第25話 澪の記憶断片
救出された新人探索者たちは、管理局の車両で次々と運ばれていった。
東雲セーフティリンク湾岸実証施設の前には、赤い警告灯がまだ回っている。
夜明け前の空は暗く、倉庫街の道路には人影もほとんどない。
さっきまで、この建物の中で八人の新人が閉じ込められていた。
逃げてはいけない。
成功するまで戻ってはいけない。
失敗は、逃げた記憶から生まれる。
そんな言葉を流されながら、魔物のいる訓練区画へ戻されかけていた。
今は全員、外に出た。
それだけは確かだった。
でも、胸の奥は軽くならない。
施設の奥にあった中枢データは、逃げた。
転送完了。
その文字が、まだ目の裏に焼きついている。
俺たちは新人を助けた。
間違いなく、それは優先すべきことだった。
それでも、あの扉の奥にあったかもしれないものを考えてしまう。
黒瀬澪。
妹の名前。
アルカディアの事故記録アーカイブに、その名前が残っているかもしれない。
俺はまた、手を伸ばせなかった。
「黒瀬透真」
隣で、九条セイラが俺を呼んだ。
彼女は顔色が悪い。
さっき施設全体の扉や照明、避難設備を《所有権》で操作し続けたせいだ。
それでも背筋だけはいつも通り伸びている。
「はい」
「その顔、やめなさい」
「どの顔ですか」
「助けたものより、取り逃がしたものばかり数えている顔ですわ」
言い返せなかった。
セイラは淡々と続ける。
「新人たちは生きて出ました。まずはそれを数えなさい」
「……はい」
「それでも悔しいなら、悔しがればいい。ですが、順番を間違えないことです」
きつい言い方だった。
でも、今は少し助かった。
順番。
助かった命を先に数える。
失ったものは、その後で悔しがる。
それくらいしないと、俺はずっと自分の痛みだけを見てしまう。
佐伯ユズルが施設入口から戻ってきた。
手にはタブレット。
いつもの無表情だが、目元に疲れがある。
「施設の一次保全は完了しました。中枢データは外部転送済み。ただし、ローカルキャッシュが一部残っています」
「ローカルキャッシュ?」
俺が聞くと、佐伯は頷いた。
「中枢から直接は取れませんでしたが、施設端末側に一時保存された断片が残っていました。完全な記録ではありません。壊れた映像、音声、分類タグの一部です」
胸が鳴った。
「それって……」
「まだ確認中です」
佐伯は俺を見た。
「黒瀬さん。見る前に言っておきます。期待しすぎないでください」
「……澪のものがあるかもしれないんですよね」
「可能性はあります。ただし、断片です。意味を成すとは限りません」
分かっている。
そう言おうとして、言えなかった。
分かっていないからだ。
澪の名前が出るだけで、俺の中の何かが乱れる。
冷静に、断片だから期待するなと言われても、無理だった。
セイラが佐伯へ言う。
「見せる必要がありますの?」
「黒瀬さんの鑑定で、断片の真偽を確認したい」
「今の彼に?」
「はい」
セイラは俺を見る。
「やめておいた方がいいと言えば、あなたはやめますの?」
「やめません」
「でしょうね」
彼女は小さく息を吐いた。
「なら、見なさい。ただし、壊れないこと」
「壊れない保証はできません」
「では、壊れかけたら座りなさい」
「そこなんですか」
「倒れられると面倒ですわ」
相変わらずだった。
でも、その言葉の奥にあるものは、前より分かる気がした。
管理局の簡易解析車両に移動した。
車内には小さなモニターと端末が並んでいる。
技術担当の管理局員が、回収したキャッシュデータを復元していた。
画面には、ノイズ混じりのファイル一覧が表示されている。
失敗記憶分類。
救助衝動型。
命令逸脱型。
退避抑制。
記憶負荷指数。
被験者番号。
事故記録参照。
その中に、一つだけ、目を離せない文字列があった。
KUROSE_MIO_FRAGMENT_03
英字の羅列。
それでも、はっきり分かった。
黒瀬澪。
俺の呼吸が止まった。
佐伯が静かに言う。
「黒瀬さん」
「はい」
「これは完全な記録ではありません。ファイル名も、偽装や誘導の可能性があります」
「分かってます」
声が少し掠れた。
「鑑定します」
俺は画面を見る。
対象:KUROSE_MIO_FRAGMENT_03
状態:破損断片
内容:映像音声一部残存
嘘:無関係なダミーデータ
無関係ではない。
ダミーではない。
少なくとも、澪と関係がある。
俺は唇を噛んだ。
「澪と関係あります。ダミーではないです」
佐伯が短く頷く。
「再生します」
画面が暗転した。
ノイズ。
白いちらつき。
どこかの部屋が映る。
白い壁。
机。
椅子。
天井の記録ドローンらしき影。
アルカディアの研修後処理室に似ている。
だが、今見た施設とは少し違う。
古い映像なのかもしれない。
画面の端に、少女の横顔が映った。
俺は息を呑んだ。
澪だった。
数年前の記憶より、少し大人びている。
でも、間違えようがない。
黒瀬澪。
俺の妹。
画面の中の澪は、椅子に座っている。
顔色は悪い。
それでも、目だけははっきりしていた。
誰かが、画面外で話している。
音声は壊れていて、ほとんど聞こえない。
『……適性……記憶負荷……』
ノイズ。
『……本人には……』
澪が顔を上げる。
そして、はっきりと聞こえた。
『お兄ちゃんには、まだ見せないで』
時間が止まった。
それだけだった。
映像はすぐに乱れる。
澪の顔がノイズに沈む。
音声も途切れる。
次の瞬間、画面にはエラー表示だけが残った。
再生不能。
車内は静まり返っていた。
誰も話さない。
俺は画面を見続けていた。
お兄ちゃんには、まだ見せないで。
澪の声だった。
間違いなく、澪の声だった。
俺に言ったのか。
誰に頼んだのか。
何を見せないでほしかったのか。
なぜ、まだ、なのか。
まだって何だ。
いつなら見せるつもりだったんだ。
俺は息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
胸が詰まる。
頭の中で、何度も声が繰り返される。
お兄ちゃんには、まだ見せないで。
見せないで。
澪は、俺に何かを隠していた。
誰かが隠しただけではない。
澪自身が、俺に見せないでと言っていた。
その事実が、痛かった。
想像していた痛みと違う。
アルカディアが澪を利用していた。
誰かが澪を騙していた。
事故の真相が隠されていた。
そういうものなら、怒れたかもしれない。
でも、画面の中の澪は、自分の意思で言っていた。
お兄ちゃんには、まだ見せないで。
俺は、澪に何を見せてもらえなかったのか。
澪は、俺から何を遠ざけようとしていたのか。
「黒瀬さん」
佐伯の声が遠く聞こえる。
「大丈夫ですか」
大丈夫。
そう言おうとした。
だが、視界の端に表示が浮かんだ。
嘘:大丈夫
自分でも分かっている。
大丈夫ではない。
「……座ります」
俺はそう言って、近くの椅子に腰を下ろした。
足に力が入らなかった。
セイラは黙っていた。
珍しく、何も刺してこない。
ただ、俺の横に立って、画面ではなく俺を見ている。
佐伯が技術担当に言う。
「再生停止。断片の複製を保全。外部接続を遮断してください」
「了解」
技術担当がすぐに作業する。
俺はまだ、画面から目を離せない。
「佐伯さん」
「はい」
「今の、他にも続きは」
「現時点で復元できたのはここまでです」
「ほかの断片は」
「探します。ただし、今すぐ見つかる保証はありません」
「……はい」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
セイラがようやく口を開く。
「黒瀬透真」
「はい」
「今、答えを急ぐと、間違えますわ」
「……」
「あなたは今、澪さんが自分を遠ざけたと思っているのでしょう」
胸が刺された。
言葉にされると、痛みが増した。
「違うんですか」
「知りません」
セイラは即答した。
でも、続けた。
「知らないから、今決めてはいけないと言っています」
俺は彼女を見る。
セイラの表情は真剣だった。
「今の断片は短すぎます。前後もない。相手も見えない。状況も分からない。『まだ見せないで』という言葉だけで、澪さんの意思を決めつけるのは危険です」
「でも、澪は確かに言ってました」
「ええ。言っていました」
「俺に見せないでって」
「その理由は、まだ分かりません」
セイラの声は冷静だった。
冷たくもあった。
でも、今はその冷たさが必要だった。
俺は、今すぐ意味を決めたかった。
澪は俺を信じていなかった。
澪は俺を巻き込みたくなかった。
澪は何かを隠していた。
アルカディアに言わされていた。
誰かを守ろうとしていた。
どれでもいいから、決めたかった。
決めれば、その形で痛がれるから。
でも、セイラはそれを許さなかった。
「意味を急いで固定すると、アルカディアの思うつぼですわ」
「……アルカディアの?」
「彼らは記憶の意味を編集する会社です。たった一つの断片で、あなたの感情がどちらへ動くかも計算している可能性があります」
その言葉で、少しだけ頭が冷えた。
失敗の記憶は商品になる。
編集された記憶は、本人にとっては真実になる。
なら、俺に見せられたこの断片も、何かの編集かもしれない。
澪の本物の声であっても。
澪と関係ある断片であっても。
前後が消えているなら、意味はまだ確定しない。
佐伯が言う。
「九条さんの言う通りです。黒瀬さん、今の断片は重要です。ただし、断片でしかありません」
「はい」
「我々は、これを手がかりとして扱います。結論としては扱わない」
手がかり。
結論ではなく。
俺は何度か呼吸を整えた。
喉の奥が痛い。
泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からない。
リアの声が、通話越しに小さく入った。
『黒瀬さん』
「……はい」
『今の、私には何も分かんない。でも、黒瀬さんが一人で抱えるやつじゃないと思う』
「ありがとうございます」
『あと、絶対ネットとかに出しちゃ駄目なやつだね』
「出しません」
それは即答できた。
澪の声を、誰かのコンテンツにする気はなかった。
リアも、それを分かって言ってくれたのだろう。
彼女は続ける。
『見せないって選択も、たぶん守ることになる時あるから』
リアらしい言葉だった。
配信を切ることを選んだ彼女だから言える言葉。
見せることが救いになるとは限らない。
その言葉が、今は別の意味で響いた。
澪は何かを見せないでと言った。
それは、俺を遠ざけるためだったのか。
守るためだったのか。
利用された結果なのか。
まだ分からない。
でも、分からないまま進むしかない。
佐伯が端末を閉じた。
「この断片は厳重に保全します。黒瀬さんの許可なく外部共有はしません」
「管理局内では?」
「必要最小限です。解析担当も限定します」
「お願いします」
セイラが言う。
「九条側でも、復元支援はできます」
俺は少し迷った。
澪の記録を、九条家に渡す。
抵抗がないわけではない。
セイラはそれを察したように、すぐに言った。
「無理にとは言いません。これはあなたと澪さんの記録です。私が所有するものではありませんわ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
セイラが、自分から所有しないと言った。
「……必要になったら、お願いします」
「ええ。その時に契約を結びます」
「そこは結ぶんですね」
「当然です。曖昧に扱う方が失礼ですわ」
たしかに、今はその方が少し安心できた。
東雲セーフティリンクの施設では、管理局員たちが証拠保全を続けている。
新人たちは全員保護された。
セイラの権限で開けられた扉や照明のログも残っている。
中枢データは逃げたが、ローカルキャッシュから澪の断片が出た。
勝ったのか、負けたのか。
分からない。
ただ、次へ進むための傷だけは増えた。
俺はもう一度、再生停止された画面を見る。
そこには、澪の顔は映っていない。
ただ、ファイル名だけが残っている。
KUROSE_MIO_FRAGMENT_03
断片。
まさにその通りだった。
澪の人生の、事故の、秘密の、ほんの一欠片。
それを見ただけで、俺はこんなに揺れている。
もし全部を見たら、自分はどうなるのだろう。
怖かった。
でも、見ないという選択肢はなかった。
佐伯が言う。
「黒瀬さん。今日は休んでください」
「また、そう言って明日呼ぶんですよね」
「呼ぶ可能性は高いです」
「正直ですね」
「嘘をついても意味がありませんから」
セイラが腕を組む。
「明日は、逃げた中枢データの行き先を追います」
「分かるんですか」
「分からせますわ」
頼もしいが、少し怖い。
佐伯が補足する。
「転送完了ログには、わずかに経路情報が残っています。完全ではありませんが、追跡の足がかりになる」
「そこに、澪の続きも?」
「可能性はあります」
可能性。
今はそれで十分だった。
確定ではない。
結論でもない。
でも、ゼロではない。
俺は立ち上がった。
まだ足元は少しふらつく。
それでも、さっきより呼吸はできていた。
澪の声は、まだ耳の奥に残っている。
お兄ちゃんには、まだ見せないで。
その意味は、まだ決めない。
決めてはいけない。
俺はその言葉を、痛みとしてではなく、手がかりとして持つことにした。
できるかどうかは分からない。
でも、そうしないと進めない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、透真がついに澪の記憶データの断片へ触れる回でした。
ただし、見えたのは本当に短い一部だけです。
前後の文脈も、相手も、状況も分かりません。
それでも、透真にとっては十分すぎるほど重い言葉でした。
記憶は、切り取られた瞬間に意味が変わります。
それはアルカディアが利用してきたものでもあり、透真自身も今まさに揺さぶられているものです。
澪がなぜその言葉を言ったのか。
誰に向けて言ったのか。
何を見せないでほしかったのか。
答えはまだ分かりません。
次は、逃げた中枢データの行き先を追うことになります。
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