第26話 潜入失敗、証拠は残った
東雲セーフティリンク湾岸実証施設の警報は、一度止まった。
新人探索者たちは全員救出された。
施設内の魔物は管理局の隔離班によって封鎖され、実験区画の扉も九条セイラの《所有権》で押さえられている。
だから、終わったのだと思いかけた。
だが、佐伯ユズルはそういう顔をしていなかった。
簡易解析車両の中で、彼は回収されたローカルキャッシュを確認しながら、ずっと無言だった。
画面には、断片的なファイル名が並んでいる。
失敗記憶分類。
恐怖反応予測。
命令逸脱型。
救助衝動型。
恩債反応型。
攻略AI学習ログ。
事故記録参照。
そして、さっき見たファイル。
KUROSE_MIO_FRAGMENT_03
澪の声は、まだ耳に残っている。
『お兄ちゃんには、まだ見せないで』
それ以上は分からない。
誰に言ったのか。
何を見せないでほしかったのか。
なぜ、まだ、なのか。
答えはどこにもない。
ただ、胸の奥だけがずっと痛かった。
セイラは俺の斜め前に立ち、腕を組んでいる。
彼女も疲れているはずだった。
施設の扉、照明、避難設備、端末を同時に動かし続けた負荷は軽くない。
それでも彼女は、背筋を崩さなかった。
「佐伯」
セイラが言う。
「中枢データの転送先は追えますの?」
「一部だけ」
佐伯は短く答えた。
「転送完了ログには、経路の断片が残っています。ただし、すでに複数の中継サーバーを経由している。今ここから原本を押さえるのは難しい」
「逃げられた、ということですわね」
「はい」
佐伯は否定しなかった。
その言葉が、車内の空気をさらに重くした。
俺たちは新人たちを救った。
施設も押さえた。
澪の記憶断片も見つけた。
それでも、中枢データは逃げた。
失敗記憶を商品にしている証拠の本体。
攻略AIの学習ログ。
事故記録アーカイブ。
その中心にあるものは、まだアルカディアの手の中だ。
白峰リアの声が、通話越しに聞こえた。
『じゃあ、今ある証拠だけじゃ足りない?』
「足りないわけではありません」
佐伯は答える。
「ただし、アルカディアの中枢まで届くには弱い。下請け施設の不適切運用、研修生への危険行為、記憶処理の疑い。そこまでは追える」
『本体は逃げるってこと?』
「逃げるでしょう」
リアが小さく舌打ちした。
『ほんと最悪』
「はい」
佐伯は淡々と頷く。
その時だった。
解析端末が、短い警告音を鳴らした。
技術担当の管理局員が顔を上げる。
「佐伯さん。外部接続が来ています」
「遮断は?」
「しています。ただ、施設側の残存システムが勝手に応答しようとしています」
セイラの表情が変わった。
「どこから?」
「アルカディア・ラーニングシステムズ本社系統……いや、違います。上位認証を噛ませています」
「上位認証?」
俺が聞くと、佐伯が低く言った。
「アルカディア本体より上の権限です」
その言葉の意味を理解する前に、車両の外で警報が鳴った。
施設の方からだ。
東雲セーフティリンクの建物全体が、赤い非常灯に染まっていく。
さっきセイラが緑に変えた避難誘導表示が、一斉に赤く反転した。
【未承認占有】
【証拠保全プロトコル違反】
【施設権限を回収します】
「回収?」
セイラが目を細める。
次の瞬間、彼女の端末が激しく振動した。
画面に、権限競合の警告が並ぶ。
施設安全管理権限:九条側一時譲渡
上位契約権限:不明
施設制御権:回収要求
対象:全区画
セイラの顔色が変わる。
「……上から剥がしに来ていますわね」
「できるんですか」
「普通はできません」
セイラは端末を握り直した。
「だから、普通ではない相手が来ています」
佐伯が即座に指示を出す。
「全員、証拠媒体を持って撤収準備。施設内に残っている局員へ退避命令。ローカルキャッシュの複製を優先してください」
管理局員たちが一斉に動き出す。
解析車両の中が慌ただしくなる。
俺は画面を見る。
澪の断片。
記憶売買の分類リスト。
攻略AI学習ログの一部。
アルカディア・ラーニングシステムズの接続痕跡。
全部がまだ完全には複製できていない。
「どれくらい残ってますか」
俺が聞くと、技術担当が答える。
「全部は無理です。あと三分あればかなり取れますが」
外の警報が強くなる。
施設のシャッターが、勝手に下り始めた。
セイラが歯を食いしばる。
「三分は持たせます」
「九条さん」
「黙っていなさい」
彼女は端末に手をかざした。
《所有権》が動く。
施設の扉。
照明。
避難設備。
端末管理。
東雲セーフティリンク側の権限で押さえられるものを、セイラが必死に掴み直す。
だが、さっきとは違う。
相手が強い。
施設そのものが、彼女の手から剥がされていくように見えた。
「……重いですわね」
セイラが呟く。
額に汗が浮かぶ。
俺は何かできないかと画面を見る。
鑑定。
対象:施設権限回収プロトコル
発信元:不明
状態:実行中
嘘:証拠保全のため
「証拠保全のため、が嘘です!」
俺は叫んだ。
「目的は証拠隠滅です!」
佐伯が即座に記録する。
「外部鑑定士による認定。施設権限回収プロトコルは証拠保全ではなく証拠隠滅目的の疑い」
リアの声が飛ぶ。
『それ、録れてる!?』
「録っています」
佐伯が答える。
『よし……!』
技術担当が叫ぶ。
「記憶売買分類リスト、複製完了! 攻略AI学習ログ、断片のみ! 事故記録参照テーブル、一部破損!」
「澪の断片は?」
俺は反射的に聞いていた。
技術担当が画面を確認する。
「KUROSE_MIO_FRAGMENT_03、複製済み。ハッシュも取りました」
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
持ち帰れる。
あの短い声だけでも。
澪が残した、あるいは残された断片を。
セイラが低く言う。
「残りは捨てなさい」
「でも」
技術担当がためらう。
佐伯が即断した。
「撤収します。これ以上は危険です」
「中枢データは」
「奪えません」
佐伯の声ははっきりしていた。
「今は、持ち帰れる証拠を持ち帰る」
その瞬間、施設の奥で爆ぜるような音がした。
爆発ではない。
だが、端末群が一斉に焼き切れるような音だった。
モニターが次々と黒くなる。
中枢データ室。
研修ログ。
失敗記憶分類。
映像記録。
消えていく。
俺は奥歯を噛んだ。
また逃げられる。
分かっている。
新人たちは助かった。
断片は持ち帰れる。
一部証拠も取れた。
でも、中枢は取れない。
アルカディアの本丸には届かない。
「黒瀬さん!」
佐伯の声で我に返る。
「車両から出ます。移動してください」
「はい!」
俺たちは解析車両を降りた。
外は赤い警告灯で染まっている。
施設の自動扉が閉まりかけ、管理局員たちが駆け出してくる。
セイラは最後まで端末を握っていた。
退避路だけを開け続けるために。
全員が外へ出た瞬間、施設の入口が完全に閉じた。
直後、外部回線が切断される。
建物は静かになった。
さっきまで鳴っていた警報さえ止まる。
まるで、何もなかったように。
ただの灰色の倉庫に戻っていた。
セイラが膝をつきかけた。
俺は慌てて支えた。
「九条さん!」
「……少し、疲れただけですわ」
「少しじゃないですよね」
「うるさいです」
彼女の手は冷たかった。
それでも、端末だけは離していなかった。
佐伯が全員の退避を確認する。
「負傷者は?」
「軽傷のみ。全員退避済み」
「証拠媒体は?」
「三本確保。ローカルキャッシュ複製、分類リスト断片、澪さんの記憶断片、保全済み」
澪さん。
その呼び方に、少しだけ胸が痛んだ。
佐伯は施設を見上げた。
「潜入は失敗です」
はっきり言った。
「中枢データは奪えませんでした。施設の上位権限も特定できていません」
誰も反論しなかった。
事実だった。
だが、佐伯は続ける。
「ただし、証拠は残りました」
管理局員が持つ証拠媒体。
記憶売買分類リスト。
攻略AI学習ログの断片。
施設権限回収プロトコルの鑑定結果。
澪の記憶断片。
「これで、アルカディアが新人探索者の失敗記憶を扱っていたことは追えます。まだ本体を刺すには弱い。しかし、無傷では済ませない」
リアの声が、通話越しに低く言う。
『じゃあ、次はどうするの?』
佐伯は少しだけ沈黙した。
そして、俺たちを見た。
「アルカディアの中枢と、その上にいる連中に近づくには、国家選抜戦に出るしかありません」
国家選抜戦。
初めて聞く言葉ではない。
S級ダンジョン攻略メンバーを決める、国主導の選抜制度。
上位探索者、企業ギルド、スポンサー、管理局、各種団体が絡む巨大な舞台。
普通なら、俺みたいなFランクには関係のない世界だ。
「国家選抜戦って……俺たちが?」
俺が聞くと、佐伯は頷いた。
「はい」
「いや、俺、Fランクですよ」
「知っています」
「戦闘力ないですよ」
「知っています」
「なら」
「だから必要です」
佐伯は静かに言った。
「国家選抜戦には、アルカディアも関与しています。攻略AI、研修データ、企業ギルドの推薦枠。中枢に近い人間が表に出る」
セイラが顔を上げる。
「つまり、向こうが隠れている場所へ、こちらが参加者として入る」
「はい」
「随分と危険な案ですわね」
「他の案よりは現実的です」
「最悪ですわ」
「同感です」
リアが通話越しに言った。
『私も出るの?』
「可能なら」
『活動休止中なんだけど』
「復帰戦としては派手です」
『佐伯さん、そういう冗談言うんだ』
「冗談ではありません」
『もっと悪い』
セイラがため息をつく。
「白峰リア、黒瀬透真、私。そこに管理局推薦を乗せるつもりですの?」
「それだけでは足りません」
佐伯は答えた。
「国家選抜戦はチーム戦です。最低でも、もう二人必要です」
「誰を?」
俺が聞くと、佐伯は少しだけ表情を変えた。
「一人は、鴉羽ミナト」
俺は即座に嫌な顔をしたと思う。
リアも通話越しに叫んだ。
『え、あいつ入れるの!?』
セイラも冷たい声で言う。
「本気ですの?」
「本気です」
「信用できませんわ」
「信用する必要はありません。契約で縛ります」
「それを言うのは私の役目ですわ」
セイラは不満そうだった。
佐伯は続ける。
「もう一人は、私が探します」
「探す?」
「国家選抜戦を戦うには、経験のある前衛が必要です。あなたたちには足りない部分です」
俺は反論できなかった。
俺は戦えない。
リアは瞬発力と配信者としての機転があるが、真正面の戦闘向きではない。
セイラは強力だが、権利や所有が絡まない場面では万能ではない。
ミナトは情報屋であって、信じられる前衛ではない。
確かに、足りない。
「国家選抜戦に出れば、澪の記録にも近づけますか」
俺は聞いた。
声が少し震えた。
佐伯はすぐには答えなかった。
それから、正直に言った。
「近づける可能性があります」
「確実ではない」
「はい」
「でも、今よりは」
「近い」
それで十分だった。
今は。
セイラが俺を見る。
「黒瀬透真。あなたはまた危険な場所へ行くことになりますわ」
「分かってます」
「国家選抜戦は、アルカディアの研修施設とは違います。表の舞台です。観客もいる。企業もいる。敵も味方も、もっと多い」
「はい」
「あなたの鑑定も、今まで以上に狙われます」
「それでも行きます」
迷いはあった。
怖さもある。
でも、ここで降りる選択肢はもうなかった。
澪の断片を見た。
アルカディアの証拠を持ち帰った。
新人たちを助けた。
それで終わりにはできない。
リアが静かに言う。
『私も行く』
セイラが言う。
「当然、私もですわ」
佐伯は頷いた。
潜入は失敗した。
中枢データは奪えなかった。
けれど、証拠は残った。
そして次は、アルカディアが隠れている場所へ潜るのではない。
向こうが表に出ざるを得ない舞台へ、こちらから上がる。
国家選抜戦。
Fランク鑑定士には不釣り合いな場所。
だが、嘘が集まる場所なら、俺の出番はあるのかもしれない。
夜明け前の空が、少しずつ青くなっていた。
俺は証拠媒体が入ったケースを見た。
そこには、澪の声が残っている。
まだ見せないで。
その意味を知るためにも。
俺は次の舞台へ行く。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
アルカディア潜入編は、今回で一区切りです。
透真たちは新人探索者たちを救い、施設の一部を押さえ、記憶売買の証拠と澪の記憶断片を持ち帰ることができました。
一方で、中枢データそのものは奪えず、アルカディアの本体にはまだ届いていません。
完全な勝利ではありません。
むしろ、潜入としては失敗です。
けれど、何も残らなかったわけではありません。
失敗の記憶を商品にする仕組み。
攻略AIに人の恐怖や判断ミスを学習させる構造。
そして、澪が何かを隠そうとしていたという断片。
それらは確かに残りました。
次回からは、国家選抜戦予選へ入ります。
透真たちは、アルカディアの中枢へ近づくため、表の大舞台へ進むことになります。
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