EPISODE 9.2
年度が変わって月曜の朝。人事がもうひとつ発表された。
「比野由美子です。本日より専務取締役に就任いたします。前職では社労士事務所のコンサルティング部で部長職を務めておりました。こちらでは労務・総務はもちろん、それ以外の仕事も担当することになります。皆さん、よろしくしてください」
由美子さんは大正ロマンなウェーブのかかった髪型で、細い体を隠すようなゆったりとしたスーツを着ていた。ラクダ色というのだろうか、全身が茶色だった。
ご家庭の事情はよく知らないけれど、由美子さんは在学中に社労士試験に合格して登録もすませた人で、社長とも学生結婚だった。それがなぜか卒業と同時に実家に戻り、最近までずっと別居状態だった。この事務所の上にあった社長宅は半分以上が事務所化されている。戻っても寝室と客間と廊下しかないところには住めないので、近くにアパートを借りて、結局まだ別居状態のまま。不思議な夫婦だ。
あとで知ったのだが、由美子さんは就任と同時に新工場や資本政策にも関与を始めていた。コンサルタントとして大きな会社をいくつも見てきた彼女によって、ふらふらした新工場計画は筋道を通されることになる。
由美子さんは社員ひとりずつと面談をして、働き方に問題や要望はないかと質問をした。今日の彼女はやっぱり茶色でキツネ色。社長によれば学生時代から茶色しか着ない人なのだとか。私にはよくわからないこだわりだ。
「私も育児は経験しています。何か困ったことはないですか」
「大丈夫です。家族の協力も得て、育児が仕事に影響しないようにしています」
「あなただけではないのですが、受注管理部はあまり休みませんね。有給休暇が取りにくいということはありませんか」
「いいえ、課長からも必要ならいつでも休むように言われています」
由美子さんは、うーんと唸りながら Mate MA80H/D になにやら書き込んだ。
「有給休暇は社員の権利であって義務ではありません。だからむりやり休ませることはできないのだけれど、こんなに休まない人ばかりだと問題ですね。去年の最高裁判決で、会社は社員の健康に配慮する義務があると示されています。労使協定で創業記念日なんかのお休みの日を作っちゃうのも手でしょうかね。まあ、わかりました。あとはこちらで考えます」
ところで星野さん、と彼女は椅子をパソコンからこちらに回して言った。
「配偶者の方が冒険者なんですね」
「はい。正確には冒険者免許を持った自衛官です」
「うちの子が高校を卒業して冒険者学校に入校してるんです。6期生として今は寮で暮らしています」
「優秀でいらっしゃるんですね」
私の聞いたところでは、冒険者学校は前職・現職の推薦をもらって行くのが当たり前の学校だ。夫の場合は防衛庁の強力な推薦状があったから試験はほとんど名前を書くだけで合格になった。高校を卒業したばかりで組織の後ろ盾がないなら、運動を含めたすべての試験科目で合格点を取らなければならない。掛け値なしに優秀な人材と言える。そういう人はいるにはいるけれど数は少ないと夫は言っていた。たとえば去年のダンジョンの事故で報道されていた女性の冒険者もそのひとりだ。
「優秀かどうかはともかくとして、養育義務を果たせたと判断したから、私はこの会社に戻ることに決めたんです。旦那さんは冒険者学校の先輩に当たるのでしょう。ご挨拶はしておこうと思ったんです」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
社長の息子さんが冒険者になる。そうしたら、この会社の次の社長はどうするんだろう。
「どうするんでしょうね」
「次の社長は由美子さんでしょう。奥さんなんだから」
ダイニングキッチンで食後のお茶を楽しむみんなにシナモンロールを配りながら、お姉さんが簡単にそう答えた。
「でもその次はどうなるの。息子さんが冒険者になっちゃうんだよ」
「このことはたぶん増資と関係あるんじゃないかな。創業家から経営を切り離すんだよ」
美香さんはそう言うけど、それなら次の社長はオオミヤさんの意向も影響して決まることになるのだろうか。ただのお取引先だと思っていたのに。
「100%オーナーの会社にはプロの経営者は呼びにくい。だからちょっとだけ分けるんだと思うよ」
「裕太さん、もう食べ終わってるの。コーヒー淹れましょうか」
「ありがとう」
「由美子さんは息子さんの養育が終わったから戻ることにしたって言っていました。そもそもなんで別居してたんでしょうね」
魔法瓶のお湯をカップに注いで人数分のネスカフェを作る。
「前の社長と折が合わなかったと聞いてるけど」
「真一さんのことですか。たしかにマイペースそうな人だったから、思い通りにならない人とは喧嘩になりそう」
「ゆりさんは会ったことあるんだっけ」
「金沢でたまたまお会いしました。お刺身をごちそうになりました」
裕太さんと美香さんが顔を見合わせて、うんうんとうなずいた。
「そういう人だったかも知れない。俺と美香さんは同期入社なんだけど、入社時の社長が前社長だった。今の社長はまだ営業部長で、社長が交代したのは6月だっけ」
「うん。短いお付き合いだったから、どんな人かはよくわからない。斉藤さんはどうですか」
「私はあなたたちより1年早いだけだから。あの社長は会社にあまり来ない人でやっぱりマイペースだった気がする」
「由美子はね、在学中に社労士になって大手の事務所に就職を決めたんだよ。親父は息子の嫁ならこの会社に入るはずだって思い込んでたから喧嘩になった。小さな町工場に若い社労士が入社するはずないのにね」
マグカップに自分でお湯を注ぎながら社長が言った。
「社長、いらっしゃったんですか」
「ずっとここにいたよ。シナボンでみんなの分を買ってきたのは私じゃないか」
目の前でご家族の噂話なんて恥ずかしい。どうして誰も気が付かなかったの。
「当時、彼女は妊娠後期で就職先と相談中だった。妊娠を理由に入社を取り消したら社労士事務所としては外聞が悪いだろう。それで入社日当日から産前休業に入って、実家で真三を産んだ。法定の産後休暇しか取らずに会社に行ったそうだよ。そんなに早く動けるとは知らなかったから私も驚いた」
「それから戻られなかったんですか」
「会社まで地下鉄で一駅。楽だからそのまま実家に居着いた。真三が大きくなって私を拒絶するようになったから、息子の養育中は戻るに戻れなくなってしまった」
社長が私を見ながら話しているのは、私が出産と育児の経験者だからだろうか。私の感想はひとつだけだ。
「重いです」
みんなが静かにうなずいた。




