第76話:目の前の男
「やめて……、離して。」左手首を掴まれたまま、右手でヨナスの胸元を掴んでエミリアが懇願する。
羞恥か、処理しきれない状況のせいか、エミリアの目元が熱をはらんで潤んでいく。ヨナスはエミリアの言葉を聞いているのかいないのか、エミリアの足を上手く絡めて、彼女の行動を阻害する。
「離して、お願い……。」ヨナスは肩を震わせながら顔を背けるエミリアの頬を包み込み、親指の腹でなぞるようにして彼女の目元を拭った。
「あぁ……本当にいけないな……。君はまだ僕のことを拒むのかい?」正気じゃないとでも言うように、ヨナスはあらわになったエミリアの首筋にキスをした。
冷たい金属の感触と、柔らかい彼の唇の熱に、エミリアはびくりと肩を震わせる。震えは次第に彼女の腕から太もも、足の先まで伝わっていき、彼の胸にしがみつくようにして彼女がなんとかくずおれないように自分を保った。
しかしヨナスは、そうして自分にしがみついているエミリアの肩を、愛おしそうに撫でている。いつしか彼女の左手首を完全に離し、両腕でエミリアを抱きしめていた。その肉体は外目に見るよりもずっと分厚く、またしっかりとした熱を持って彼女の体を包み込む。
エミリアがゆっくりとしたキスに唇を噛み締めていると、彼女の首筋に小さく痛みが走り、再びびくりと体が震える。直後、耳元でヨナスの吐息が聞こえ、思わずごくりと唾を飲んだ。
「ねぇ、エミリア。お願いだから、そろそろ僕を受け入れて?」エミリアの頬を両掌で包み込み、泣きそうになっている彼女の瞳を覗き込むようにしてヨナスは言った。
その甘えるような声は、相変わらずシルクのように柔らかかったが、その割にエミリアを覗き込むブルーグレーの瞳には、彼女のことなどまるで映っていないかのようだった。どこからともなく差し込む光で、彼のブルーシルバーの髪がより白銀に近い光沢で輝いている。
しかしながらエミリアの心の中には、もっと暗くて無骨な質感を持った人影だけが、しっかりとした輪郭を持って呼び起こされていた。
「アインさん……。」エミリアの呟きは喉に引っかかって発音されず、今目の前にいるこの男にも、まるで聞こえていないかのようだった。
思わず引きつったように口角が上がるのを、ヨナスは肯定と受け取ったようだった。今その手はエミリアの頬ではなく、ゆっくりと下へと降りていく。しかし首筋のあたりで動きを止めると、彼女を試すかのように力を入れた。
「ぐっ……。」息苦しさから思わず声を漏らすエミリアに対し、ヨナスはしっかり満足そうな顔で彼女を見つめる。
助けて、アインさん……。助けを求めていいのかどうか、エミリアにはまだ迷いがあった。しかし精一杯の抵抗も全て、ヨナスによって弾かれてしまった今は、この男の重さをどうにかする術が彼女にはない。ただ祈ることしかできなくなったエミリアは、涙すらこぼさぬように、ぎゅっと目を瞑って耐えようとした。
―バァン
突如として、けたたましい音が部屋中にこだまする。
「チッ、邪魔が入ったな。」耳元でヨナスの苛立つような声が聞こえたが、彼の肉体に遮られ、エミリアにはいまいち状況が分からない。
「何をしている!」腹の底に響くような声が、ヨナスの肩越しにエミリアに聞こえる。
どこか怒りを押し殺したようなその声に、エミリアは思わず涙をこぼした。
「助けてください……、アインさん!」今度はしっかり発声されたその言葉に、ドアのところにいるであろう男の、息を飲む音が聞こえたような気がした。
「はぁ……全く、品がないなぁ……。ノックぐらいしたらどうだい?治安管理局・月影のアイン・ザードくん?」ヨナスはエミリアの首に左腕を回しつつ、右手ではどこかから取り出したナイフを握っていた。
「お前、なぜ俺の名を……!」アインは落ち着き払ったように見えるが、2人の間にはどこか擦り切れそうな緊迫感が漂っている。
「どうして?そんなの簡単じゃないか……。タグ付きアイン・ザードくん。」ヨナスは楽しそうな声で、ナイフをちらつかせながらアインを挑発していた。
「……彼女を離せ。」静かだが確かに唸るような響きでアインが言った。
「そんなに怒らないでよ。別に、君の彼女じゃないくせに……。」ヨナスはふふふと笑うと、途端にエミリアをぐるりと回転させて姿勢を変えた。
「うっ。」首元にかかる圧と共に、何か冷たいものが押し当てられ、次の瞬間には熱を持った液体が伝う感覚がある。
エミリアの足は地面を離れ、かろうじてつま先が触れるだけになっていたが、代わりに目の前の男の顔がよく見えた。
「抵抗をやめろ!……その人を離せ。」少しの動揺も滲ませぬまま、彼はヨナスに銃を向けていた。
相変わらずエミリアの首にナイフを当てたまま、ヨナスはアインをじっと見つめている。エミリアの服越しに伝わる彼の心音は、それでもトクトクと一定のリズムを刻んでいるようだった。
「あっ……。」アインさん、と声をかけようとして、エミリアはぐっと言葉を飲み込んだ。
今この膠着状態の只中にあっては、彼の意識を妨げることをしてはならない、とエミリアは思った。その間もジリジリとヨナスは立ち位置を変えていき、先ほどまでいた壁の近くから、いつの間にか部屋の奥へと移動している。アインは依然としてゴーグル越しにヨナスを睨んでいたが、エミリアがいては迂闊に手出しができないのだろう。
「ははっ、君たち月影のことだ。簡単には殺せないって知ってるよ?でも、そんなこと関係ないよね。」そう言うとヨナスは途端にエミリアの体を正面に動かし、そのままアインへと突き返した。
「きゃっ!」エミリアは背中から強く押された衝撃で、大きく前に倒れ込む。
「……っ!」銃を構えていたアインは、驚きながらもエミリアの方へと腕を伸ばし、彼女の体を受け止めた。
―バン、バン!
しゃがみ込んでエミリアを自分の胸元に受け止めた後、アインはそのまま右膝を前に立て、逃げていく男に向かって弾丸を放つ。しかし男は奥の部屋のドアを盾にして、アインの前から姿を消した。
「エミリアさん、少しだけ待っていてください。」アインはエミリアを静かに床へと座らせると、銃をリロードしながらドアへ近づき、いつでも撃てる状態のまま足を突き出してドアを開けた。
―ダン!
アインは開いたドアの向こう側へと銃を向け、角をクリアリングしながら部屋へと踏み入るものの、寝室の窓が大きく開けられ、美しいレースのカーテンが目の前ではためいているだけだった。
アインは銃を片手に持ち、無線端末を取り出した。窓に近づきながら、無線のボタンを押して情報を告げる。
「こちら、アイン・ザード、応答願います。」
―こちらジーナ、どうぞ。
無線に出たのはジーナだった。ルークとジークも待機しているはずだが、現場の様子を偵察するためにルークのEVCを使用した。そのせいで、今はダウンしているだろう、とアインは思った。
「現場にて、エミリア・バートンを救助した。ターゲットは銀髪の男。クレア局員の証言と一致する。しかし、取り逃した。」アインが窓の縁から身を乗り出して確認すると、窓枠に括り付けられたワイヤーのようなものが目に止まる。
「ターゲットは部屋の窓から逃げ出した。どうぞ。」
―えぇ、確認しているわ。今、ジークが追っている。私もすぐにそちらへ向かう。あなたはもう少し、エミリア・バートンのそばにいて。わかった?
「はい、了解しました。……ルークは?」
―ルークは、案の定ダウンしているわ。……しばらくは復帰できないと思う。どうぞ。
「わかりました。彼は休ませておきましょう。」そう言うと、アインはジーナとの通信を終了した。




