EPISODE 35.6
特定危険領域庁や冒険公社への改組作業が大詰めとなり、星野が内示を受けた頃のこと。智子さんと喫茶店で話す機会があった。
「来てくれてありがとう」
「ごぶさたしています。世間をお騒がせして申しわけありませんでした」
「あなたが騒がせたわけではないでしょう」
ただの挨拶なのにたしなめる口調。やっぱりこの人は怖い。
「それで哲夫さん、子供のことはどう考えてるの」
「はい。これからは危険の少ない役職に就くことになりそうです。大地の弟か妹が生まれましたら、毎日家に帰ってですね…」
「じゃあ、あの子の仕事のことはどうなの」
それはもちろん大地のときと同じだ。産前産後で1年くらい休むことになる。復職時に彼女が苦しんだことはよく知っている。だが代わってやることはできない。
「美智子は大丈夫です。またブランクを取り戻せます」
「あの子は退職を考えています。実際のところ、戻ってきたときの変化は前よりずっと大きいです」
2003年に着工した市川市の工場は2005年夏に稼働が開始される。旧工場は段階的に閉鎖されて都心には事務所だけが残る。美智子が育児休業から戻るのはその変化の最中だ。
「機械も人も仕事も激変します。休んでいた人が対応するのはとてもむずかしいでしょう」
「そのために業務マニュアルを整備したのではなかったんですか。前回はそれで助かったと言っていましたよ」
「そうですね。だから会社としては戻れるはずだし、戻ってきて欲しいと考えています。もっと言うなら辞められると困ります」
義姉はもうすぐ課長になると美智子から聞いている。それでこの人は経営サイドの話をしに来たのか。
「姉としてはどうなんですか。私は夫として、本人の希望に沿わせたいと思います」
「姉としては本人の好きにさせたい。最善は自分で復職を決めてくれることです。哲夫さん、説得してくれませんか」
「でも本人から辞めたいと相談されてないんですよ。あなたに言われたって言っていいんですか」
「忙しい人に相談なんてできるはずないでしょう」
やっぱり俺が悪かったのか。どうしたらいい。それはもちろん話し合う時間を作らねばならない。
「ところで智子さん、品川の家はどうされるんですか」
「そのことが今、関係ありますか」
「美智子が気にしていました。だからお話ししたいと思ってたんです」
困惑する義姉の返事を待ちながら、星野は珈琲館ブレンドをお代わりした。
「家は可能な限り残します。斉藤の姓も捨てません。話を聞いたならわかってるでしょう」
「それで姉妹とも式を挙げられていない。どうにかならないんでしょうか」
彼女もコーヒーのお代わりを頼んだ。こころなしか顔が赤い。
「あの人は今は父親から仕事をもらって子会社を維持している立場です。逆らったら社長を解任されるだけではすまないかも知れません。社員や取引先にも迷惑がかかる可能性があります。だから言いなりになるしかないんです。だけど、独立するつもりで準備をしています。自分から退任して起業するか、今の会社を買い取るかするつもりです。井出はそうしたら改姓すると約束してくれました。私はそれを待ってるんです」
「時間がかかりそうですね」
「かかってもいいんです。私のことは置いといて、あなたたちが結婚式をしたいならすればいいじゃないですか。祝福しますよ」
「美智子と相談してみます」
井出氏と顔を合わせたことはあまりない。そのわずかな接触で、何を考えているかわからない男という印象を持っていた。そんな意思があったとは知らなかったな。だがこうなると、やはり俺の問題が浮き彫りになる。美智子と話し合う時間を作らねばならないのだ。




