賢治の扉は神によって開かれる
美藤賢治、五十六歳。
五年前に閉鎖された国営特殊能力研究所の元所長であり、人間の遺伝子研究で天才と呼ばれた男だ。
だが、その栄光は一瞬で崩れ去った。
異能を持つ子供たちへの非人道的な実験。
研究資金を増額させるための国会議員への脅迫。
職員へのパワーハラスメント。
研究所で起きた事故をきっかけに、それらの悪事が次々と明るみに出た。
そして、美藤は投獄された。
五年の刑期を終え、最近になって出所したばかりだった。
現住所は、埼玉県蕨市。
市営アパートの一室で暮らしていた。
1Kの狭いアパートの部屋は、山のような書類と蔵書で足の踏み場もない。
それらは賢治が人生のすべてを懸けて集めた、人の進化を追うための資料だった。
誰が尋ねてくる訳でもない。
自分が場所を分かっていれば、どれだけ散らかっていようが関係なかった。
パソコンに向かい、他の研究者が発表した学説を読みふける。
作業を続けていると、マウスを動かす右手が鈍く痛んだ。
長く右手を使うと、必ず疼き出す。
四年前、研究対象に折られた場所だ。
そのたびに、あの時の記憶が蘇る。
ガリガリに痩せた少年の空虚な瞳。
信じられないほどの怪力と、そこから生み出された人を超える破壊行為。
あれこそ、自分の追い求めていた人間の可能性のひとつだった。
あの力を研究したい。
腕を折られ、地位を剥奪され、刑務所に入れられても、その熱は冷めるどころか増すばかりだった。
だが、今はもうそれを叶えることはできない。
すでに自分の研究できる場所は失われていた。
出所後、遺伝子系の研究施設に打診を試みた。
しかし、あれだけ面倒をみて導いてやった愚能な奴らは、美藤を煙たがるように門前払いした。
(誰のおかげで研究者として成長できたと思っているんだ!日本においてこの分野を切り開いたのは、すべて自分だというのに!)
(たかが一度有罪になった程度で、昔の恩を忘れおって!そんなんだから、日本の研究は海外に後れを取るんだ!)
彼の心の中は、焦りと憎悪で煮えくり返っていた。
国内が駄目なら海外に打診してみようとも思ったが、誰も紹介状を書いてはくれなかった。
仕方なく、自分で直接連絡を取ってみたところで、児童虐待の汚点が響いて拒否されてしまった。
自分の知名度の高さが仇になっていた。
この狭い業界では、汚点のついた自分の名は広まり過ぎていたのだ。
「クソッ!」
腕の痛みと、先の見えない現実に思わず机を叩く。
(人を進化させるためには、多少の犠牲は付き物だろうが!なぜそれがわからん!)
たかが百人で八十億人の進化が望めるのならば、その犠牲など微々たるものではないか。
何より、自分は被検体へ最大限の待遇を与えていた。
奴らが望むものは何でも用意させた。
時には身銭を切ってでもだ。
そのせいで、今は貯金も底をついている。
(どいつもこいつも、なぜ偉大な研究の邪魔しかせんのだ!)
自分は、人生全てを捧げてきた。
結婚もせず、子孫も残さず、私財は全て研究に注ぎ込んだ。
それもこれも、全ては人を進めるためだ。
幼い時に見た、あの光景を忘れられなかったから、今も——。
トントン、と扉を叩く音が聞こえた。
時計を見たら二十二時を過ぎている。
アパートの住人が、先ほど机を叩いた音の苦情でも言いに来たのかと思った。
ボロアパートだから、些細な生活音ですら響いてしまう。
(クソ!なんでワシが染色体転座すら知らない愚能へ謝らねばならんのだ!あまりにも理不尽だろう!)
(ワシの講義が一回いくら稼ぐのか知っているのか?貴様らの一年分の給料だぞ!)
文句を言ってきたら、逆に怒鳴りつけてやろう。
そう思い、玄関へ向かった。
「誰だ!」
この辺りは外国人が多い。
面倒な相手なら、扉は開けずに無視しようと思った。
だが、返ってきたのは妙に落ち着いた声だった。
「夜分にすみません、美藤賢治さんですね。少し、お話があります」
若い男の声だった。
いや、若すぎると言ってもいい。
そのことが、逆に警戒心を刺激した。
クソガキの悪戯かと思ったからだ。
「あなたがなさっていた研究に、興味のある者です」
研究という一言で、美藤の心臓が跳ねた。
まさかこの国で、まだ自分の研究に興味を持つ者がいるというのか。
「……どこの研究機関の人間だ?」
だが、もしかしたら週刊誌などの下らない記者連中かも知れない。
出所してから何度かそんな輩に付きまとわれた。
「開けていただければ、すぐにわかりますよ」
挑発でも脅しでもない。
ただ、確信に満ちた声音。
警戒は緩めなかったが、好奇心と研究への未練が無視を許さなかった。
美藤は舌打ちしながら、ドアチェーンをしたまま扉を開ける。
そこに立っていたのは白髪交じりの黒髪を持つ、整った顔立ちの少年だった。
年齢は十五、十六といったところか。
だが、その瞳は年齢に似つかわしくない深さを見せていた。
「初めまして、美藤賢治さん。僕は一条アキラと申します」
少年は微笑みを浮かべた。
それを見た瞬間、美藤の背筋に冷たいものが走る。
理由はわからない。
だが、研究者として数々の異能を持つ被検体を見てきた経験が、彼を異常だと伝えていた。
「あなたの研究に、僕はとても興味があります。そして、あなたが追い求めた人の進化について話したいことも」
そう告げた瞳が、闇の中で静かに光る。
「もしよければ、僕と一緒に続きをやりませんか?」
美藤の喉が、乾いた音を立てた。
この少年を迎え入れたら、これからの人生が変わる——そんな予感があった。
それが良い方向か、悪い方向かがわからない。
だが、すでに今の自分は底にいる。
これ以上悪いことは起こりようもなかった。
だから、扉を閉じてチェーンを外してしまった。
再び開かれたその扉が、すべての始まりに続いていたとも知らずに。




