第75話:この街の格差
「君はとっても真面目で優しい人だね、エミリア。」銀髪の青年ヨナスは目を細めて微笑みながらそう言った。
「確かに、この街は格差が激しい。商業施設や企業オフィスの立ち並ぶこのセントラルスクエアと、すでに閉鎖された施設ばかりのオールドサウス、港はあるが中流から下流以下の住民で構成されるソルティノース……。この街の人間は職にあぶれている者も多いけど、それを言えば外部の人間で構成される月影と、その局員居住区域のルミナスイーストはどうなるんだろう?」ヨナスは小さなマドレーヌを一口かじり、唇をゆっくりと舌先で舐める。
「でもそれは別に、この街に限った話じゃない。」ヨナスの言葉に、エミリアはわずかに目を見開いた。
「誰だって自分の境遇を受け入れて、限られたリソースの中で生きているのに、変に同情したってしょうがないとは思わない?勝手に外から比較して、勝手に彼らを可哀想な人間にするのは……、むしろそっちの方が失礼じゃないか。」
「それはそうかもしれない……。でも、だから見過ごしていい話でもないでしょう?」エミリアが言うと、ヨナスはテーブルに軽く肘を乗せ、頬杖をついた。
やや薄暗い室内で、ヨナスのブルーグレーの瞳が怪しく光る。エミリアは目の前の男に得体の知れないものを感じて、少しだけ背筋が冷える気がした。
「あなたって……、特権階級みたいなことを言うんですね……。Liberty Moon連合の方々も、この街がどうなろうと知ったことじゃないような口調で……。」
「僕なら理解してくれると思った?」
「だってあなたは……聡明に見えるから……。」エミリアの言葉を、ヨナスは終始興味深そうな顔で聞いていた。
しかし共感を示すような温かみはなく、ただ目の前の人間を観察しているかのような冷たさだ。エミリアはその眼差しから逃れるように、不意に視線を泳がせた。
「ふふっ、まぁその見立て自体は間違いじゃない。」ヨナスは嬉しそうに軽く笑った。
「でも、格差があることの、一体何がいけないんだい?」その言葉は、エミリアにとっては衝撃的なものだった。
「病院も学校も閉鎖されているのにですか?」エミリアは自分の感情が乱れていることに驚きつつも、目の前の男に反論をぶつけた。
「今は良くても、すぐに全体に影響を与える……。この街の上流階級だって、いずれ他人事ではなくなるはずです。」エミリアは震える声でそう言った。
「なるほど……、君は正義感も強いんだね。」ヨナスは小さな子供にそうするようにニコリと笑うと、食べかけのマドレーヌを口に放り込み、もう湯気の立っていない紅茶を一口飲んだ。
やはり、近くで見るとより一層優雅に見える所作だった。男でありながら、伏せられたまつ毛は絹糸のように柔らかくて繊細だった。
「この街の格差について、本当になんとも思わないんですか?」エミリアが恐る恐る尋ねると、ヨナスはキッパリとこう言った。
「思わないよ。格差はあるべくしてあるものだからね。」エミリアが唖然としていると、ヨナスは急に何かを思いついたように立ち上がり、奥の部屋へと向かった。
上手く状況を飲み込めないまま、何か良くない状況になっているのではと感じたエミリアは、スッとポケットに手を伸ばす。しかし、そこに期待したはずの感触はなく、雑貨屋ソニアで貰った小瓶はショルダーバッグに入っていることを思い出す。
慌てて膝の上に置いていたショルダーバッグに手を入れ、小瓶を探すと、小さな瓶がカツンとぶつかる音が聞こえた。それをエミリアは慌てて取り出し、蓋を外して手のひらの中に握り込む。使わなければそれで良いが、万が一ということもある。そうこうしているうちに奥の部屋のドアが開き、ヨナスがリビングへと戻ってきた。
「お待たせ。……おや?もう帰り支度かな?」ヨナスはエミリアの様子に気づいたのか、やや驚いたように眉を上げて首を傾げた。
「あ、えぇ……。そろそろお暇しないとかなって。……実はこの後予定があって、人を待たせていますし。」エミリアは真実ながらも苦し紛れにそう言った。
「そう。」戻ってきたヨナスの印象は、どこか先ほどまでと違って見えた。
エミリアが不審に思われないように観察すると、ヨナスの唇には先ほどまではなかったシルバーのピアスが2つ付いている。
「そういうわけなので……、帰りますね?その、休ませていただいてありがとうございます。」エミリアが軽く頭を下げても、ヨナスはエミリアをじっと見たまま、なかなか返事をしなかった。
それどころか、先ほどまでの穏やかな笑みとは違い、今は品定めでもするかのような冷徹な眼差しが笑顔の下に見えている。
「ねぇ……、僕も、こんなことはしたくなかったんだけどさ。……やっぱり君は一筋縄ではいかないね?」
「え?」エミリアが困惑したようにヨナスを見ると、ヨナスはジリジリとエミリアと玄関ドアの間に割り込みながら、少しずつ距離を詰めている。
あまりにも緩慢かつ自然な動きだったが、ヨナスが少しずつエミリアの退路を塞いでいることに気づき、エミリアは思わず背筋が凍った。
「ひっ!」喉から引き攣った声を上げたエミリアを、落ち着かせようとするかのようにヨナスは微笑む。
「そんなに怯えないで……ね?僕と一緒にいてくれれば、こんな街で苦労する必要なんて、ないんだからさ。」こちらの意思を確認するようでいて、一切の否定を想定していないような口調でヨナスは言った。
その間にも、少しずつ彼はエミリアとの間を詰めていく。エミリアは少しずつ後ろに下がり、足がぶつかった拍子でガタンと椅子を転ばせた。
「おっと……。転んでも良いけど、頭をぶつけないように気をつけてよね。あぁ、家具のことなら心配しなくて平気だよ?質はいいけど、急拵えの安物なんだ。」ヨナスはまたいつもの調子で喋り始めた。
「い、いえ、帰してくれれば大丈夫です!」エミリアは咄嗟に言葉を返すも、ヨナスはふっと瞳を曇らせ、傷ついたような顔をした。
「ひどいなぁ……、そんなに怯えなくても、大丈夫なのに。」
―rrrrrr……
近くから小さな音が聞こえたかと思えば、ショルダーバッグに入っている携帯端末が振動していることにエミリアは気づいた。そういえば先ほども震えていたような気がするが、なぜ今まで気がつかなかったのだろうとエミリアは思う。
「あの、家の人が!心配しているかも知れないので、そろそろ帰りますね!」エミリアは意識的にヨナスと距離をとりながら、静かに携帯端末を取り出そうと試みた。
―ガッ
急に左手首に衝撃が走り、エミリアは携帯端末を落としてしまった。一瞬で踏み込んだヨナスががっしりと彼女の手首を掴んでおり、そのまま少しずつ上方に持ち上げ、バッグの位置から遠ざけていく。
「離して、ください……!」そのあまりの力強さに、エミリアは抵抗しようにもしきれなかった。
しかしまだ右手に護身用パフュームの小瓶を持っている。エミリアは自分に覆い被さるほど近くにいるヨナスに対し、蓋を外した状態の香水瓶を近づけた。
―パンッ
「いけないな……。あんまり抵抗すると、優しくしてあげられないじゃないか。」ヨナスは一瞥もせずにエミリアの右手を払い除けると、そのまま左手で彼女の顎に手をやり、半ば無理やりキスをした。
唇を丸ごと塞ぐようなヨナスの唇から、舌先を這わせる感触がある。ヨナスはエミリアの体を壁に押し付けるように追い込み、そのまま体格差を利用して彼女の動きを完全に封じた。
シャツ越しに伝わるヨナスの胸の隆起と鼓動、シルバーのピアスが当たる口先から何度も責め立てられる感触に、はっきりとしたはずのエミリアの脳内はまた少しずつ麻痺してしまう。顔をそらそうにも、今度はヨナスの大きな左手で頭の向きをがっしりと固定され、彼の体と壁の間のわずかな隙間に押し込まれていた。
「……はぁっ。」ようやく呼吸ができると思ったところで、エミリアの目の前にはヨナスのブルーグレーの瞳があった。
彼の瞳は今ようやく獲物を手に入れた喜びで満ち溢れており、その頬は興奮からかほんのりと上気している。彼は軽く湿った唇をゆっくり舐めると、うっとりとした目でエミリアを見た。




