EPISODE 29.1
「ただいま」
「おかえり。お風呂が沸いてるから直行してください」
「お茶くらい飲んでからでいいだろう」
「だめ」
ダンジョンの中は16〜18度で年中安定しているから何泊しても臭いが気にならないと本人は言う。とんでもないことだ。気にならないのは鼻が慣れているからに違いない。ダンジョンにもお風呂があればいいのに。
「大地、いっしょに入って来なさい」
「いやだあ」
「せっかくパパが帰ってきたんだから行きなさいよ」
「うん、じゃあパパをお風呂に入れる」
汚れた服は洗剤に漬けておいて明日の朝、家を出る前に洗う。そうだ。
「哲夫さん、ごはんはどうするの」
「食べるよ。何があるの」
「すぐできるのは湯豆腐。時間がかかっていいならスパゲティ」
「湯豆腐でお願いします」
食事に関しては楽な旦那でよかった。ハムサラダとミニトマトは冷蔵庫から出すだけ。大地はもう食べたけど欲しがるかも知れない。ちょっとだけならいいか。
ごはんの準備が終わって時計を確認すると、ようやく私は化粧を落とす。明日は夫は家にいるのだろうか。奥多摩に出かけてしまうなら義父に予定を伝えないといけない。家にいるならお買い物に行ってもらおう。そんなふうに忙しい日々は過ぎていく。
その日は電話もFAXもネットの注文も多かった。メールを書きながら電話に出る。電話のご注文は自分の端末が使用中なので共用機 (V200/M7, V200/S7, VC35D/5) のどれかに足を運んで入力する。FAXを入力していた野原さんも同じだ。それも一段落して交代で休憩しようかと話していたとき、美香さんと島田くんがやってきた。
「あのね、近いうちにどちらかにお休みを取って欲しいの」
「こんなに忙しいのに休んでも大丈夫なんでしょうか」
「経営管理部の週間天気予報では忙しいのは今日まで。何日か暇な時期が続いて、来週また忙しくなるでしょう。まあ私もいるから予報が外れても大丈夫だよ。お休みの理由は島田くんの都合でMA50Jを使いたいから」
成長して大人っぽくなっても変な肩書のままの島田OAアシスタント主任が白い歯を見せながら赤い封筒を掲げた。
「楽々市場から通知が来ました。年が変わると注文メールのフォーマットが変わるんです。正月出勤は嫌だから、新旧のフォーマットのメールをひとつのスクリプトで処理できるようにします。そのテストと調整をしたいんです。開発環境とMA50JはOSも違うから時間がかかる可能性があります」
「そういうわけなので、相談してどちらかが休んでちょうだい。明日か明後日ね」
マシンが使えなくてもやることはあるのだからお休みはしなくていいのでは。まあ相談して決めたらいいよね。
そう思っていたのだが。夕方になって知らない番号から予期せぬ電話が来た。
「陸上自衛隊中央業務支援隊の辻と申します。星野哲夫さんの直属の上司で階級は3等陸佐です。星野美智子さんですね」
「夫に何かありましたか」
自分の身に何かがあれば必ず隊から知らせが来る。夫は常にそう言っていた。
「もうすぐ報道されるはずですが、奥多摩のダンジョン全域でゴブリンが同時多発的に出現しています。星野1尉は冒険者としてダンジョンの最下層にいます。しかしまだ連絡が取れておりません。彼の活動は自衛隊の調査任務を兼ねておりましたので、我々は公務中の事故と見做しております。我々は部下をただ見殺しにするような組織ではありません。あらゆる可能性を排除せず最善を尽くします。近いうち、奥多摩で大きな動きがあるかもしれません。それまでは、どうかご主人を信じて待っていていただきたい」




