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第52話 英雄なき世界

 神楽坂レイジが壇上を降りた日、世界は少しだけ静かになった。


 いや、正確には逆だ。


 街は騒がしかった。

 ニュースは鳴り続け、端末には警報が流れ、配信者たちは一斉に言葉を探していた。

 管理局の公式発表は数分ごとに更新され、探索者向けの緊急招集通知も止まらなかった。


 それでも俺には、世界が静かになったように感じられた。


 今までずっと、誰かが代わりに答えてくれていた。


 神楽坂レイジがいる。

 管理局が管理している。

 探索者制度は正しい。

 ダンジョンは敵で、探索者は人類の希望だ。


 分かりやすい物語が、社会全体を包んでいた。


 その物語が、さっき崩れた。


 だから人々は騒いでいる。

 でも、その騒ぎの奥にあるのは、答えを失った静けさだった。


【S級ダンジョン周辺、空間境界拡大】

【第二防壁、機能低下】

【周辺三地区に避難勧告】

【緊急攻略隊、編成開始】


 管理局の作戦室には、赤い警告表示がいくつも浮かんでいた。


 巨大な立体マップの中央には、黒い穴のような空間が映っている。


 S級ダンジョン。


 澪が異常を読んだ場所。

 神楽坂が澪を救えなかった場所。

 そして今、人々の不安を吸い込むように膨張している場所。


 佐伯ユズルが端末を操作しながら言う。


「境界拡大速度は予測値の三倍。通常の魔力災害では説明がつきません」


 セイラが腕を組む。


「通常ではないことは、もう分かっていますわ」


 ミナトが別画面を開く。


「SNSの不安ワードと境界拡大のタイミング、かなり一致してる。『神楽坂』『隠蔽』『ダンジョンは敵じゃない』『管理局信用できない』あたりが跳ねた直後に、揺らぎも増えてる」


 リアが青ざめた顔で画面を見る。


「つまり、人の不安が本当にダンジョンに流れてるってこと?」


「少なくとも、そう見える」


 俺は立体マップを鑑定した。


 対象:S級ダンジョン急拡大

 嘘:これは自然災害

 危険:人間の不安

 備考:内部に未確認人型反応


 また同じ表示。


 自然災害ではない。

 人間の不安。


 澪の記録にあった言葉が、現実になっていく。


 カナタが低く言った。


「未確認人型反応は?」


 佐伯が画面を切り替える。


「内部深度は不明。ただし、境界拡大の中心付近に一つ。魔物反応とは異なります。生存者の可能性もありますが、立入禁止区域内に民間人はいないはずです」


 ミナトが肩をすくめる。


「いるはずがない場所にいる人型反応。嫌な響きだね」


 神楽坂レイジは、作戦室の端に立っていた。


 黒いコートを着ている。

 だが、さっきまでの彼とは違って見えた。


 そこにいるだけで部屋が安心する、という感覚が薄い。


 英雄ではなく、ただの探索者。


 それでも、彼の経験は本物だ。


 佐伯が神楽坂に視線を向ける。


「神楽坂さん。S級ダンジョン内部の最新情報を」


 神楽坂は頷いた。


「私が最後に入った時と、構造が変わっている可能性が高い。以前は階層型だったが、今の反応はもっと不安定だ。内部空間が、人間の認識や感情に応じて変化しているかもしれない」


 俺は思わず聞いた。


「澪は、それを見ていたんですか」


 神楽坂の目が少しだけ伏せられる。


「その兆候を見ていた」


「兆候?」


「ああ。彼女は、ダンジョンが物理的な迷宮というより、人間の内面に反応する場所になりつつあると考えていた」


 人間の内面。


 リアの配信への恐怖。

 セイラの認められたい願望。

 ミナトの消したい罪。

 カナタの罰されたい気持ち。

 俺の、澪が生きていてほしい願望。


 記憶迷宮で見たものは、S級ダンジョンの縮小版だったのかもしれない。


 アルカディアは、それを利用しようとしていた。

 記憶を集め、恐怖を加工し、攻略AIに学習させるために。


 セイラが言う。


「突入目的を整理しますわ」


 彼女が作戦卓に手を置く。


「第一に、S級ダンジョンの急拡大停止。第二に、未確認人型反応の確認。第三に、澪さんの記録と照合できる内部異常の確認。第四に、生存者がいれば救助」


 リアが小さく言う。


「第五に、全員で帰る」


 セイラはリアを見た。


 少しだけ間を置いてから、頷く。


「ええ。第五に、全員で帰る」


 その言葉に、少しだけ胸が締めつけられた。


 かつてリアは言った。


 全員で出る。


 あの時、それは嘘だった。

 全員を助けられる保証なんてなかった。


 でも、今の俺たちはそれをただの綺麗事として言っているわけじゃない。


 危険を見て、役割を決めて、逃げ道を残して、それでも全員で帰ると言う。


 それはたぶん、前より少しだけ強い言葉だ。


 カナタが剣を担ぐ。


「編成は?」


 佐伯が答える。


「黒瀬透真、白峰リア、九条セイラ、鴉羽ミナト、御影カナタ。加えて神楽坂レイジさん」


 空気が少しだけ揺れた。


 神楽坂本人も、俺を見る。


 俺は佐伯に聞いた。


「神楽坂さんも?」


「はい。内部経験があります。ただし、指揮権は持ちません」


 セイラが即座に言った。


「指揮は私たちで分担します。神楽坂レイジに全判断を預けることはしません」


「承知しています」


 佐伯は頷いた。


 神楽坂も静かに言う。


「私も、そのつもりはない」


 カナタが神楽坂を見る。


「一人で前に出るなよ」


 神楽坂は少しだけ驚いたように目を向けた。


 カナタは続ける。


「昔の俺みたいなことをするな」


 それは、短いが重い忠告だった。


 神楽坂は少し間を置いてから答える。


「分かった」


 リアが神楽坂に向かって言う。


「あと、『私が何とかする』みたいな空気出したら止めます」


「気をつける」


「本当に気をつけてくださいね。そういうの、たぶん癖なので」


 神楽坂は苦く笑った。


「そうだな」


 俺は神楽坂を見た。


 まだ許していない。


 たぶん、これからも簡単には許せない。


 でも、S級ダンジョンに入るなら、彼の経験は必要だ。


 それを認めることと、許すことは別だ。


 俺は言った。


「神楽坂さん」


「何だ」


「中で澪のことが出ても、また勝手に判断しないでください」


 神楽坂は俺を見る。


「分かった」


「俺に黙って、俺を守るとか言わないでください」


「ああ」


「俺が間違ってたら止めていいです。でも、俺から知る権利を奪わないでください」


 神楽坂は、深く頷いた。


「約束する」


 その約束を、完全に信じたわけじゃない。


 でも、今はそれでいい。


 俺たちは出撃準備に入った。


 リアは配信用の小型ドローンを一つだけ持った。


 ただし、今回は常時配信ではない。

 記録用。必要な時だけ外部へ接続する。


「今回は、見せるかどうかも中で判断する」


 リアが言う。


「でも、記録は残す。後から誰かが都合よく編集しないように」


 ミナトが笑う。


「耳が痛い人多そう」


 セイラは自分の端末に契約書を読み込んでいた。


「S級ダンジョン周辺設備の緊急使用権。管理局支給装備の一時管理権。避難路確保時の優先操作権。抜け穴は多いですが、使えるものはありますわ」


 ミナトが画面を覗く。


「相変わらず権利で殴る準備が早い」


「殴るのではありません。守るために使うのです」


「はいはい」


 カナタは黙って剣を確認している。


 その横に、神楽坂が立った。


「御影カナタ」


「何だ」


「契約剣について、少し聞いている」


「そうか」


「必要なら、私の出力を補助に回せる」


 カナタは神楽坂を見た。


「自分を正義の燃料にするなよ」


 神楽坂は一瞬黙った。


 それから、小さく頷く。


「分かった」


 カナタの言葉は刺々しい。

 でも、たぶん必要だった。


 英雄を降りたばかりの神楽坂は、まだ自分の使い方を知らない。

 気を抜けば、また自分を「みんなのための道具」に戻してしまう。


 それを止める人間が必要だ。


 出撃ゲートへ向かう通路には、管理局職員や探索者たちが集まっていた。


 彼らの視線は、まず神楽坂に向く。


 だが、以前とは違う。


 絶対的な安心ではない。

 疑い。

 戸惑い。

 それでも頼りたい気持ち。


 全部が混ざっている。


 神楽坂は、その視線を受け止めながら歩いた。


 何も言わない。


 大丈夫だとも、任せろとも言わない。


 ただ、一人の探索者として歩く。


 ゲートの前で、佐伯が最後の説明をする。


「内部通信は不安定になる可能性があります。帰還用ビーコンは各自一つずつ。全員の位置が十秒以上消失した場合、外部からの救助は困難です」


 リアが顔をしかめる。


「怖いことさらっと言う」


「事実ですので」


「佐伯さんって、そういうとこあるよね」


 佐伯は真顔で答える。


「よく言われます」


 ミナトが笑う。


「言われるんだ」


 少しだけ緊張が緩む。


 その瞬間、S級ダンジョン側の映像が映った。


 黒い境界。


 近づくだけで、空間が歪んで見える。


 普通のダンジョンゲートは、入口としての形がある。

 扉、穴、階段、裂け目。


 だが、これは違う。


 まるで世界そのものに、黒い感情が染み出しているようだった。


 俺はそれを鑑定する。


 対象:S級ダンジョン入口

 嘘:これは侵入口

 危険:願望の逆流

 備考:内部から招いている


「侵入口、が嘘です」


 俺が言うと、全員がこちらを見る。


「内部から招いている、って出ています」


 リアが小さく呟く。


「招いてる……?」


 セイラが目を細める。


「誰を?」


 答えは出ない。


 でも、俺には嫌な予感があった。


 澪が見たもの。

 未確認人型反応。

 人間の不安。

 願望の暴走。


 その全てが、俺たちを呼んでいる。


 佐伯が言う。


「突入許可、出ました」


 ゲートが開く。


 冷たい風が吹いた。


 いや、風ではない。


 誰かのため息のようなものが、黒い境界の奥から流れてきた。


 俺たちは一歩ずつ進む。


 リアが左。

 セイラが右。

 ミナトが後方。

 カナタが前衛。

 神楽坂は少し後ろ、俺の斜め前。


 先頭に立ちすぎない。


 でも、逃げてもいない。


 俺は深く息を吸った。


 澪。


 俺は行く。


 お前が見たものを、途中で切り取らずに見るために。


 黒い境界を越えた瞬間、音が消えた。


 会場の騒ぎも。

 警報も。

 管理局の声も。


 すべてが遠ざかる。


 代わりに、目の前に広がったのは、灰色の街だった。


 ダンジョンの中なのに、街がある。


 誰もいない商店街。

 閉まったシャッター。

 割れた街灯。

 遠くにある学校の校舎。

 住宅地。

 駅前広場。


 どこか現実に似ていて、どこにも存在しない街。


 リアが息を呑む。


「ダンジョン……だよね?」


 ミナトが端末を見る。


「地図、出ない。外部位置情報も死んだ」


 セイラが周囲を見渡す。


「人間の記憶から組まれた空間、というところですわね」


 カナタが剣を抜く。


「魔物反応は?」


 神楽坂が静かに言う。


「見える範囲にはいない」


 その時、街のスピーカーから声が流れた。


『誰か、正しいことを言ってください』


 全員が止まる。


 子どものような声だった。


 少女の声。


『誰か、悪い人を決めてください』


 空が揺れる。


 灰色の雲が、ゆっくり渦を巻く。


『誰か、大丈夫って言ってください』


 俺の胸がざわついた。


 それは、今の世界の声だった。


 英雄がいなくなった世界。

 正しさを失った人々の声。


 リアが小さく言う。


「これ、人の不安?」


「たぶんな」


 ミナトが答える。


 俺は声の方向を鑑定する。


 対象:街頭放送

 嘘:これは記録音声

 危険:願望誘導

 備考:未確認人型反応に接続


「記録音声じゃありません。未確認人型反応につながってます」


 セイラが言う。


「つまり、向こうから話しかけてきている」


 神楽坂が周囲を見た。


「気をつけろ。S級ダンジョンは、こちらの欲しい言葉を返してくる可能性がある」


 その瞬間、遠くの駅前広場に人影が見えた。


 小さな少女。


 灰色のワンピース。

 黒い髪。

 裸足。


 彼女は、誰もいない広場の中央に立っていた。


 俺は息を止める。


 鑑定する。


 対象:灰色の少女


【鑑定不能】


 神楽坂と同じ。


 いや、今の神楽坂には少し鑑定が通り始めている。


 でも、この少女には完全に通らない。


 少女がこちらを見た。


 距離があるのに、声だけがすぐ耳元に届いた。


「人間は、嘘がないと歩けないんだね」


 誰も動けなかった。


 少女は首を傾げる。


「じゃあ、嘘をなくしたあなたたちは、どこへ行くの?」


 S級ダンジョンの中心で、灰色の少女が笑った。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回からS級ダンジョン侵入編に入りました。


神楽坂レイジが英雄を降りたことで、人々の不安が一気に広がり、それに反応する形でS級ダンジョンが急拡大しました。

透真たちは、急拡大の停止と未確認人型反応の確認のため、S級ダンジョンへ突入します。


今回のポイントは、神楽坂が「指揮官」ではなく「一人の探索者」として同行することです。

透真はまだ神楽坂を許していません。

けれど、必要なら頼るし、間違っていれば止める。

その距離感のまま進むことになります。


そしてラストで、灰色の少女が登場しました。

彼女は鑑定不能であり、S級ダンジョンそのものと深く関わっている存在です。


次回は、灰原ナギとの接触と、S級ダンジョンの本質に踏み込んでいきます。

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