そうそう」
「それは、嫌じゃない?」
「たまに嫌。でも、全部好きとか全部信じるとかより、長持ちする時もある」
ナギは、また不思議そうな顔をした。
「人間、本当に難しい」
カナタが低く言った。
「慣れろ」
「慣れるもの?」
「たぶん」
ナギは少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
さっきまでの、世界を優しい嘘で包もうとしていた存在ではなく、ただ自分の居場所を探している少女みたいだった。
俺は、ナギを鑑定した。
対象:灰原ナギ
今までのような拒絶はなかった。
文字が、静かに浮かび上がる。
嘘:なし
危険:孤独による再閉鎖
祈り:また会いに来てほしい
嘘はなかった。
俺は、息を呑んだ。
ナギは俺の顔を見て、すぐに気づいたらしい。
「何か見えた?」
「ああ」
「何?」
俺は少し迷った。
でも、隠すのは違うと思った。
「嘘は、なし」
ナギの目が丸くなる。
「嘘、ないの?」
「ああ」
「私、嘘じゃない?」
「少なくとも今は」
ナギは、自分の胸に手を当てた。
「じゃあ、私はいるの?」
その問いに、胸が少し痛んだ。
灰原ナギ。
人間ではない。
魔物でもない。
ダンジョンそのものでもない。
人間の願望から生まれ、苦しむ人間を見て、優しい嘘を与えようとした存在。
誰かの夢の寄せ集めで、誰かの痛みの器で、誰かに必要とされたかった孤独な少女。
それでも。
「いる」
俺は答えた。
「灰原ナギ。お前は、誰かの嘘じゃない」
ナギの唇が、小さく震えた。
「誰かの嘘じゃない」
「ああ」
「願望からできてても?」
「できたものが嘘とは限らないだろ」
ナギは、何度もその言葉を確かめるように呟いた。
「私は、誰かの嘘じゃない」
信号機の光が、柔らかく揺れる。
灰色だった街の空に、薄く青が混じり始めた。
完全な青空ではない。
まだ雲は多い。
街も灰色のままだ。
でも、最初に来た時より少しだけ明るい。
ナギは空を見上げた。
「この街、消えないんだね」
神楽坂が答える。
「消すべきではないのだろう」
ナギは彼を見る。
「あなたは、この街が怖い?」
「怖い」
神楽坂は正直に答えた。
「だが、必要でもあると思う」
「怖いのに?」
「ああ」
神楽坂は灰色の街を見た。
「私は長い間、人々の不安を遠ざけようとした。自分が英雄でいることで、安心を与えようとした。だが、不安は消えない。ただ、見えない場所へ溜まる」
彼はナギを見る。
「ここは、その溜まったものを見る場所になるのかもしれない」
ナギは、少しだけ顔をしかめた。
「見るの、苦しいよ」
「そうだな」
「それでも見るの?」
「必要な時は」
ナギは黙った。
リアがドローンを確認しながら言う。
「外部通信、少し戻ってる。佐伯さんから入ってる」
空中にノイズ混じりの通信画面が浮かんだ。
佐伯ユズルの顔が映る。
『こちら管理局臨時対策本部。全員、聞こえますか』
リアが答える。
「聞こえます。ちょっとノイズありますけど」
『S級ダンジョンの境界拡大は停止しました。外部で発生していた幻覚症状も急速に収束しています。ただし、内部状況はまだ不明です』
佐伯の視線が、こちらの背景を確認するように動いた。
『灰原ナギとの接触は継続中ですか』
ナギは画面の佐伯を見て、少しだけ俺の後ろに隠れた。
リアが小声で言う。
「人見知り?」
ナギは小さく反論する。
「知らない人」
「まあ、そうだね」
俺は佐伯に言った。
「契約は成立しました。願望世界は残ります。ただし、戻る道を必ず残す形です」
『詳細な契約条件は記録されていますか』
セイラが答える。
「当然ですわ。記録、証人、改訂条項、外部対話権まで含めています」
『確認します。帰還は可能ですか』
ミナトが端末を見る。
「いけそうだね。帰還経路、駅の改札に出てる」
見ると、駅の改札口に新しい扉が現れていた。
【帰還】
その文字が刻まれている。
現実へ戻る扉。
ナギは、その扉を見つめた。
「帰るの?」
俺たちは、すぐには答えなかった。
帰る。
現実へ。
神楽坂が英雄を降りた世界へ。
管理局の隠蔽が暴かれた世界へ。
澪がもういない世界へ。
怒りも、批判も、混乱も残っている世界へ。
でも、戻らなければならない。
リアが言う。
「うん。帰る」
ナギの表情が寂しそうになる。
「そっか」
セイラが付け加える。
「契約管理のため、また来る必要がありますわ」
ナギが顔を上げる。
「また来る?」
「当然です。契約が守られているか確認しなければなりません」
ナギは少し考えた。
「それは、会いに来るの?」
「契約確認です」
リアが笑った。
「九条さん、それも会いに来るって言うんだよ」
「言い方の問題ですわ」
ナギは小さく笑った。
「契約確認」
ミナトが言う。
「俺も外部対話の接続テストで来ると思うよ。まあ、変なことしたらすぐログ取るけど」
「ログ取られるの、嫌」
「じゃあ変なことしないことだね」
カナタは短く言った。
「契約が乱れたら来る」
ナギは彼を見る。
「乱れなかったら?」
カナタは少し考えた。
「それでも、来る時は来る」
ナギは、なぜか少し嬉しそうだった。
神楽坂は静かに言う。
「私も、証人として定期的に訪れる」
ナギは神楽坂をじっと見た。
「英雄じゃなくて?」
「ああ」
「一人の探索者として?」
「そうだ」
ナギは頷いた。
最後に、彼女は俺を見た。
「透真も来る?」
「ああ」
俺は答えた。
「必要なら」
ナギは少し不満そうな顔をした。
「必要なら?」
「……会いにも来る」
そう言い直すと、ナギは目を丸くした。
それから、ほんの少し笑った。
「そっか」
その表情は、初めて年相応の少女のように見えた。
俺たちは帰還扉へ向かう。
その途中で、ナギが俺を呼び止めた。
「透真」
振り返る。
ナギは、駅前広場の真ん中に立っていた。
「澪の部屋、また見る?」
胸が強く鳴った。
澪のいる家。
あの玄関。
あの声。
お兄ちゃん、と呼ぶ声。
見たい。
今でも見たい。
それは、なくなっていない。
たぶん、これからもなくならない。
俺は少しだけ目を閉じた。
そして答える。
「いつか見るかもしれない」
ナギは黙って聞いている。
「でも、その時は、戻るために見る」
「戻るため?」
「ああ」
俺は言った。
「そこに閉じこもるためじゃなくて、ちゃんと現実に戻るために」
ナギは、ゆっくり頷いた。
「分かった」
信号機が青に変わる。
進め。
俺たちは、帰還扉へ向かった。
扉をくぐる直前、俺はもう一度だけ灰色の街を見た。
ナギが手を振っていた。
不器用に。
小さく。
俺は軽く手を上げ返した。
次の瞬間、視界が白く染まる。
耳に、現実の音が戻ってきた。
警報。
人の声。
端末の通知音。
誰かが走る足音。
管理局の臨時ゲート室だった。
俺たちは、一人ずつ床に膝をつくように戻ってきた。
リアが大きく息を吸う。
「帰ってきた……」
セイラがすぐに姿勢を正す。
「当然ですわ」
ミナトが床に座り込む。
「いやー、さすがに疲れた。精神労働は単価高くしてほしいね」
カナタは無言で剣を確認している。
神楽坂は、しばらく目を閉じていた。
佐伯が駆け寄ってくる。
「全員、帰還確認。負傷は?」
リアが手を上げる。
「精神的には全員ボロボロです」
佐伯は真顔で頷いた。
「医療班と心理支援班を呼んであります」
「冗談っぽく言ったのにちゃんと対応された」
俺は少しだけ笑いそうになった。
でも、すぐに表情は戻る。
大型モニターに、S級ダンジョンの映像が映っていた。
黒い境界は、拡大を止めている。
消えたわけではない。
ただ、静かにそこにある。
佐伯が言う。
「S級ダンジョンは封鎖状態から、契約管理状態へ移行します。管理局上層部は混乱していますが、記録は残っています。隠せません」
セイラが冷たく言う。
「隠させませんわ」
ミナトが端末を掲げる。
「こっちにもコピーあるしね」
リアのドローンも、記録を保存していた。
神楽坂が静かに言う。
「私も証言する」
佐伯は頷いた。
「お願いします」
世界は、これで綺麗になるわけじゃない。
神楽坂は許されない。
管理局も許されない。
アルカディアの捜査も終わっていない。
澪は戻らない。
ナギのいるS級ダンジョンも、危険なままだ。
でも、ひとまず暴走は止まった。
戻る道は残った。
俺は、モニターの中のS級ダンジョンを見た。
灰色の街。
ナギ。
信号機。
澪の部屋。
いつかまた、向き合う時が来るのかもしれない。
その時、俺は逃げずに見る。
でも、戻るために。
現実へ戻るために。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
S級ダンジョン編は、ここで一区切りです。
ナギとの契約によって、S級ダンジョンの暴走は止まりました。
ただし、ダンジョンそのものが消えたわけではありません。
願望も、恐怖も、怒りも、後悔も、人間からなくなるわけではないからです。
ナギは、魔物でも人間でもなく、ダンジョンそのものでもない存在でした。
人間の願望から生まれ、人間に必要とされたかった存在です。
透真の鑑定では、彼女に嘘はありませんでした。
ただ、「また会いに来てほしい」という祈りがありました。
灰原ナギは、誰かの嘘ではない。
そのことを受け入れた上で、彼女はS級ダンジョンに残ります。
そして透真は、澪の部屋をいつか見るかもしれないと答えました。
ただし、閉じこもるためではなく、現実に戻るために。
次回からは、事件後の世界を描いていきます。
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