草原の先に
翌朝、一行は日の出とともに野営地を出発した。朝の冷たい空気の中、馬車は軽快に街道を進んでいく。今日はフィルが先頭の馬車の御者だ。
森を抜けると、広い草原へ出た。背の低い草が一面に広がり、風を受けて波のようになびいていた。
「ここはアステル草原といって、ラナ草の群生地なんですよ」
「ラナ草?」
「乾燥させて傷薬に使ったり、煮出して回復薬の材料にしたりします。王都で売られている傷薬や回復薬にも、たいてい使われていますよ。フィーネさんも、知らないうちに使ったことがあるかもしれませんね」
「へえ……」
フィーネはぐるりと辺りを見回した。
「少し採ってみますか?」
フィルは馬車の速度を緩めた。
「どうしたの?」
今日は馬車のそばを歩きながら護衛をしているセレナが、声をかけてきた。
「ああ、フィーネさんがラナ草を初めて見たそうなので、少し採ってみようかと思いまして。ヘルミオ様に、寄り道してもよいか聞いてもらえませんか」
「いいわよ」
セレナは後ろの馬車にいるヘルミオのもとへ向かった。
「この草原では、採っていい量が決められているんですよ。基本的には、薬師組合が管理しているのですが、旅人や行商人が自分たちで使う分を採ることは許されています。ただ、一株から摘んでいいのは数枚だけです。それに、根を傷つけたり、株ごと抜いたりしてはいけないという決まりもあって」
「どこで採ってもいいのですか」
「いいえ、組合が決めた場所からしか採ってはいけないんです。今の時期の採取場所は……この近くだったかな」
「ここから十五分ほど進んだところですって」
戻ってきたセレナが口を挟んだ。
「ヘルミオ様も、ラナ草を少し補充しておきたいそうよ。ラウディスさんに、風魔法で伝えて」
「分かりました」
フィルは手綱を握ったまま、小さな声で何かを唱えた。すると、馬車の脇を吹いていた風が一筋だけ向きを変え、前方へと流れていった。
驚いたフィーネは、思わずフィルを見た。
「今の風が、ラウディスさんに言葉を届けるのですか」
「ええ。声を風に乗せたんです。あまり遠くまでは届きませんけど、ラウディスさんがいるところくらいなら大丈夫です。隊の意思疎通をはかるのに、けっこう使えるんですよね」
「とても便利ですね。わたしも使えたらいいのですけど……」
「フィーネさんなら、使うこと自体は簡単だと思いますよ。でも、練習は必要でしょうね。これも力を込めすぎたら、暴風が吹き荒れるでしょうから」
フィルは笑いをこらえるようにフィーネから目をそらしたが、その肩は小さく震えていた。
それから十五分ほど進むと、街道の脇に馬を止めたラウディスの姿が見えた。ラウディスは一行に気づくと、草原の一角を指さした。どうやら、そこが採取場所のようだ。馬車が近づくと、ラウディスは馬上から大きく手を振った。
「採取場所は、あの目印の杭から向こうです。周囲に獣の気配もありません」
フィルは馬車を街道の端へ寄せ、ゆっくりと止めた。
「フィーネさん、降りますよね?」
「ええ。ラナ草がどんなものなのか、しっかり見てみたいですし」
「では、お手をどうぞ」
先に御者台から降りたフィルは、芝居がかった仕草で右手を差し出した。フィーネがその手を取ろうとすると、セレナが声をかけてきた。
「ねえ、あなたたち、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「え?」
フィーネは伸ばした手を思わず引っ込めた。
「いやだなあ、セレナさん。馬車を降りる人に手を貸すのは、紳士の常識でしょう?」
フィルはおどけたように胸へ片手を当てると、もう一度フィーネへ手を差し出した。セレナはそんなフィルを見て、やれやれとでも言いたげに肩をすくめると、先に採取場所へ向かって歩き始めた。フィーネは少し迷ったあと、差し出された手に自分の手を重ねた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
フィーネは馬車を降りると、少し先を行くセレナの後を追った。
セレナは籠を持って、杭とロープで囲まれた採取場所の入り口に立っていた。
「セレナさん、ここですか」
「そうよ。さあ、入りましょう」
フィーネはセレナについて、囲いの中へ入った。
「これがラナ草よ」
セレナが指さした先を見ると、背の低い草の中に、少しだけ葉の形と色合いが違うものが混じっていた。
「なるほど、これが……」
フィーネが素手のまま葉に触れようとすると、セレナが慌てて止めた。
「フィーネ、少し待って。手袋をして。ほら」
セレナは籠の中から革製の手袋を取り出すと、フィーネに渡した。
「ラナ草の葉には、細かい針のようなものがあるの。素手で触ると、指先から腕までしびれて、しばらく力が入らなくなるのよ」
「へえ。そんな毒のようなものを持つ草が、薬になるのですね」
フィーネは渡された手袋をしながら、ラナ草の近くにしゃがみ込んだ。
「そうなの。それが面白いところよね。でも、この葉を乾燥させると、しびれを起こす成分がほとんどなくなるの。それから細かくしたり、煮出したりして使うわけ」
「どの葉を採ればいいですか」
「外側の大きな葉よ。一株からは、だいたい三枚までかしら。今回は商隊としてみんなで採取するから、この籠がいっぱいになるくらいまでなら、採っても問題ないわよ」
「わかりました」
フィーネは慎重にラナ草の葉を三枚ずつ摘み、セレナが置いた籠の中へ入れていった。気がつくと、ヘルミオ、フィル、リオネルも採取場所に入り、それぞれ葉を摘んでいた。
ふと顔を上げて馬車のほうを見ると、ラウディスとゴローが周囲を警戒していた。フィーネが小さく手を振ると、ゴローもすぐに気づき、わずかに笑って片手を上げた。
しばらくの間、誰も口を開かずにラナ草の葉を摘み続けた。やがて、セレナが持ってきた籠がいっぱいになった。
「これくらいにしておきましょうか。皆さん、お疲れさまでした」
ヘルミオが声をかけると、皆は葉を摘む手を止め、それぞれ立ち上がった。
「せっかく馬車を止めたんですし、ここで少し休んでいきませんか?」
フィルが手袋についた細かな葉を払いながら言った。ヘルミオは街道の先へ目を向けた。
「もう少し進むと、馬車を止められる広い場所がある。休憩するなら、そこまで行ったほうがいいだろう」
「そうですね。ここは、ほかの人が来たときに邪魔になってしまうかもしれないですもんね」
フィルはうなずくと、採取場所の外へ向かって歩き始めた。
「ちょっと、フィル。籠はあなたが持っていってよ」
セレナがフィルの後ろから声をかけた。
「え?」
「だって、ねえ。荷物を持ってくれるのも、紳士の常識なんじゃないの?」
フィーネのほうをちらりと見ながら、セレナは籠をフィルへ差し出した。フィルは籠を受け取りながら、わざとらしく肩をすくめた。
「まあ、俺は紳士なんで。最初から持つつもりでしたけどね」
「本当かしらねえ」
セレナは笑いながら、フィーネの隣にやってきた。
「行きましょう。籠は紳士が持って行ってくれるそうだから」
「はい」
セレナとフィーネは、並んで馬車へ戻った。
馬車に乗り込んでから十分ほどで、草原の中にある広場へ着いた。
「ここで休憩ですね」
フィルは馬車を広場の端に止めると、荷台から水筒を取り出して飲み始めた。フィーネも水筒を出そうと荷台を振り返った。すると、そこにいたゴローが、鞄の中から炭酸水の瓶を取り出した。
「採取、お疲れさまでした。どうぞ」
「ああ、これ、ちょうど飲みたかったの」
フィーネは冷えた瓶を頬に当てた。
「あれ、もしかしてそれって……」
フィルが瓶の中の泡をじっと見つめながら、フィーネに尋ねた。
「ああ、炭酸水ですよ。カルドさんが持たせてくれたものです」
「やっぱり。この間、セレナさんに、タベリーの実のパイと一緒に飲んだら最高だったって自慢されたんですよ」
「フィルさんも飲んでみます?」
「いいんですか?」
「ええ。どうぞ」
「ああ、俺、コップを持っているんで、ちょっと待ってください」
フィルは荷台へ戻ると、大きな鞄からコップを取り出して戻ってきた。フィーネがそこへ炭酸水を注ぐと、細かな泡が弾けながら盛り上がり、フィルの手を少し濡らした。
「うわあ、本当に泡が出るんですね」
フィルはしばらく珍しそうにコップの中を眺めてから、口をつけた。
「すごい。口に入れた瞬間に泡が弾けて面白いし、喉を通るときも、少しちくちくするみたいです。泡の出る酒とは、また違いますね。水なのに、こんなに泡が出るなんて」
コップに残っていた炭酸水を飲み干すと、フィルが大きく息を吐いた。
「あー、うまい。これは確かにタベリーの実のパイと合いそうですね。セレナさんが自慢するわけだ」
「ね、そうでしょ?」
いつの間にかセレナが水筒を片手に近くに来て、口を挟んだ。
「でも、次の村じゃ、もっと珍しいものがあるかもしれないわよ」
「え、なにかあるのですか」
フィーネは、飲み干そうとした瓶を一度膝の上に戻した。
「次の村はね、コウド村っていうんだけど、昔から土の大精霊オヤリ様をとても大切にしている村なの。毎年、春の一月にはオヤリ様を讃える祭りが開かれるのよ」
「土の大精霊オヤリ様……」
「そう。建国史にも載っている大精霊よ」
フィーネは記憶をたどるように、少し視線を上げた。
「ああ、なんとなく聞き覚えがあると思ったら、あの本に載っている精霊の名前でしたか。どんなお祭りなんですか」
「コウド村は、豊かな鉱山資源で成り立っている村なの。だから、大地の恵みを与えてくださったオヤリ様に、感謝を捧げるお祭りなのよ」
「なるほど」
セレナは荷台に軽く寄りかかると、水筒の蓋を開けた。
「それに、村にはオヤリ様ご自身が残されたと伝わる碑もあるの」
「オヤリ様が、ご自身で……?」
一口飲んでからセレナは話を続けた。
「そうなの。もう誰にも読めないんだけどね。もしかしたら今年のお祭りは、今までとは少し様子が違うかもしれないわ」
「どうしてですか?」
「最近、別の場所でもよく似た碑が見つかったらしいのよ。それで、村がいつもより賑やからしいわ」
「へえ。面白そうですね」
フィーネは瓶の中の泡を見つめたあと、まだ見えないコウド村の方角へ目を向けた。




