~それぞれの試練~ 三話
「――ここね」
純日本造りの立派な門構えの前で、ポニーテールの少女が真剣な面持ちで一言呟いた。
――試練「柚木 まどか」――
まどかは今長野支部を訪れていた。同行者はいない。彼女一人だ。
この光景を葵たち支部の人間が見ていたなら違和感を覚えることだろう。それほどまでに彼女とパートナーの少年は一緒にいた。稽古や仕事のときだけでなく、ちょっとした買い物などにも常にだった。
(やっぱり何かしっくりこないな……)
いつもと違うのは自分の右側に誰もいないこと。それが少しだけ寂しい。しかしそれを言っても始まらない。
今彼は遠い九州の地にいる。その結果、彼女はこの場所を一人で訪ねていた。
だがそれは後ろ向きな理由からではない。
今、自分独りでなにができるのか。何をすればこれからも彼と歩んで行けるのか。
その思考の末に辿り着いたのが長野だった。
十年前の陰神との戦でも活躍した、弓の名手が長野で隠居しているという話を昔――二年近く前――葵の父から聞いたことがあったのだ。そのときは心に留めて置くだけだったが、良治が九州へ派遣され、和弥も京都へと総帥直々の修行を受けるべく、一時的にだが二人とも東京支部を離れた。自分も何かしなければと思い、浮かんだのはその話だった。
――おそらく、今やらなかったら追いつけない。
そんな予感が彼女を突き動かした。和弥から遅れること三日。旅立つことを決意し今に至る。
容赦のない暑光が剥き出しになった腕や首筋を焼く。日焼け止めなど持ってきていないがそんなこと気にしていられない。Tシャツにジーパンという簡素な身なり。長時間外を歩くためには必要だと思われる帽子もかぶってはいない。荷物の詰まったボストンバッグを陽炎が立ちそうなほどのアスファルトに置き、日光で熱くなった備え付けのインターホンを押す。
待つこと一分。インターホンからではなく、唐突に木製の引き戸が開いた。その先に目をやるとそこには生意気そうな瞳をした子供。
「……なんか、用?」
短いくせっ毛を弄りながら気だるげに聞いてくる。さすがに視線はこっちを向いているが。
支部にいるということはここの支部員かその血縁のものなのだろう。気持ちを切り替えて話しかける。
「えと、私東京支部の柚木まどかっていうんだけど、『阿波松三』さんの住んでる場所を知ってる人、誰かいない?」
自分の肩を超えたくらいしかない、おそらく小学生高学年だろうその少年の目の高さに合わせ、腰を落として優しく問いかける。
しかしその対応が不快だったのか、苦々しく顔を顰める。
「俺は子供扱いされるのが一番ムカツクんだ。アンタ、俺のこと小学生だと思ってるだろ?」
「え、違うの?」
びっくりしてどう見ても百五十cmくらいしかない少年を思わずまじまじと改めて見てしまう。
「信じられないように人をじろじろ見るな。俺はもう中二だ」
つまりはまどかの三つ下か。それよりも更に下に見えるが、もう口や態度には出さない。これ以上印象を悪くするつもりはないのだ。……手遅れかもしれないが。
「……その目の意味がメチャクチャ引っかかるけどな、まぁいいよ。で、なんで阿波のジーサンの居場所なんか知りたいんだ?」
計るような視線がまどかを捉える。口は悪いが頭の回転は悪くないらしい。若くとも白神会の一員ということか。――自分ともそんなに変わらないが。
「私、弓を使うの。より上を目指すために昔の名手を訪ねるのは変?」
目を細めるようにして微笑む。そのなかに感じる確かな力強さ。挑戦するような瞳は自分に向けられていないのに少年は気づいた。そしてそれは、遥か高みを望む証だということに。
「……そうだな」
気圧され、微かに顔を俯かせて呟いた。
「阿波のジーサンはここ長野から西の山脈を越えたところにある、木崎湖ってとこのあたりに住んでるよ。確か、湖の西側にある山の麓らへんだったと思う」
顔を見ないまま言い終えると、まどかに背を向けて歩き出そうとする。それに慌てたまどかが声をかけた。
「ありがとう。うん、じゃあその木崎湖に行ってみるね。えーと……」
「――祥太郎。またな、ねーちゃん」
ちらっと背中越しにこっちを見て扉を閉めた。
まどかは微笑を浮かべた。何故なら――最後に見えた祥太郎の表情は、照れくさそうな笑顔だったから。
「うん、ありがとう……祥太郎くん」
子供扱いはそのままだった。
瑞々しい緑の木々に覆われた山々と、夏の日差しを反射させ輝く水面。都会の夏とは全く質の違う清々しい暑さが満ちている。
湖の中央部あたりから、セミの声に誘われるように山の方へと足を向ける。肩にかけた鞄に沿ってTシャツに汗の跡が滲んでいた。それも段々と広がりを見せ、比例するように肌触りが悪くなっていく。
「……?」
視界に山へ入る道が確認できるようになったとき、道の脇にある家の前に人がいるのが見えた。
温和な笑みを浮かべる白髪の老人がまどかを見て、こちらへゆっくりと歩いてくる。灰色の着物と髪の色で老いて見えるが、足どりは存外しっかりしていて腰も曲がってはいなかった。
それで気づいた。この老人、足音をたててない。それどころかこの近距離で気配を絶っている。視覚できる以上意味はほとんどないが、もし今目を閉じたら何処にいるか感じ取ることはできないだろう。
「――柚木まどかさんじゃな。祥太郎から話は聞いておる。……こっちへきなされ」
「もしかして……」
気後れしているまどかに、老人は眼光鋭く言った。
「ワシが阿波松三じゃ」
「……ふむ、なるほどな。それでワシのところまで来たということか」
阿波の自宅で簡単に事情を説明すると、この木造の家の主はお茶をすすって口を開いた。
あれから阿波の住む平屋の一戸建てに案内され、話をすることになった。祥太郎から聞いているというのとその物腰から彼が『阿波松三』なのは間違いないだろう。
「はい。……お願いできますか?」
突然訪問して――祥太郎のおかげでそうはならなかったが――いきなりの頼み事だ。すんなりOKが出るとは思っていない。断られても、なにか条件を出させるまでは粘るつもりだ。そうなれば後はそれをクリアすればいいだけの話だ。それだけの気合は十分に入っているつもりだ。
「まぁ、よかろう。引退してからは結構暇での。あいわかった。稽古をつけてやろう」
「え?」
「祥太郎からも頼まれておるしな。ワシには子も孫もいないが、あやつは孫同然じゃ。その頼みを断るのも嫌じゃしな」
「それじゃ」
顔が綻ぶ。正直こんな簡単に了解してくれるとは思っていなかった。これも祥太郎のおかげだ。
「部屋は奥の間を使えばいいじゃろう。稽古は深夜。結界を張ってから行うから今はゆっくりと休んでおきなさい」
それだけ言うと立って部屋を出ようとする。まどかはその背に声をかけた。
「――よろしくお願いします、師匠!」
満面の笑顔に精一杯の感謝を込めて。
「この木片をよく見ていなさい……ほれっ」
宣言通りの深夜。今二人は木崎湖のほとりに来ていた。
まどかが阿波の家に来るときに曲がった地点に程近い場所。事実、家を出てから真っ直ぐ湖に向かって着いた。夜の湖面は黒に支配され、光明の一切がない。遠くに灯る街灯がぼんやりと湖を縁取るだけだ。
その中に、まどかが師匠と呼ぶ老人が木片を放り投げたのだ。声をかけられたときはまさか投げるとは思っていなかったため、一瞬見失いかけたがすぐに黒い湖に落ちていく物体を確認することができた。
「見えるかの?」
木片が闇に消えたのを見て、まどかよりも背の高い老人が横目で問う。
「はい、大丈夫です」
五十cm四方の平たい木の板が浮いているのは、こちらの岸と対岸のほぼ中間。微かに波に揺れる物体が見て取れる。
「見えるか。なるほど、良い射手の条件を満たしているようじゃの」
弓を使うことを決めてからは視力の維持、向上に努めてきた。まどか自身、視力にはそれなりの自信を持っている。
「では早速射ってもらおう。できるの?」
「はい。――では」
転魔石を発動させると手に馴染んだ愛用の弓が出現する。そして足元にも矢が同時に空間を渡ってくる。
「……用意がいいの」
現れた矢の数、およそ五百本。彼女が神奈川の自宅を出る前に用意したものだ。全ての矢は幾つかのプラスチックでできた色とりどりのくずかごに纏められている。
阿波の呟きに笑顔をもって答えると、的に向かって矢をつがえた。弦を引き絞り、一瞬動作が完全に止まった後、矢が彼女の元を離れた。しかし惜しくも放たれた矢は右に外れる。誤差はほんの少し。五mもないだろう。
「ほう……続けなさい」
感嘆の声を上げながらも先を促す。まぐれの可能性もあるからだ。しかし彼女はそれをあっさりと否定してみせる。何本もの矢を放っても大きくは外れることはない。悪くても十mに満たない程度だろう。しかも木片は不安定に揺らいでいる。およそ三百m先の的としては十分といえた。これには阿波も言葉が見つからない。
「……もうよい、それにしてもいい腕じゃ。師は?」
「いえ、我流です。弓を専門に使う人が身近にいなくて」
「それでここまでか。素晴らしいの」
五十本射って命中したのは八本。初日としては快挙と言うべきだろう。
「ありがとうございます」
胸を張って笑う。まどかはこれを主力武器として今まで生き抜いてきたのだ。自然に笑みがこぼれる。だがこれで満足している場合ではない。彼女はさらに上を目指すためにここに来たのだから。
「まぁ今日はこれで終いじゃ。……明日も楽しみじゃの」
ひょっひょっひょっと不気味な笑い声をこだまさせて道を戻る。
それは、久しぶりに才能ある若者に会えた嬉しさからだった。
昼間は阿波と一緒に山に登ったり、湖周を走ったりして過ごし、夜は初日と同様のことを毎日繰り返すことになった。肉体的に特別優れているとは言えないまどかにとっては結構な苦行だった。和弥や良治といった接近タイプの者にはなんてないことでも一応術士タイプに分類される彼女には辛いものだ。
術士として扱われる彼女だが、実戦で使うのは九割以上弓。得意とする雷系列はほとんど使う機会がない。あるのは矢に雷属性の力を込める程度だ。彼女自身が術よりも弓のほうが好きなせいもあるが、戦闘で困ったこともないのも事実。それについては良治にも責任があると言えよう。始めからまどかの術を考慮に入れないで作戦を立てていたのだ。
しかしその分、弓のウデに関しては稽古・実戦共に数多くの量をこなしてきている。中距離での攻撃手段に、術の代わりに弓を使用していたのも影響しているだろう。
その成果が今、開花しようとしていた。
夜の湖面に浮かぶ木の板を射ち続け、僅か五日で八割がた命中させることに成功する。これには指導していた阿波も腰が抜けるほどに驚愕した。阿波本人はほぼ百発百中を誇るが、もちろん始めからそうだったわけではない。この修練方法を思いついてからその域まで三年はかかった。
今のまどかがやって見せたものは阿波の二年近い稽古にも匹敵するものだった。
――近い未来、この娘はワシを越える。
なかば予知にも近い確信が胸を掠める。
かつては《雷迅の阿波》と呼ばれ、戦場で多くの敵に恐れられていたことが今となってはとても懐かしい。十年前の陰神との死闘で、幾多の友人、知り合いがこの世を去った。この中には彼を白神会に誘った本人――白兼守人――も含まれていた。決戦の数年前、どこの組織にも属さず、ただ守人の友人として白神会へと入り、尽力することになった。いつも一緒にいた三人のうちの一人が激闘の末羅堂に破れ、もう一人は一年ほど前に畳の上で静かに逝った。しかし、自分はまだこの世界に存在いる。多くの戦友と守人が死んだあと、戦う理由を見つけられず組織を去って、この地に隠居することにした。それでも白神会との縁は切れず、息子のような年齢の長野支部長に乞われ、年に数回支部に顔を出すことになった。
親友たちがいなくなり、支部の子たちやまどかを見てようやく分かった気がする。
自分が彼らより長く生きる分の人生、それは次の世代を導くためにあるのではないかと。
思えば一年前に死んだ友人もそうだったのだろう。自分のやるべきことをきちんと理解していたに違いない。噂で聞くには、彼の娘と弟子は関東でも屈指の剣士として活躍しているらしい。
(ワシももう少ししっかりせんとな)
教えて身に付くレベルのリミットはもうすぐだ。
それまでの間、全力をもって――
二人の思いは同じ方向へ。
それは彼女の成長を著しく促すことに直結した。
稽古を始めて三週間を過ぎた頃、遂に命中率が九割を超えたのだ。
矢をつがえたときの集中力、的を射るための正確な軌道の判断。どれをとっても今の阿波と遜色ない。もしかしたら絶頂期の彼に匹敵すらするかもしれなかった。
まどかも自分がどれだけ実力を伸ばしたかを実感していた。これまでこんな長距離、しかも絶えず動いているものを狙ったことなどなかったのだ。
伸びしろがすべて埋まるような、気持ちのいい充実感。これなら良治とも並んで歩いていけるだろう。そんな自信もついた。それに日に日に成長し続けている和弥と綾華にも先輩としては負けるわけにもいかない。この意地もより高い場所へ向かう一因となっていた。
しかし、どれだけの力を身に付けても決して拭えない不安がある。――良治のことだ。
おそらくは彼に近しい数人しか知らない秘密。彼の、寿命についてだ。
彼と同種の人々は、例外なく二十歳前後で死ぬ。その他の要因次第ではさらにその死期は早く訪れる。
彼と出会って二年。まだ二年しか経っていなかったがそれは濃密な二年間だった。
この二年の間に、共に鍛錬を積み、仕事をこなし、死線を越えてきた。
昨年の夏、仕事帰りに陰神の幹部と遭遇し援軍が来るまでたった二人で持ちこたえたこと。それは正直良治もまどかもあの戦闘は敗北と受け取っていたが、組織としてはゲリラ的に仕掛けてくる陰神に対し初めてと言っていい戦果だった。
無残に負けた。しかしそれは二人にとって非常に大きな経験。今まで大きな挫折のなかった二人にとって、殻を破るのに必要なものだったと今なら感じられた。
そして高校に進学する際に隼人から寿命のことを教えられたことを聞いたときは、それまでで一番酷い精神状態に陥っていた。大人びていたとはいえ、多感な時期に聞かされた彼はどれだけ悩み、苦しんだだろうか。自暴自棄になりかかっていた彼の傍に彼女は居続けることを選んだ。最初から許された訳ではない。しかし人との交流を拒絶していた彼はついに彼女が傍に居ることを許したのだ。
彼は彼女の深い思い遣りに感謝し、彼女は彼の心の奥底に触れて彼を知った。そしてずっと隣に居たいと思ったのだ。しかしそれはとても、とても難しいこと。
彼を助けたい。だが、その方法は未だ発見されていなかった。
三週間で阿波の設定した目標はクリアしたが、結局帰ることにしたのは八月二十七日だった。あれからさらに二週間近く経っていたのは、細かい部分の修正や、ちょくちょくと来るようになった祥太郎の相手をしていたからだ。
数ある話の中でもまどかを驚かせたのは、祥太郎に付き合っている彼女がいるということだった。その娘は長野支部ではなく、同じ三大支部の福島支部にいるようで、電話をよくしているらしい。……相手の名前はついに教えてくれなかったことをここに記しておく。
「――よく頑張ったの。射手としての力量はもう十分じゃ。あとは残りの部分のことをよく考えて上手く使うような」
見送りの朝、朝日が眩しい自宅の前で最後のアドバイスを送る。
「はい。あとは自分次第ってことですね。忘れないようにしておきます」
笑って頷く。
ここには二人しかいない。祥太郎とは昨日のうちに別れを済ませておいてある。
「ほれ、餞じゃ。持っていくがよい」
「え……これって」
使い込まれた中にも滲み出す力強さ。この弓は――
「現役時代、命を預けていたものじゃ。名は『雷迅』。わかるとは思うが、雷精の加護を受けている。まどかにはぴったりじゃろう」
「……でも」
「ワシがこれを持っていてもさしたる意味はない。それにワシはまどかにこれを持っていて欲しいんじゃよ」
笑いながら雷迅を手渡す。彼女の瞳に、もう迷いはなかった。
「ありがとうございます。私はこれをもって何かを成したいと、そう思います」
嬉しいと思う。この人に認められたことが。
誇らしいと思う。この雷迅を託されたことが。
「では行ってきなさい」
「――はい!」
彼女は駆け出す。託された未来に向かって。
愛しい彼と並んで歩くため、一人で歩く力を手に入れて。




