~それぞれの試練~ 四話
「ここは……?」
空間を渡って一番に口を開かせたのは驚愕だった。
一面の樹木と草の海。時間は経過していないはずだが、渡る直前までは夏の太陽が燦々と照らしていた面影はない。気温も避暑地の早朝を思わせるような低温だ。
綾華を連れてきた黒ずくめの男はにこりともせず、ただ樹海の中に佇んでいる。漆黒の瞳を彼女に向けると男は先の言葉に答えた。
「……高みを目指すための場所だ」
――と。
――試練「白兼 綾華」――
まどかが東京を離れた日、綾華は京都に戻ることを決意した。和弥に会いたい、等といった理由からではない。自らの師に会い、来るべき戦いでお荷物にならないためにだ。
生家でもある京都本部、その道場に到着してふと和弥に会おうという気持ちも芽生えたが、その想いを絶ち真っ直ぐ師の元へ向かった。彩菜に取り次いでもらい私室へと入る。ほとんどこの部屋にはいない彼が在室していたことに不自然さを感じながらも彼女は願いを口にした。
――力が欲しい、と。
その言葉に無言で頷くと言葉も発さぬまま部屋の外へ出た。小さい頃と同じように足音を抑えてその背についていく。何も言わないときはすべからく勝手にしていいという意味。不都合があればその都度短い言葉で拒否してくる。
辿り着いたのは玄関の外。白いスニーカーを履き歩み寄った瞬間――周りの景色が掻き消える蜃気楼のように歪み――緑の世界へと誘われたのだった。
黒のタートルネックのセーターに黒いズボン。墨を落としたような色のくせっ毛に、吸い込まれそうな黒い双眸。百八十を超える長身をさらに際立たせて見せるのはスラリとしたスタイルのせいだろう。黒一色の衣服もその一因を担っているかも知れない。
二十代前半にも三十代後半にも見えるその整った顔立ち。実際には十数年前から白神会にいるのでそれ以上なのは確かだが、全く老け込む様子はない。
――浦崎雄也。それが男の名だ。
白神会四流派の一つ、黒影流を継ぎし者。《無明の闇》と渾名される一流の使い手。他の組織からすらその名を囁かれるほどだが、その姿を見たことのある者はほんの一握りしかいない。それは黒影流の在り方にも深く関係している。黒影流は他の流派と違い直接前線に立つことはほとんどない。主な任務は諜報や情報収集などといった裏方の仕事だ。それ故継承者の浦崎をはじめ、黒影流の者は姿を見せることが極めて少ないのだ。例外的に柊彩菜だけは浦崎の秘書のような役割をしているため表に出ている。
さらに特異な存在にしているのは空間を渡るという瞬間移動の特殊技能にある。その鍵は光沢のない黒い数珠。代々の黒影流継承者が作り出してきたこの魔導具こそが黒影流の秘奥とされている。それ以外の情報は比較的近くにいるはずの綾華ですらも知りようがなかった。
彼を前にして綾華は何も言わない。必要があれば言う浦崎の性格を熟知しているがゆえだ。そして、黒の男は口を開いた。
「……お前の役目はなんだ?」
役目。どんな意味においてか思考する。白神会全体でのことではないだろう。その問いはこの場所に来た理由と直結するはず。それなら答えは簡単だ。
「術によるサポートです」
その返答に無表情に頷く。長い付き合いだが未だにこの男の感情は読み取れない。彩菜も苦労していることだろう。
今の四人で役割分担をするならば、欠けているのは言うまでもなく術の攻撃力だ。和弥には出来ないしまどかは弓のほうが効果的、良治についても術だけに専念させるには勿体無い。むしろ綾華はそのために存在すると言ってもいい。
目的は、決まった。
「……術はイメージだ」
今更言われるまでもない事だが、術はそれこそが全てだ。
修得するときに散々聞かされた言葉。彼女が一番聞いたであろう浦崎の言葉だ。
内心苦笑すると、意識を術の行使に集中させる。何千何万と繰り返した左手の微かな動作。目を瞑り、放つ術のイメージ。一番使い慣れている水の矢を二つ同時に射出するイメージだ。瞳を開き右手を掲げる。
ドドッ!
二本の水の矢が近くの苔むした木に当たって弾ける。上手く構成できていなかったのだろう、いつものように先端は鋭くなく、木には削ったような跡は無い。ただ水塊が当たっただけだ。さらに二つの矢の大きさも見てわかるくらい違っていた。とても成功とは言えない。これでは下級の悪霊程度ならともかく、それ以上を相手にするにはとても戦力とは言えない。
「……二十本同時だ」
それだけ呟くと来たときと同じく唐突に姿を消した。これも以前と同じで思わず笑みがこぼれた。
彼女は昔からこういった訓練を見られるのが嫌いだった。それを当時の浦崎に相談した結果、終わるまでその場を離れるということに落ち着いた。最後に訓練を受けたのは二年前になる。きっと十年経っても覚えていることだろう。
笑みを消し、精神こころを切り替える。
目標は二十本同時の放射。しかしたった二本でも先の結果だ。地道に練習していくほかないだろう。
「……ふぅ」
夏とは思えぬ大気の中、静かに瞳を閉じ想像する。心に自分、そしてその前方に二本の水の矢。もう一人の自分とリンクするように右手を振りかざすが、結果は変わらなかった。少しは良くなった気もするが進歩というべきほどのものではない。
――他にも方法があるかもしれない。
そう思いながらもこの日一日だけは繰り返してみることにした。他に何か発見があるかもしれない。
特訓が始まった。
それから十日が過ぎたが、前には進めないでいた。
一日に一回浦崎が食料や飲み物などを運んできてくれていた。だが本当にそれだけで、些細なヒントさえも語らずに去っていくのが常だった。
今まで浦崎は無理な課題を出したことがない。一見不可能に見えたり聞こえたりしても努力や発想の転換で全部何とかなって――いや、何とかして――きていた。つまり今回もどうにかできるはずなのだ。要は自分が気付いていないだけで可能性は何処かに必ず転がっているはず。
冷静に今までの自分がやってきた手順を思い返す。
まず左手を軽く握る。これは術そのものの起動条件だ。変えることはできないし必要もない。
次は術行使の根幹ともいえるイメージ。まず自分を映し出し、そしてどんな術かを……。
「――――!」
思い出した。浦崎に習いだした本当に最初の頃。紅く色づいた葉が舞う晩秋のことだ。
『……初歩の術は自分をイメージした方が発現しやすいが、それ以上の術は自身を元にイメージすると発現させるのが困難になる。何故なら――』
「――イメージする心全てが自分自身なのだから、でしたね」
イメージの中に自分を創り出すのは、簡単に視点が変わってしまうことを防ぐためだ。最初はそれが術のイメージの確かな支えとなる。しかしもっと大規模な術、緻密な術になると一視点からのイメージではとても完全には想像しきれない。そのために自分を創り出さず、視点を固定させずに術を紡ぐのだ。
「これで……」
確信に満ちた動作で視界を閉ざし、自然体に構える。今までは立っている場所から地平線を見るようなものだった。でも今回は大空から大地や海、この世界を見下ろすようなイメージ。自分の心に生まれたこの世界は私のもの。私はこの世界そのもの。そこに出現する二十本の水の矢も――
かっ、と両目を見開き、力を解き放つ。
ドドドドドドッ!!
樹木に向かって弾けた音、きっかり二十。力の分配も誤差の範囲といえるだろう。五分前の綾華から確実に進歩、いや『進化』していた。
確かな手応えに大きく息を吐くと、後方から乾いた音が聞こえだした。
「……及第点だ」
数回の拍手と共に現れた黒の男。もしかしたら今までもずっと監視していたのかもしれない。この男なら何をしていてもおかしくはない。隠密を主義とする黒影流の継承者なのだ、その手のことは最も得意とするところだろう。
「……一回戻る。風呂でも入って来い」
この課題をクリアした褒美なのだろう。汗や泥などの汚れで気持ち悪いのは感じていた。しかし、彼女は首を横に振った。
「修練はまだあるのでしょう? 少なくても自分が満足するまでは一回たりとも戻るつもりはありません。……さぁ、続けましょう」
「……わかった」
男はそこに少女ではなく戦士の顔を見た。前線に立ち、敵に敢然と駆けて行く戦士の顔だ。京都に居た時には一度も見たことがない。東京に行ったこの僅かな間にここまで伸びるとは考えていなかった。そもそも今回の課題も期限は夏休みが終わるまでを想定してのものだった。イメージに辿り着いても実力は伴わないだろうという予想はあっさりと覆された。
そこで彼は思った。不信も疑念も焦燥もなくただ純粋に。
――何が少女をここまで変えたのだろう、と。
切っ掛けを完全に掴んだ彼女は日ごとに力をつけていった。
課題の術は浦崎から及第点を貰っていたが、綾華自身はまだ納得していなかった。それぞれの矢の力の配分の差を一本ずつ丁寧に修正していき、形状もより攻撃的に直していった。
「こんなところですか……」
自分の出来に満足できるようになったのは八月の半ばを過ぎたあたりになってだった。振り返ってみれば此処に来てから今まで夢中で修行していた気がする。こんなにもがむしゃらにやったのは一体いつ以来だろうか。
満足するまで戻らないと決めていたのだが、先週ついに浦崎が見かねたのか寝ている最中に一度連れ戻されている。結局再度この森に戻るにも彼の力が必要なので、大人しくちゃんとした食事と入浴を済ませていた。
「……最後の課題だ」
声に振り向くとやはりそこには樹に背を預けた浦崎。どう考えても見ていたとしか思えなかった。驚かそうなどと子供じみたことをこの男が実行するとは欠片も考えられない。それはつまりこれが普通だということを如実に物語っていた。
「……一分以内に全て倒せ」
右手をゆっくりと上げると、それを合図にして小型の黒い獣――影獣――が地中から姿を現した。黒き仔犬の数は二十。課題の術にあわせて出したのだろう。
「……始めるぞ。行け」
浦崎の周囲に出現した二十の影が一斉に駆け出す。
スピードはさほど速くはない。普通の犬が駆けるよりも遅いだろう。そう判断すると瞬時にイメージに入った。多数の足音に惑わされることなく自分の内から術を解き放つ。
「!」
風を割き影獣に命中したのはわずかに数本。その光景を目の当たりにしてから命中率に重点を置いた練習をしていないのに気付いた。そして――
「……一分だ」
その声と同時に膝から崩れ落ちる。初撃以降は集中力に欠け、一体も倒すことが出来なかった。黒い獣には口がないので噛み付くことはなかったが、その体当たりは肉体的に丈夫とは言えない綾華にダメージを与えるのには十分すぎるものだった。これが一分という時間制限がなかったなら死んでいたかもしれない。……自分の情けなさに腹が立った。
「……これから毎日一回この時間に行う」
「――はい」
返事をして体を起こして顔を上げると、そこに彼はいなかった。
やはり訓練と実戦では勝手が違う。理解してはいたはずだがまだまだ足りていなかった。東京支部に移ってからしか実戦経験をしていないので仕方ないといえばそうなのだが、そんなことで納得したくはなかった。出来ない理由を挙げていけばキリがない。剣術と違って簡単に人を相手に練習ができない、東京には生粋の術者は回復専門の宮森翔しかいなかったことなどだ。それぞれが重なり合い、手軽に術の実戦的な練習ができなかった。それでも。
それでもだ。
自分から相手を見つけようとか工夫しようとか行動しなかったことが歯痒い。
(……! そう……今のこの訓練こそ私に足りなかったもの……!)
浦崎は知っていたのだろう。この訓練が彼女にとって大きな助けになるだろうことを。だからこそ最後の課題としてこれを選んだ。
ならば自分は、これを糧にして前に進まなくてはいけない。
次の日からの課題はまるで楽しむかのように挑んでいった。それだけでクリアできるようにはならなかったが、日を追うごとに残る影獣の数は減っていった。攻撃される回数も格段に少なくなり、初日のようにダウンすることはなくなった。
そして一週間後。
「……四十八秒。合格だ」
影獣の速度に慣れ、精度が上がればその分向こうからの攻撃は減る。すると今まで攻撃されていた時間がこちらから攻撃する時間に使える。その好循環に一回乗ってしまえば攻略はさほど難しいものではなかった。その結果、時間を十秒以上も残して達成することになったのだ。
「……ようやくですね」
肩で息をしながら辺りを見回して自らの成果に満足の声を発する。
変われた気がする。精神的にも力量的にも。自信もそれなりについたが、毎回つけては失うのでまだ不安はある。それでも今回はそう簡単には失くさない感じがしていた。
「……綾華」
「あ、はい」
唐突に何か丸いモノを投げてくる。山なりに飛んできた球形の物体は鮮やかな紫色。大きさはビー玉より一回り大きいくらいだ。
「……どうしようもなくなったら使え。力を込めれば発動する。三分間に限り自身のリミットが外れる。が、効果が切れて十日前後は全ての力を失う。……使いどころを間違えるな」
「は、はい」
この道具の使用法なんかよりも、浦崎がこんなに喋ったことに驚いていた。しかし裏を返せば浦崎がちゃんと説明するほどにこの紫の球が重要で危険だということだ。そのことを認識して丁寧にハンカチに包んでポケットに入れた。
「……帰るぞ」
「ありがとうございました」
感謝と共に、深く深く頭を下げる。自分に足りなかったものを気付かせ、そして得るための試練を与えてくれた師に。
「…………」
顔を上げるとすぐに見慣れた本部の道場前に転移した。浦崎はもういない。別の場所へ転移したのだろう。しかし渡る瞬間、彼が微かに笑ったのを彼女は見逃していなかった。
およそ二週間ぶりに熱いシャワーを浴びると、真っ直ぐ布団に潜り込む。身体に疲れが溜まっているのは当たり前だ。しかし何となく眠れない。幾度かの寝返りを打ったとき、ふと一冊の本が目についた。良治から借りた、天使の伝承を纏めたものだ。
学園に潜入したとき彼から聞いた話もちゃんと載っていた。しかしあの話には少しだがまだ続きがあった。確かまだ全部読んでいないと言っていたのは嘘ではなかったのだろう。その時点で読んでいた話が最も記憶に残るのは当然だ。
(あの続きは……)
天災を恐れた人間により天使と青年は殺された。その後は……確か。
天使はその青年の子を宿していたが、二人ともども産まれる前に殺されることとなった。天使は元から半精神体のため、肉体の消失は魂の消失とイコール。魂は肉体ごと砕かれ消えてしまった。青年の魂は殺されたあと罪人として天界に連れて行かれたが、迎えの天使たちはその子の魂には気付かずに引き上げた。そしてその幼子の魂は天界にも行けず、未だ現世を彷徨っている――そんな話だった。
――なんて、悲しい。
その魂が救われることを祈りながら、彼女は眠りに落ちた。




