第3話 はじめての教会は逃げ道のはずでした
エウフェミアが教会を訪れたのは、婚約の場で倒れてから三日後のことだった。
王都の中央から少し離れた場所にある大聖堂は、白い石で築かれた荘厳な建物だった。高い尖塔は青空へと伸び、色鮮やかなステンドグラスは日差しを受けて宝石のようにきらめいている。
馬車を降りたエウフェミアは、思わず胸の前で手を組んだ。
「……ここなら、匿っていただけそうですわね」
「お嬢様?」
「なんでもありませんの」
付き添いの侍女見習い――セシルは、不思議そうに首を傾げた。
この数日で、彼女はすっかりエウフェミアに心酔しかけていた。目覚めてからの主人公が、以前とは比べ物にならないほど穏やかで優しいのだから無理もない。
だが本人としては、別に人格者を目指しているわけではない。
断罪回避のために悪役令嬢ルートを踏まぬよう注意し、ついでに将来シスターになる可能性を真面目に検討しているだけである。
だから今日の目的は明確だった。
祈ること。
そして何より、教会が本当に逃げ道になり得るかを見極めること。
大聖堂の中は、外の眩しさが嘘のように静かだった。長椅子が整然と並び、祭壇の前にはやわらかな光が落ちている。人々の声も小さく、靴音さえ遠慮がちだ。
エウフェミアはその空気に、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
ここには、社交界のきらびやかさも、婚約者として見定めるような視線もない。
少なくとも今は。
「ようこそおいでくださいました、エウフェミア様」
案内に現れたのは、黒髪を後ろでまとめた若い神父だった。年の頃は二十代半ばほど。穏やかな顔立ちに、落ち着いた知性が見える。
「わたくし、司祭補を務めておりますマティアスと申します」
エウフェミアは反射的に思った。
この方は将来の就職先候補の偉い人なのではなくて?
いけない。目が生存戦略になっている。
「本日は突然のお願いを聞き届けていただき、ありがとうございます」
丁寧に礼をすると、マティアスはわずかに目を見開いた。
やはり以前のエウフェミアなら、こうは言わなかったのだろう。
「もったいないお言葉です。婚約という大きな節目に、こうして祈りを選ばれるとは……実に尊いことです」
尊いというより保険です。
心の中でそう呟きつつ、エウフェミアは神妙に目を伏せた。
「わたくし、未熟ではございますけれど……神の御前で、心を整えたいと思いましたの」
嘘ではない。整えたい。今の自分は将来設計が婚約解消か教会就職しかないので、かなり整えたい。
マティアスに案内され、祭壇の前へと進む。
エウフェミアは素直に膝をついた。
目を閉じる。
神様。
もし本当にいらっしゃるなら、お聞き届けくださいませ。
婚約はできれば穏便に解消したいです。
断罪は絶対に嫌です。
ヒロインの方が現れたら、わたくしは速やかに身を引く所存です。
必要なら教会で慎ましく生きますので、どうか命だけはお助けください。
ついでにできれば、公爵家にも迷惑がかからない形でお願いします。
……あと将来的に胸が大きくなりすぎるのなら、少し加減を――
そこでエウフェミアは、はっとした。
最後のは違う。
いやでも肩こりは切実かもしれない。前世ではそこまで悩まなかったぶん、なおさら未知の不安がある。
しかし今は断罪回避が優先だ。
エウフェミアは心の中でこほんと咳払いし、祈りをまとめた。
その時、礼拝堂の後方が小さくざわついた。
振り返ると、ひとりの幼い男の子が長椅子の陰でうずくまっていた。五歳か六歳ほどだろうか。怯えたように身体を縮めている。
近くの修道女が声をかけているが、緊張しているのか、男の子はますます固くなるばかりだった。
エウフェミアは一瞬だけ迷った。
公爵令嬢としては、こういう時に不用意に出ていかず、教会側に任せる方が無難かもしれない。
でも。
ああいう顔は駄目だ。
前世の自分は、ああいう顔を見て放っておけた試しがない。
気づけば、立ち上がっていた。
「お嬢様?」
セシルの戸惑う声を背に、エウフェミアはゆっくりと男の子の方へ歩いていく。
膝を折り、目線を合わせて、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですわ」
男の子がびくっと肩を震わせる。
「わたくしも、知らない場所では少し不安になりますの。お名前だけでも教えてくださる?」
男の子はおずおずと顔を上げた。
「……トーマ」
「そう。トーマというのね。素敵なお名前ですわ」
そう言うと、男の子は少しだけ表情を緩めた。
「お母様とはぐれてしまったのかしら」
こくり、と頷く。
「では、一緒に探しましょう。でも立てる? 難しければ、ここで待っていてもいいのよ」
「……たてる」
「えらいわ」
そのひとことで、男の子はほんの少し胸を張った。
子どもには選択肢を渡し、小さく褒める。前世で自然と身についた感覚だった。
エウフェミアが手を差し出すと、男の子はためらいがちにその手を握った。
その瞬間、礼拝堂の空気が妙に静まった気がした。
視線を感じる。
修道女たち、マティアス、セシル、周囲の信徒たちまで、なぜかこちらを見ている。
あら。
これはもしかしなくても、またやってしまったのではなくて?
「お嬢様……なんてお優しい……」
セシルが今にも泣きそうな声で呟く。
違うのです。これはただの反射です。
だが説明できる場ではない。
やがて、トーマの母親らしい若い女性が青ざめた顔で駆けつけてきた。
「申し訳ありません……! 目を離したのはほんの少しで……!」
「よかったですわ。トーマも、ちゃんと待てましたもの」
そう言って手を離すと、男の子は母親の背に隠れつつも、名残惜しそうにこちらを見た。
「ありがとう、おねえちゃん」
その呼び方に、エウフェミアは思わず笑ってしまう。
「どういたしまして」
母親は何度も頭を下げて去っていった。
残された礼拝堂には、明らかにさっきまでとは違う空気が満ちていた。
優しい。
慈悲深い。
身分に驕らない。
そんな感情が、言葉にされぬまま広がっていくのが分かる。
まずい。
非常にまずい。
婚約解消したいのに、未来の王妃候補ポイントのようなものが加算されている気がする。
そんな主人公の危機感など知る由もなく、マティアスが静かに歩み寄ってきた。
「エウフェミア様」
「はい」
「あなたは、ただ敬虔なだけではなく、人に寄り添うことのできるお方なのですね」
ああ、やっぱりそちらに行くのですね。
エウフェミアは心の中で頭を抱えた。
「そのような大層なものでは……」
「いいえ。幼い方ほど、本質は行動に出ます」
今それを言われると困る。
マティアスはまっすぐに言った。
「どうか、またいつでもおいでください。教会は、祈りを求める方を拒みません」
その言葉だけは、エウフェミアの胸に真っ直ぐ届いた。
拒まない。
それだけで、ほんの少し救われた気がした。
「……ありがとうございます」
今度の礼は、少しだけ本心だった。
帰りの馬車の中で、セシルは終始うっとりしていた。
「あの男の子、とても安心したお顔をしておりました……お嬢様は本当にお優しい……」
「優しいというほどではありませんわ」
「でも、自然に膝をついておられました」
やめてほしい。細部まで見ている。
エウフェミアは窓の外を見ながら、静かに考えた。
今日わかったことは三つ。
ひとつ。教会は逃げ道としてかなり有力である。
ひとつ。マティアス神父は穏やかで、いざという時の相談先になりそうである。
そしてもうひとつ。
前世の自分の性格は、思った以上にこの世界で好感を集めてしまう。
つまり、ただ慎ましく善良にしているだけでは駄目だ。
それがそのまま 『理想の王妃候補』 へ繋がってしまう。
ではどうするか。
必要なのは、好感は保ちながらも 『婚約者としては違う』 と思わせる方向性だ。
たとえば、王子にだけは少し距離を取るとか。
よし。
次はそれでいこう。
少なくとも本人は、そう決めた。
だがその頃、王城では。
「教会で、迷子の子どもを落ち着かせた?」
アルベルト第三王子が、報告書に視線を落としたまま呟いた。
「はい。司祭補も大変感心しておりました」
「……そうですか」
アルベルトは紙を閉じた。
婚約の場で見せた、あの怯えきった表情。
それなのに、その後の行動はどれも慎ましく、優しく、落ち着いている。
まるで別人のように。
「面白いですね」
七歳の王子は、小さく微笑んだ。
「婚約を嫌がっているように見えるのに、婚約者としての評価は上がるばかりだ」
次に会うのが楽しみになってきました、と。
そう呟いたことを、この時のエウフェミアはまだ知らない。




