人間失格
人間というものに期待をしない。
それが新井出哲也の持つ、揺るぎない信条だった。
哲也の父親は、彼が四歳になって間もなく、自ら命を絶った。
妻のDVとモラハラに耐えられなかったからだ。
母は美しい人だった。
だが、中身が毒婦としか言いようのない人間だった。
自己中心的で、度を超えたヒステリックな性格。
思い通りにいかなければ泣き叫び、物を壊し、暴力を振るう。
どれだけ言うことを聞いても、たったひとつ気に食わないことがあれば、それまでのすべてが無駄になる。
そして何時間でも相手を責め続ける。
激しく、ネチネチと、過去のことまで引っ張り出して延々と終わりの無い罵倒が続く。
『どれだけ自分が酷い扱いを受けたか、あの時も、この時も、今だって——』
母の中で謝罪という行為は意味をなさないらしい。
過去に起こした父の失敗を、いつでも新鮮に思い出せる。
つまり、一緒にいる限り、罵倒のネタが増え続けるわけだ。
父には小遣いも渡さず、罰と称して食事も与えないことが多かった。
生活全てを管理していなければ気が済まず、仕事へ行っていても、一時間ごとの定期連絡を強要していた。
それが少しでも遅れたら罵倒の理由になる。
母にとっての父は、夫どころか人ではなかったのだろう。
自分の感情をぶつけるためのサンドバッグ。
揺れて戻ればさらに強く叩くだけの存在だった。
そのせいで、父は常に生気のない顔で虚ろな目をしていた。
母に対して何ひとつ口答えをせず、頭を下げてやり過ごしている姿しか見たことがない。
命すら放り出して母から逃げ出すのも、仕方のないことだった。
でも、出来ることなら、母も道連れにして逝って欲しかった。
父が死んだ日、母は泣いていた。
けれど、その涙は父のためではなかった。
『あんなに尽くしていたのに……どうして私を置いていってしまったの……』
言葉を変えて何度も繰り返しながら、周囲の人間に自分への同情を求めていた。
その姿を見て、幼い哲也は理解した。
母は、自分が父を死に追いやっても反省しないし、それすらも自分のために利用する人間なのだと。
哲也は、ゴミ袋ひとつに収まる父の遺品を見て、もっと早く身ひとつで逃げれば良かったのにと思った。
父とまともに会話をした記憶はない。
母が、哲也と触れさせることを禁じていたからだ。
『私の教育に、誰かが口を出すのは許さない』
相手が誰であろうとそう言っていた。
哲也の祖父母にあたる、母の両親に対してもだ。
父がそれに逆らえるはずもなかったのだろう。
父がいなくなったことで、母のDVを行う対象は必然的に一番側にいる哲也へと移った。
気分次第で食事を抜き、手を上げ、罵声を浴びせる。
それによって哲也の体は痩せ細り、つねに痣の作られる日々が続いた。
だが、哲也はそれを当然の事として受け止めた。
父を見ていて覚悟が出来ていたからだ。
母は次々と新しい男を家に連れ込んだ。
夫を亡くした可哀想な美しい未亡人、その肩書きは男を寄せる餌となっていたのだろう。
男たちは決まって最初は哲也に優しくする。
父親を亡くした可哀想な子供。
ならば自分が新しい父になってやろうと。
だが、徐々に母へと染まりだす。
母は、男を意のままに動かす才能を遺憾なく発揮した。
最初は嬉しかった。
経験したことのない優しさを受けたから。
プレゼントを持ってくる手。
優しく頭を撫でる手。
大きく頼もしい手。
——それがあっという間に凶器へと変わる。
結局、哲也も父と同じサンドバッグに成り下がった。
そして、大人の男から受ける痛みは、子供の哲也にとって死を身近に感じられるものだった。
しばらくすると、母は哲也を痛めつけた男を訴える。
暴力を振るう姿を動画にとって脅し、相手から多額の示談金をせしめていた。
とんだマッチポンプだ。
だが、それこそが母の目的だったのだろう。
哲也を苦しめながら金も手に入る。
彼女にとって一石二鳥ともいえる薔薇色の生活。
そして、哲也にとって地獄以外のなにものでもない生活だった。
幼稚園や小学校、それらに通ったことは無かった。
母はよほど気が向かない限り、哲也を外へは連れ出さなかったからだ。
自分のもとに縛り付けておきたかったのだろう。
なんの希望も無い人生。
助けてくれる大人も、仲良くしてくれる友人も、愛してくれる親もいない。
だから、その生活の終止符は哲也自身が打つしかなかった。
母が日常的に哲也へ暴力を振るう姿。
それを、父の遺品であった携帯電話で撮影していたのだ。
数年分溜まっていた記録は、母と哲也を離してくれる理由として十分に役に立ってくれた。
哲也は、いつか母から逃げる時のために、父の遺品から携帯電話を抜き取って隠し持っていた。
それを部屋に設置し、暴力が始まる時は出来るだけその場所へ誘導した。
傷は自ら写真で撮り、日記へと詳細に記していた。
そのデータと虐待の日々を綴った日記を持って、警察署に向かった。
一人になれる機会なんてほとんどない。
失敗すればおそらくどちらかが死ぬまで監禁される。
絶対に失敗できないその機会を待つのに、一年かかってしまった。
その結果、母は暴行傷害などで逮捕された。
哲也の証言と父の携帯の履歴から、父へのDVについても捜査が進められることになった。
父の携帯のロック解除番号は、哲也の誕生日だった。
まさかと思って入力したが、あっさりと解除できて逆に驚いた。
そのおかげで計画は成功したと言える。
哲也にとっては、かたきを取ったというほどの思い入れはない人だった。
それでも父への感謝をほんの少しだけ覚えた。
その後、哲也は福祉施設へと移された。
三食まともに食える生活はありがたかった。
だが、そこでも当たり前のようにいじめを受けた。
まともに人とコミュニケーションを取れなかったからだろう。
その上、哲也の頭が並外れて良かったせいもあった。
母と暮らしていた時は、そのことに気づかなかった。
比較する対象がいなかったからだ。
当時は、母から与えられた教材をひたすらこなしていた。
哲也は文字通り、必死に解いた。
問題を間違えたら折檻されることはわかっていたからだ。
母は、教育という名目で哲也を責めたいがために、より高度な教材を次々と用意した。
だが、それを次々と解いてしまったがゆえに、出される教材はエスカレートしていった。
小学生に対して中学生の問題を出し、それが解けたら高校生レベルの問題を出していく。
最終的に、母が答えを見てもわからないレベルに達してしまい、教材を与えられることはなくなった。
だから、周りにいる施設の子供たちの勉強する姿が、どうしようもなく幼稚に見えてしまっていた。
哲也の外見は、栄養が足りなかったせいで背は低くガリガリだった。
その上、挨拶すらまともに返さず、自分たちを馬鹿にしたような態度を取るのだ。
いじめない方が難しかっただろう。
さらに、哲也には人と大きく違う点があった。
傷の治りが異様に早かったのだ。
痣ができてもすぐに治ってしまう。
過去に受けた虐待では、骨折すら一日あれば治っていた。
そのせいで虐待の証明が難しかったのだ。
写真を撮って詳細に記録を残さなければいけないほどに。
怪我をさせてもすぐ治る哲也は、施設の子供たちにとって恰好のおもちゃとなる。
結局ここでもサンドバッグの役割は変わらない。
哲也は思った。
『オレはきっと、人間としては生きられないのだ』と。
哲也の生活は、多少マシになった程度の変化しか起きなかった。
職員に助けを求めようが、証拠の怪我が治ってしまう。
あの子は噓つきだ。
それが職員の認識として植え付けられただけだった。
父の携帯は警察に証拠として提出してしまったので、前の手は使えなかった。
それにより、ただ耐えるだけの日々を送っていた。
しかし、哲也はその現状を自らの能力で乗り越える。
治癒の力だけではなく、肉体を変化させることに使い始めた。
もともと幼児期から無意識に使っていた能力だった。
大人の暴力から身を守るために、怪我を治すだけではなく、骨や皮膚を硬く作り変えていた。
そうでなければとっくに死んでいただろう。
人より硬い体を作れることに気づいてからは、その能力がより上手に扱えるようになった。
殴られる箇所の皮膚を、瞬時に石のように固くさせる。
そうやって、相手の手を痛めつけるか、疲れさせることで暴力をしのいでいた。
すべては生き残るため。
だがある時、いつも以上に過激な暴力を受け、腕の骨が折れ曲がるくらいの大怪我をした。
さすがに職員も慌てふためき、すぐに手術をすることになった。
だが、手術中の医師が目にしたのは、骨折箇所が目に見えて結合していく姿。
それはまるで、スローモーションで巻き戻しを見ているようだったらしい。
あまりにも異常な体質。
そのことが判明した後は、もとの施設には戻らずに新たな施設へと送られることとなる。
その場所こそ、国が密かに建設し運用していた、異能者専用の巨大な実験施設だった。




