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第14話 聖女は命令しない

 王城アリサという名前を知らない探索者は、たぶん少ない。


 探索者ランクはB。

 治療系スキル《聖癒》の保持者。

 重傷者の生存率を大きく上げる、数少ない高位ヒーラー。


 そして、世間ではこう呼ばれている。


 聖女。


 端末に映る彼女は、その呼び名にふさわしい見た目をしていた。


 肩まで伸びた柔らかそうな茶色の髪。

 穏やかな目元。

 白と淡い金色を基調にした探索者用ローブ。

 声は落ち着いていて、聞いているだけで安心する。


 動画サイトには、彼女の救助映像がいくつも上がっていた。


【聖女アリサ、崩落事故で重傷者三名を救助】

【王城アリサの癒しがすごすぎる】

【泣ける】救われた探索者が語る、アリサさんへの感謝

【聖女の言葉】あなたはまだ立てます


 俺は管理局の休憩スペースで、その動画をいくつか見ていた。


 隣には佐伯ユズル。

 向かいには九条セイラ。


 現場検証はいったん中断された。

 小型記録端末と匿名メッセージの件で、管理局側が通信ログを確認しているからだ。


 俺たちは地上の管理局臨時拠点へ戻され、待機していた。


 セイラは腕を組み、明らかに不機嫌そうな顔をしている。


「よくそんな動画を平気で見られますわね」


「確認です」


「それで? 何か分かりましたの?」


「人気がある理由は分かりました」


「不愉快なことに、それは事実ですわ」


 セイラは吐き捨てるように言った。


 画面の中では、王城アリサが若い探索者の手を握っている。


『大丈夫。あなたはまだ、誰かを守れる人です』


 コメント欄には、称賛が並んでいた。


『優しすぎる』

『こんなん泣く』

『アリサさんに言われたら頑張れる』

『聖女って呼ばれる理由分かる』

『救われた人、一生忘れないだろうな』


 俺は動画を止めた。


「この言葉、古町さんへのメッセージと似てますね」


 佐伯が頷く。


「王城アリサさんの発言傾向と一致します。音声照合も進めていますが、正式結果にはもう少しかかります」


「本人には確認するんですか」


「すでに連絡済みです」


「来るんですか?」


「はい。こちらへ向かっています」


 俺は思わず佐伯を見た。


「早くないですか」


「重要参考人ですから」


「相手、人気探索者ですよね」


「人気は事情聴取を拒む理由にはなりません」


「正論ですね」


「役所ですから」


 セイラが鼻で笑った。


「彼女は拒みませんわよ」


「なぜですか」


 俺が聞くと、セイラは画面に映る王城アリサを見た。


「拒めば、誰かを傷つけると思うでしょうから」


「悪いことではないのでは?」


「ええ。悪いことではありませんわ」


 セイラの声は冷たい。


「だから厄介なのです」


 その言い方が引っかかった。


 悪いことではない。

 だから厄介。


 普通は逆だ。

 悪いことなら責められる。

 間違っているなら正せる。

 でも、善意は責めにくい。


 古町隼人は、王城アリサに救われた。

 感謝していた。

 彼女の言葉に励まされていた。


 そして、死んだ。


 その間に何があったのか。


 まだ誰にも分からない。


 休憩スペースのドアが開いた。


 管理局員が顔を出す。


「佐伯さん。王城アリサさんが到着しました」


 空気が変わった。


 セイラの目が細くなる。

 佐伯は立ち上がる。

 俺も補助具つきの足でゆっくり立ち上がった。


「黒瀬さんも同席を」


「俺もですか」


「あなたの鑑定が必要になるかもしれません」


「便利に使いますね」


「はい」


「否定してください」


「必要ありません」


 この人は本当にぶれない。


 俺たちは面談室へ移動した。


 湾岸第十二ダンジョン臨時拠点の面談室は、新宿支部のものより簡素だった。

 白い机。

 椅子が六つ。

 記録用ドローンが一機。

 壁際に管理局員。


 少し遅れて、王城アリサが入ってきた。


 画面で見るより、実物の方がずっと柔らかい印象だった。


 白いローブではなく、今日は淡いベージュのジャケットを着ている。

 派手な装備はない。

 けれど、入ってきた瞬間に部屋の空気が少し緩んだ気がした。


 それくらい、彼女の表情は穏やかだった。


「お待たせして申し訳ありません」


 王城アリサは、まず深く頭を下げた。


「古町さんの件で、私に確認したいことがあると伺いました」


 声は動画と同じだ。


 優しく、落ち着いている。


 セイラが小さく息を吐いた。


 嫌悪というより、防御に近い反応だった。


 佐伯が席を示す。


「急な呼び出しに応じていただき、ありがとうございます。王城さん、本日は記録を取ります」


「はい。大丈夫です」


 アリサは椅子に座った。


 その動作にも、ほとんど隙がない。

 誰かに見られることに慣れている。

 でもリアとは違う。


 リアは視線を集める人間だった。

 アリサは視線を受け止める人間に見える。


 佐伯が切り出した。


「古町隼人さんと、事件当日にメッセージのやり取りをしていますね」


「はい」


 アリサはすぐに頷いた。


「隼人さんから、不安だと連絡がありました。私は、彼を励ましました」


 隼人さん。


 名字ではなく名前で呼んだ。


 古町の母親がこの場にいたら、どう思っただろう。


 佐伯はタブレットを操作し、復元されたメッセージを表示する。


<<あなたなら、守れます。

逃げずに立っていられる人だと、私は知っています。>>


「これは、あなたが送ったものですか」


「はい。私が送りました」


 即答だった。


 嘘を隠す様子はない。


 俺は彼女を鑑定した。


 対象:王城アリサ

 ランク:B

 スキル:《聖癒》

 嘘:なし


 嘘がない。


 少なくとも、今の発言には。


 俺は少し身構えた。


 嘘が見える相手より、嘘が見えない相手の方が怖い時がある。


 佐伯が続ける。


「古町さんは、その後、九条さんの待機命令を離れ、危険地帯へ進みました。その移動ログには、何かの合図を待つような挙動が見られます」


 アリサの表情が曇る。


「……そうだったのですね」


「王城さんは、古町さんに現場で何か指示を出しましたか」


「いいえ」


 鑑定。


 嘘:なし


「事件中に通話、メッセージ、スキルによる遠隔干渉は?」


「していません」


 嘘:なし


 セイラが腕を組んだまま言う。


「では、事件前に背中を押しただけだと?」


 アリサはセイラを見る。


 その目に敵意はない。


「私は、隼人さんを励ましたつもりでした」


「つもり」


「はい」


「あなたの励ましを受けた彼は、私の待機命令を無視して危険地帯に進みましたわ」


 セイラの声は鋭い。


 アリサは悲しそうに目を伏せた。


「それが事実なら、私の言葉が影響したのかもしれません」


「ずいぶん簡単に認めますのね」


「影響があった可能性まで否定するつもりはありません」


 アリサは静かに答えた。


「でも私は、隼人さんに死んでほしかったわけではありません。危険な行動をしてほしかったわけでもありません。ただ、彼が自分を責めすぎないように、支えたかった」


 鑑定。


 嘘:なし


 嘘がない。


 まただ。


 彼女は本気でそう思っている。


 悪意がない。


 それがこの場をさらに難しくする。


 セイラの表情が険しくなる。


「支える、ですか」


「はい」


「あなたはいつもそうですわね。誰かに優しい言葉を与えて、立たせる。感謝される。聖女と呼ばれる」


「九条さん」


 佐伯が制止しかける。


 だがセイラは続けた。


「ですが、立ち上がった相手がどこへ歩いていくかまで、あなたは見ていない」


 アリサは少しだけ息を呑んだ。


 初めて、彼女の穏やかな表情に揺れが出た。


「私は、見ていないつもりはありません」


「見ていませんわ」


 セイラは言い切った。


「古町隼人は、あなたに救われた命を返そうとしていた。あなたに期待された自分でいようとしていた。あなたは命令していない。だから責任はない。そうでしょう?」


「私は……」


 アリサは言葉に詰まった。


 佐伯が今度こそ口を挟む。


「九条さん。尋問ではありません」


「失礼」


 セイラは引いた。


 だが、顔には全く失礼と思っていないと書いてある。


 アリサは少し俯いていた。


 俺はその横顔を見た。


 鑑定表示は出ない。


 嘘はない。

 でも、本音も危険も見えない。


 俺の鑑定が弱いのか。

 それとも、彼女の言葉が本当に濁っていないのか。


「黒瀬さん」


 佐伯が俺を見た。


「あなたからも確認したいことはありますか」


「俺ですか」


「外部鑑定士として」


 また便利に使う。


 でも、聞くしかない。


 俺はアリサを見た。


「王城さん」


「はい」


「古町さんは、あなたに助けられたことを強く覚えていたんですよね」


 アリサは頷いた。


「はい。以前、彼は大きな怪我をして、探索者を辞めるかもしれない状態でした。私が治療に入り、復帰できるようになりました」


「その後も連絡を?」


「時々。隼人さんだけではありません。私が治療した探索者の中には、復帰後も相談をくれる方がいます」


「相談を受けたら、励ます?」


「できる限り」


「それで相手が無理をする可能性は、考えますか」


 アリサは少し黙った。


 そして、正直に言った。


「あります」


 嘘:なし


「それでも励ますんですか」


「励まさない方がいい時もあります。止めるべき時もあります。でも、苦しんでいる人に何も言わないことは、私には難しいです」


「言葉で救えることもあるから?」


「はい」


 アリサは俺をまっすぐ見た。


「言葉で立ち上がれる人もいます。あなたなら大丈夫だと言われて、もう一度前を向ける人もいます」


「でも、その言葉で危険な方へ行く人もいる」


「……はい」


 認める。


 そこも認める。


 嘘がない。


 本当に、やりづらい。


 セイラのように刺々しい相手なら、こちらも疑いやすい。

 高木のように薄い笑顔なら、危険が分かりやすい。


 でもアリサは違う。


 自分の善意の危うさすら、ある程度分かっている。


 それでも、やめられない。


「王城さん」


 俺は続けた。


「あなたに助けられた人たちは、あなたに恩を返したいと思いますか」


「……そう言ってくださる方はいます」


「それを、どう受け取っていますか」


「嬉しいです」


 アリサは静かに言った。


「でも、無理はしてほしくないとも思っています」


 嘘:なし


 俺は眉を寄せた。


 やはり嘘はない。


 でも、何かがある。


 嘘ではない何か。


「古町さんに、恩を返してほしいと思っていましたか」


「いいえ」


 嘘:なし


「誰かを守れる人になってほしいとは?」


「思っていました」


 嘘:なし


「その違いは?」


 アリサは答えに詰まった。


 セイラがわずかに目を細める。


 佐伯も黙っている。


 俺は続けた。


「恩を返してほしいとは思っていない。でも、あなたに救われた人が、誰かを守れる人になることは望んでいる」


「……はい」


「その期待を、相手が恩返しとして受け取る可能性は?」


 アリサの手が、膝の上で小さく握られた。


「あると思います」


「古町さんは、そう受け取ったかもしれない」


「……はい」


 部屋が静かになる。


 命令はない。

 悪意もない。

 嘘もない。


 でも、期待はある。


 その期待を、古町は背負った。


 重すぎるくらいに。


 佐伯が記録を確認しながら言う。


「王城さんの《聖癒》について確認します。治療後、対象に心理的影響が残ることはありますか」


「心理的影響、ですか」


「感謝、依存、過剰な使命感など」


 アリサの表情が硬くなる。


「治療を受けた方が、私に感謝してくださることはあります。でも、それはスキルの効果ではなく、人として自然な反応だと思います」


 鑑定。


 嘘:なし


 少なくとも彼女はそう思っている。


 佐伯が続ける。


「これまで、あなたに治療された探索者が、復帰後に危険な行動を取った例は?」


「あります」


「把握している?」


「はい」


「それについて、どう考えていますか」


 アリサは少しだけ唇を噛んだ。


「私の言葉が、彼らに影響した可能性はあります。ですが、探索者として復帰する以上、危険な場面は避けられません」


 セイラが冷たく言う。


「便利な言い方ですわね」


 アリサはセイラを見た。


「そう聞こえるかもしれません」


「聞こえるのではなく、そう言っていますの」


「九条さん」


 佐伯がまた止める。


 だが、アリサは不思議と怒らなかった。


「九条さんが私を嫌う理由は、分かります」


「分かる?」


「私は、あなたが契約で明確にすることを、言葉で曖昧にしているのだと思います」


 セイラの目が鋭くなる。


 アリサは続けた。


「九条さんは、人に何を求めるかを契約で示します。厳しくて、冷たく見える。でも境界ははっきりしている」


 セイラは黙っている。


「私は、境界を曖昧にします。あなたならできる、信じています、守れる人です。そういう言葉で、人の背中を押してしまう」


 アリサは自分の手を見る。


「それが怖いことだと、分かっていないわけではありません」


 嘘はない。


 やはり嘘はない。


 この人は、自分の危うさをある程度理解している。


 それでも、優しさをやめない。


 セイラが低く言った。


「分かっていて、やめないのなら、なおさら悪いですわ」


「そうかもしれません」


「またそうやって受け止める」


 セイラの声に、苛立ちが混じる。


「反論なさい。怒りなさい。私は悪くないと言いなさい。あなたのそういう、何でも受け止めますという顔が、一番人を縛るのです」


 アリサの目が揺れた。


 その瞬間だけ、鑑定表示が浮かんだ。


 嘘:私は誰も縛っていない


 初めて見えた。


 王城アリサの嘘。


 俺は息を呑んだ。


 アリサは自分では誰も縛っていないと思いたい。

 いや、思おうとしている。


 でも、どこかで分かっている。


 自分の言葉が、人に鎖をかけることを。


 佐伯が俺の反応を見逃さなかった。


「黒瀬さん」


「……今、出ました」


「何が」


 俺はアリサを見た。


 言うべきか迷った。


 でも、ここで黙れば何のために同席しているのか分からない。


「王城さんは、『私は誰も縛っていない』という部分に嘘があります」


 アリサの顔が、静かに強張った。


 セイラは目を伏せる。


 佐伯は記録を取る。


 俺は続けた。


「ただし、古町さんに命令したわけではない。死んでほしかったわけでもない。そこに嘘は見えません」


 アリサは小さく頷いた。


「はい」


「でも、王城さんの言葉が古町さんを縛った可能性はある」


 部屋の空気が重くなる。


 アリサはしばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「私は、隼人さんに逃げてほしくなかったのかもしれません」


 その言葉に、セイラが顔を上げた。


 佐伯も手を止める。


 アリサは続ける。


「逃げることが悪いと思っていたわけではありません。でも、隼人さんには、自分を諦めてほしくなかった。誰かを守れる人になれると信じていました」


「それが、逃げるなという意味になった」


 俺が言うと、アリサは目を伏せた。


「そう受け取られても、仕方ありません」


 セイラが冷たく言う。


「仕方ありません、では済みませんわ」


「分かっています」


「本当に?」


「分かりたいと思っています」


 アリサはそう言った。


 分かっています、ではなく、分かりたいと思っています。


 その違いが、妙に残った。


 佐伯がタブレットを操作する。


「現時点で確認できたことを整理します」


 記録用ドローンが静かにレンズを向ける。


「王城アリサさんは、古町隼人さんに事件当日、励ましのメッセージを送っている。直接命令はしていない。事件中の通信や遠隔干渉も、現時点では確認されていない」


 佐伯は続ける。


「ただし、古町さんは王城さんへの感謝と期待を強く抱いており、その言葉を受けて危険地帯へ進んだ可能性がある」


 アリサは目を伏せて聞いている。


「また、黒瀬さんの鑑定では、王城さんの『誰も縛っていない』という認識に嘘が出ている」


 その一文で、アリサの肩が少し動いた。


 セイラが言う。


「つまり、彼女は罪に問えないでしょうね」


「現時点では、法的責任の判断はできません」


 佐伯が答える。


「ですが、事件の背景としては重要です」


「背景」


 セイラは吐き捨てるように言った。


「人一人を危険地帯に進ませたものが、背景で済むのですか」


「九条さん」


「分かっていますわ。裁けないのでしょう。命令していない。悪意もない。証拠もない。彼女はただ、優しい言葉をかけただけ」


 セイラはアリサを見た。


「本当に、便利な善意ですこと」


 アリサは何も言い返さなかった。


 その沈黙が、反省なのか、防御なのか、諦めなのか、俺には分からない。


 その時、面談室の扉がノックされた。


 管理局員が入ってくる。


「佐伯さん。音声照合の速報です」


 佐伯が受け取った端末を確認する。


「結果は」


「小型記録端末の音声は、王城アリサ氏の公開音声データと高い一致率を示しています。ただし、加工の可能性は排除できません」


 アリサは目を閉じた。


「私の声です」


 自分で言った。


「加工ではありません。たぶん、私が隼人さんに送った音声メッセージです」


 佐伯が確認する。


「記憶にありますか」


「はい」


「なぜ、現場近くの小型端末から再生されたのかは?」


「分かりません」


 嘘:なし


「古町さんが持ち込んだ可能性は?」


「あると思います。隼人さんは、私の言葉をお守りのように聞くことがあると言っていました」


 お守り。


 俺は古町の安全祈願のお守りを思い出す。


 自分のためではなく、後方の二人へ渡すつもりだったお守り。


 古町にとって、アリサの言葉もまた、お守りだったのかもしれない。


 でもお守りは、人を守るだけではない。


 時に、逃げることを許さなくする。


 佐伯が管理局員から追加資料を受け取る。


 表情がわずかに変わった。


「もう一つ、確認があります」


「何ですの」


 セイラが聞く。


「古町さんの個人端末から、事件直前に再生された音声ログが復元されました」


 部屋の空気が固まる。


 佐伯は画面を投影した。


 再生履歴。


 事件当日。

 現場到着後。

 待機命令の直後。

 古町隼人は、王城アリサの音声メッセージを再生している。


 再生時刻は、彼が最初に待機地点を離れる一分前。


 セイラが低く言った。


「やはり……」


 アリサは顔を青くする。


「隼人さんは、あの時……」


 俺は古町の移動ログを思い出した。


 止まって、進む。


 また止まって、進む。


 彼は、指示を待っていたのではない。


 たぶん、音声を聞いていた。


 そのたびに、自分を奮い立たせていた。


 あなたなら、逃げずに守れます。


 その言葉を、自分への命令に変えて。


 佐伯が静かに言う。


「古町隼人さんは、王城さんの音声を事件中に複数回再生していた可能性があります」


 アリサは唇を震わせた。


「私は……そんなつもりでは」


 その言葉は本当だ。


 鑑定しなくても分かる。


 でも、それで古町は戻らない。


 セイラが椅子から立ち上がった。


「佐伯。現場検証を再開なさい」


「今すぐですか」


「ええ。古町隼人の移動ログと、音声再生時刻を重ねます。彼がどの言葉で、どこへ動いたのかを見るべきですわ」


 佐伯は少し考えた。


 そして頷く。


「分かりました」


 アリサが顔を上げる。


「私も、同行します」


 セイラが即座に言う。


「不要ですわ」


「必要です」


 アリサの声は、初めて少し強かった。


「私の言葉が、隼人さんを動かしたかもしれないなら、私は見なければなりません」


 セイラは睨む。


「見て、どうしますの?」


「分かりません」


「分からないのに来る?」


「はい」


 アリサは静かに言った。


「分からないまま、逃げたくありません」


 嘘:なし


 俺はその表示を見た。


 この人は、悪人ではない。


 たぶん本当に。


 でも、悪人ではない人間が誰かを傷つけることはある。


 その事実が、何より厄介だった。


 佐伯が立ち上がる。


「では、現場へ戻ります」


 俺も立ち上がろうとして、足首に少し痛みが走った。


 アリサがすぐにこちらを見た。


「黒瀬さん、足を痛めているんですか?」


「軽度捻挫です」


「よければ、治療します」


 反射的に、断りそうになった。


 なぜか分からない。


 彼女の治療を受けることが、何かの線を越えるような気がした。


 セイラが横から言う。


「やめておきなさい」


 アリサがセイラを見る。


「なぜですか」


「彼は今、あなたを疑う側にいます。治療を受ければ、余計な負債を感じるかもしれませんわ」


「そんなことは」


 アリサは言いかけて、止まった。


 俺は少し迷った。


 足は痛い。

 治してもらえれば助かる。


 でも、古町隼人もそうだった。


 彼女に救われた。


 そして、返したいと思った。


「すみません」


 俺は言った。


「今は、やめておきます」


 アリサは一瞬だけ傷ついた顔をした。


 でもすぐに頷いた。


「分かりました」


 セイラは何も言わなかった。


 佐伯だけが、俺の顔を見ていた。


「黒瀬さん」


「はい」


「今の判断も記録に残ります」


「え、そこまで?」


「重要です。王城さんの治療が、対象者に心理的影響を与えるかどうかは、今後検証対象になります」


「……やっぱり受けなくてよかったです」


 俺は補助具のついた足で、ゆっくり扉へ向かった。


 聖女は命令しない。


 ただ、救う。

 ただ、励ます。

 ただ、信じる。


 そして救われた人間は、その言葉を自分への命令に変える。


 それは罪なのか。


 まだ分からない。


 でも、知らないふりをしていいものではない。


 俺たちは再び、古町隼人が死んだ場所へ向かうことになった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、王城アリサと向き合う回でした。

彼女は分かりやすい悪人ではありません。

むしろ、かなり善意の人です。

古町隼人に死んでほしかったわけでも、危険な行動をさせたかったわけでもありません。

けれど、善意の言葉が相手にとって重すぎる命令のようになってしまうことがある。

今回の事件は、そこが一番厄介な部分です。


セイラは言い方がきつく、アリサは優しい。

でも、どちらの言葉が人を縛るのかは、見た目ほど単純ではありません。

次回は、古町隼人が事件中に何を聞き、何に従って動いたのかをさらに検証していきます。


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