第53話 灰原ナギ
灰色の少女は、駅前広場の中央に立っていた。
誰もいない街。
閉じたシャッター。
割れた街灯。
電車の来ないホーム。
曇った空。
その全部の中心に、彼女だけがいた。
黒い髪は肩の少し下で揺れている。
灰色のワンピースは、風もないのに裾だけが小さく動いていた。
裸足の足元には、水たまりのような黒い影が広がっている。
年齢は、見た目だけなら十二、三歳くらい。
けれど、子どもだとは思えなかった。
人間の形をしている。
でも、人間の輪郭に、何か別のものが入っている。
俺はもう一度、鑑定した。
対象:灰色の少女
【鑑定不能】
何も見えない。
神楽坂レイジに初めて鑑定を向けた時と同じ表示。
いや、今は少し違う。
神楽坂は英雄を降りたことで、ほんの一部だけ鑑定が通るようになった。
でも、この少女は違う。
完全に通らない。
嘘も、危険も、本音も見えない。
そこにいるのに、俺の鑑定からは存在そのものが抜け落ちている。
セイラが低い声で言った。
「不用意に近づかないこと」
リアが小型ドローンを起動しようとする。
だが、ドローンは一瞬だけ浮かび、すぐに落ちた。
「え、壊れた?」
ミナトが端末を確認する。
「壊れてない。飛ばす理由を失ったみたいに停止してる」
「何それ」
「俺にも分からない。機械の動作ログが変なんだよ。『撮影対象なし』って出てる」
少女はそこにいる。
俺たち全員が見ている。
なのに、ドローンは撮影対象なしと判断している。
カナタが剣を構えた。
「魔物ではないな」
神楽坂が静かに頷く。
「ああ。少なくとも、私の知る魔物反応とは違う」
少女は首を傾げた。
「魔物って、便利な言葉だね」
声はすぐ近くで聞こえた。
距離はまだある。
広場の反対側にいる。
それなのに、耳元で囁かれたように聞こえる。
「怖いもの。分からないもの。嫌いなもの。全部、魔物って呼べばいい」
少女は少しだけ笑った。
「そうしたら、倒せるもんね」
リアが小さく息を呑む。
セイラが少女を見据えた。
「あなたは何者ですの」
「名前?」
「ええ」
少女は少し考えるように空を見上げた。
「名前は、あった方が話しやすい?」
「当然ですわ」
「じゃあ、灰原ナギ」
少女はそう言った。
灰原ナギ。
名前を聞いた瞬間、駅前広場の時計が一斉に動き始めた。
止まっていた秒針が、ありえない速さで回る。
一分。
一時間。
一日。
逆回転し、また進み、最後に全部が十二時で止まった。
ミナトが顔をしかめる。
「名前を名乗っただけで空間が反応した」
セイラが言う。
「本名かどうかは分かりませんわね」
俺はナギを見た。
「灰原ナギ。それは本当の名前か」
ナギは俺を見る。
黒い瞳。
光がないわけではない。
でも、光り方が人間と違う。
「本当の名前って、誰が決めるの?」
俺は答えられなかった。
ナギは続ける。
「親が決めたら本当? 書類に残ったら本当? 誰かが呼び続けたら本当?」
彼女の足元の黒い影が、ゆっくり広がる。
「じゃあ、今あなたたちが灰原ナギって呼んだら、それが本当になるのかな」
リアが小声で言う。
「何か、言葉遊びしてるみたいで怖い」
「言葉遊びではありませんわ」
セイラが答える。
「おそらく、この空間では言葉そのものに意味がある」
神楽坂が一歩前に出た。
「灰原ナギ。君は、このS級ダンジョンの中心にいる存在か」
ナギは神楽坂を見た。
そして、少しだけ目を細める。
「あなた、薄くなったね」
神楽坂の表情がわずかに変わる。
「薄い?」
「前はもっと大きかった。人の願いがいっぱいくっついてた。正しくあってほしい。助けてほしい。間違えないでほしい。謝らないでほしい。負けないでほしい」
ナギは指を一本ずつ折る。
「今は少し減った」
神楽坂は何も言わない。
ナギは続けた。
「でも、まだ残ってる。人間って、誰かに背負わせるの好きだよね」
カナタが低く言った。
「そうだな」
ナギはカナタを見る。
「あなたも背負いたがり」
カナタの眉が少し動く。
「でも、あなたのは少し変わった。死にたい重さから、生きて持つ重さになった」
カナタは黙った。
リアが俺の袖を軽く掴む。
「この子、見えてるの?」
俺は答えられない。
鑑定はできない。
でも、ナギは俺たちの奥を見ている。
過去か。
願望か。
恐怖か。
それとも、俺たちがこのダンジョンに入った時点で、全部読まれているのか。
俺はナギに聞いた。
「お前は、俺たちを呼んだのか」
「呼んだのは、あなたたち」
「俺たちが?」
「そう」
ナギは駅前の空を見上げた。
灰色の雲の奥で、何かがざわめいている。
「誰か、正しいことを言って。誰か、悪い人を決めて。誰か、大丈夫って言って。誰か、嘘じゃないって言って。誰か、私を見つけて」
最後の言葉だけ、少し声が違った。
俺はその変化を聞き逃せなかった。
「私?」
ナギは微笑んだ。
「今のは、誰の声だと思う?」
その瞬間、駅前広場の景色が歪んだ。
シャッター街の一角に、配信禁止区域の通路が重なる。
別の場所には、探索者裁判の傍聴席。
道路の向こうには、炎上した端末画面。
駅の階段には、血のような契約陣。
そして、遠くの学校の校舎には、俺の家の玄関に似た扉が現れる。
全員の記憶が混ざっている。
リアが息を呑んだ。
「これ、また……」
ナギが言った。
「この街は、人間が欲しいものを映すよ」
セイラが顔をしかめる。
「願望の再現、ということですの」
「願望。後悔。恐怖。言えなかった言葉。聞きたかった答え。全部似てる」
ナギは駅前のベンチに腰かけた。
「人間は、苦しいものを外に出したがる。誰かに見てほしい。誰かに分かってほしい。でも、そのまま見られるのは怖い。だから形を変える」
彼女の足元に黒い影が集まる。
それは小さな獣の形になりかけ、すぐに崩れた。
「それが暴れると、魔物になる」
俺たちは誰も動けなかった。
澪の記録にあった仮説。
ダンジョンは人間の恐怖や願望に反応する。
それを、目の前の少女は当然のように話している。
神楽坂が言う。
「では、ダンジョンは人間を滅ぼそうとしているわけではないのか」
ナギは首を傾げた。
「滅ぼすって、何?」
「人間を殺すことだ」
「死ぬ人はいるよ」
「それは分かっている」
「でも、人間も人間を殺すよね」
神楽坂は口を閉じた。
ナギは淡々と続ける。
「殺したいから殺す時もある。守りたいから殺す時もある。怖いから殺す時もある。間違えたから殺す時もある。それでも、人間は人間全体を敵って呼ばない」
灰色の少女は、こちらを見た。
「どうしてダンジョンだけ、敵って呼ぶの?」
誰もすぐには答えなかった。
リアが小さく言う。
「だって、危ないから」
「うん。危ないよ」
ナギは頷く。
「ここは危ない。願いは危ない。嘘も危ない。本当も危ない」
彼女はベンチから立ち上がる。
「でも、危ないものは、全部敵なの?」
俺は拳を握った。
ナギの言葉は、すべてを曖昧にする。
ダンジョンは敵じゃない。
だから戦うな。
そう言いたいのか。
でも、現実には人が死んでいる。
澪も死んだ。
それを曖昧にされるのは許せない。
「危ないなら、止める必要がある」
俺は言った。
「人が死ぬなら、俺たちは止める」
ナギは俺を見る。
「うん」
意外なほどあっさり頷いた。
「止めればいい。壊してもいい。逃げてもいい。見てもいい。見なかったことにしてもいい」
「何が言いたいんだ」
「選べばいい」
ナギの声が、少しだけ近くなる。
「でも、人間は選ぶのが嫌い。誰かに決めてほしい。正解を言ってほしい。悪い人を決めてほしい。英雄を作って、悪役を作って、それから安心したい」
俺の胸に刺さる。
神楽坂を悪人にして終わらせようとしていた俺にも、それは当てはまる。
ナギは笑った。
「だから、この街は作った」
「この街?」
「うん。願望の街。欲しい答えがある場所」
駅前の時計がまた動き出す。
秒針の音が、やけに大きく響いた。
「ここには部屋があるよ。欲しかったものを見せる部屋。言われたかった言葉を聞ける部屋。失敗しなかった自分に会える部屋。許してほしい人に許される部屋。罰してほしい人に罰される部屋」
ミナトが乾いた声で言う。
「悪趣味なテーマパークだね」
ナギはミナトを見る。
「でも、入りたいでしょ?」
ミナトは黙った。
リアも。
セイラも。
カナタも。
俺も、黙った。
入りたくない、と即答できなかった。
澪が生きている部屋。
そんなものがあるなら、見たいと思ってしまった。
たとえ偽物でも。
ナギは、それを見透かしたように俺を見る。
「お兄ちゃん、って呼ばれたい?」
息が止まった。
リアが鋭く言う。
「やめて」
ナギはリアを見る。
「あなたは、嫌われない場所が欲しい?」
リアの顔がこわばる。
次にセイラへ。
「あなたは、全部認めてもらえる家が欲しい?」
セイラの指先が少し動く。
ミナトへ。
「あなたは、売らなかったことにしたい?」
ミナトの笑みが消える。
カナタへ。
「あなたは、罰してもらいたい?」
カナタの剣がわずかに揺れる。
神楽坂へ。
「あなたは、まだ英雄でいたい?」
神楽坂は、目を伏せなかった。
だが、答えもしなかった。
ナギは満足そうに頷く。
「ほら。みんな欲しい」
空がさらに暗くなる。
街のあちこちに扉が現れた。
配信スタジオの扉。
豪奢な屋敷の扉。
古い情報屋の事務所の扉。
血の契約陣が刻まれた扉。
英雄記念館のような白い扉。
そして俺の前には、見慣れた木の扉。
実家の玄関。
澪がいた頃の家。
手が勝手に伸びそうになる。
セイラの声が飛んだ。
「全員、扉から離れなさい!」
その言葉で、意識が戻った。
俺は慌てて手を引く。
ナギは少し残念そうに言った。
「入らないの?」
「罠ですわ」
セイラが言う。
「罠じゃないよ」
ナギは首を横に振る。
「欲しいものを見せるだけ。欲しい言葉を聞かせるだけ。苦しいなら、休めばいい」
「戻れる保証は?」
カナタが聞く。
ナギは黙った。
その沈黙だけで十分だった。
カナタが剣を構える。
「戻れないなら、罠だ」
「戻りたいって思えるなら、戻れるかもしれない」
「曖昧だな」
「人間の願いは、いつも曖昧だよ」
ミナトが端末を確認する。
「まずい。扉が増えてる。たぶん、こっちの迷いに反応してる」
リアが後退する。
「見ない方がいいやつ?」
「見ない方がいいけど、見ないと思うほど見たくなるやつですわね」
セイラが苦々しく言った。
その時、俺の前の木の扉が少しだけ開いた。
中から、光が漏れる。
そして声。
『お兄ちゃん、帰ってきた?』
澪の声。
本物としか思えない声。
俺の足が動く。
「黒瀬さん!」
リアが叫ぶ。
分かってる。
これは願望だ。
罠かもしれない。
本物じゃないかもしれない。
でも。
もう一度だけ聞きたい。
もう一度だけ、澪に名前を呼ばれたい。
俺は足を止められなかった。
その瞬間、神楽坂が俺の前に立った。
俺は反射的に怒鳴りそうになる。
だが、神楽坂は俺を押さえつけなかった。
代わりに、扉から目を逸らさずに言った。
「行くなら、一人で行くな」
その言葉で、胸の奥が揺れた。
止めるのではない。
隠すのでもない。
選ぶ権利を奪うのでもない。
一人で行くな。
俺は歯を食いしばった。
「……行きません」
声がかすれた。
「今は、行かない」
木の扉が、小さく軋んだ。
まるで残念がるように。
ナギは俺たちを見て、少しだけ笑った。
「我慢するんだ」
「選んでるんだ」
俺は言った。
「お前の言う通り、選んでる」
ナギの目が、初めて少しだけ揺れた。
「選ぶの、苦しいよ」
「知ってる」
「誰かに決めてもらった方が楽だよ」
「それも知ってる」
「嘘に休んだ方が、痛くないよ」
俺は拳を握る。
「それでも、戻れない嘘ならいらない」
ナギは黙った。
街の空に、ひびが入る。
だが、すぐに修復される。
ナギは目を細めた。
「まだ、そう言えるかな」
その瞬間、街中の扉が一斉に開いた。
白い光があふれる。
リアが、セイラが、ミナトが、カナタが、神楽坂が、それぞれ別の方向へ引き寄せられる。
俺は手を伸ばした。
「みんな!」
だが、声は届かない。
足元の黒い影が広がる。
世界が分断される。
最後に見えたのは、灰原ナギの静かな笑顔だった。
「じゃあ、欲しかったものを見てきて」
視界が白く染まる。
そして俺の目の前には、懐かしい家の玄関があった。
奥から、澪の声がする。
『お兄ちゃん、早く入ってきなよ』
俺は、動けなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、灰原ナギとの本格的な接触回でした。
ナギは、S級ダンジョンの中心にいる鑑定不能の少女です。
彼女は魔物ではなく、かといって普通の人間でもありません。
人間の願望や恐怖を読み取り、それを街や部屋として形にする存在です。
このS級ダンジョンは、単に人間を殺す迷宮ではありません。
人間が欲しかった答え、聞きたかった言葉、消したかった後悔を見せる場所です。
だからこそ危険です。
ナギは、透真たちにそれぞれの願望を突きつけました。
リアには嫌われない場所、セイラには認められる家、ミナトには売らなかったことにできる世界、カナタには罰してもらえる場所、神楽坂には英雄でいられる場所、透真には澪がいる家。
次回は、それぞれの願望の部屋に入っていきます。
ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




