第71話:レディグレイ
「さぁ、どうぞ?上がって。」ヨナスはマンションのドアを開けながら期待したような瞳をエミリアへ向けた。
「あ、はい!……お邪魔します。」エミリアは若干緊張しながら、ヨナスが開けてくれたドアをくぐろうとした。
ヨナスに誘われたときは、作業場という言い方も相まって、もっと雑然とした場所だとなんとなく思っていた。しかし実際に連れられてきた場所は、外から見てもソルティノースにある住宅街のそれとは違い、かなり高級住宅のそれに見える。しかもドアの向こう側に見えている部屋は、やけに上質な内装に見えた。
「あ、あの!ここでお仕事、されてるんですか?」エミリアは、少し気後れしながらヨナスに尋ねる。
踏み込んだリビングはブルーグレーの落ち着いた壁紙に、白木を模したフローリング、ホワイトで統一された家具が申し訳程度に配置されていた。後ろにあるキッチンも同様で、必要なものは一通りあるようだが、いまいちこだわりが見えてこない。妙な既視感を覚えて少し考えた後、デザイナーズルームの感覚なのだ、とエミリアは気づいた。
「うん。……といっても、ほとんど人を呼ぶだけの部屋なんだ。」ヨナスは玄関のドアをゆっくりと閉めた。
「さぁ、座って?すぐにお茶を入れるよ。」そのままリビングのテーブルを指さし、エミリアに座るよう促す。
「あ、はい。ありがとうございます。」エミリアはコートを軽くはたいて脱いだ後、膝の上に抱え込むようにして椅子に座る。
テーブルを触ると、柔らかな木のぬくもりがして、傷をつけないか、ほんの少しだけぞっとした。心なしか、同じ木の椅子の座面も少し柔らかいような気がする。自分の家ではないのだが、アインの家で使っている椅子の硬さを思えば、この家具のセットが庶民のそれではないことぐらい想像がつく。
―カチリ
ヨナスが鍵を閉める音がした。彼は玄関扉の近くに買い物袋を置き、そわそわとして中々落ち着かないエミリアの方へ近づく。
「コート、もらうよ?」
「ありがとうございます。」にこりと微笑んで手を差し出したヨナスに、エミリアはコートを差し出した。
ヨナスは玄関近くにあるコートハンガーにエミリアのコートを掛け、そのまま自分のコートも一緒に掛けた。
「あの、ここってなんか、すごい……ですよね?セントラルスクエアだからでしょうか。」失礼にならないかとは思ったが、エミリアは気になったことを質問してみた。
ヨナスは「うーん」と首をかしげながらキッチンへと移動し、棚から取ったケトルに水を入れる。水の音だけが続いた後、ヨナスはそのケトルをコンロに置いて火をつけた。
ヨナスの作業部屋は、セントラルスクエアのメインストリートからは遠ざかるものの、確かにそこまで離れていなかった。周りには同じように造りのしっかりしたマンションが立ち並んでおり、この部屋はさらにエレベータで5階にあがったところにあった。
「まぁ、そうかもね。セントラルスクエアだし……。そういえば、君はどのあたりに住んでるの?」ヨナスはティーカップにお湯を注ぎながらそう言った。
「えっと、私はソルティノースに……。」エミリアは少しためらいがちに答える。
「なるほど、それは大変だ。いろいろと不便じゃないかい?」ヨナスは使い終わったケトルをコンロに置くと、食器棚とは別の戸棚からおしゃれな缶を取り出した。
缶からクッキーをいくつか取り出してお皿に並べた後で、さらに冷蔵庫からお皿に乗ったフィナンシェやマドレーヌを取り出す。フィナンシェは少し温め直すようで、棚にある電子レンジへと入れていた。
「大変……?どこがですか?」エミリアが聞き返すと、ヨナスは軽くエミリアに顔を向けた。
「なんていうか、庶民的だろ。あそこはすごく。」
「行ったことがありますか?」
「うん……、少しね。……はいどうぞ。」ヨナスはまだティーバッグが入った状態のティーカップをエミリアの前に置き、自分の席にも順番に置く。
「ありがとう、ございます。」エミリアはヨナスの態度に思うところがありつつも、いただいた紅茶を手に取った。
白い陶器のようなカップからはほのかに湯気が立っており、柑橘系と思しき爽やかな香りが漂ってくる。紅茶の中には果物の皮や小さな青い花のようなものが漂っていて、見た目もすごく華やかだった。
「レディグレイって言うんだよ。……きれいでしょ?」ヨナスはきれいにお茶菓子の並んだ皿をテーブルに置き、エミリアの前で紅茶を飲んだ。
「はい……。とてもいい香りですね。柑橘類ですか?」紅茶の香りのせいか、エミリアは少しぼんやりしたような気持ちになる。
「そう、ベルガモットが入ってるんだよ……。僕のお気に入りの銘柄さ。」ヨナスは立ったままで優雅にカップを傾ける。
「それで、君はどうしてこの街に来たの?」ヨナスはエミリアの前の椅子に座り、軽く足を組んで問いかける。
「ほら、君も飲みなよ……。冷めちゃうよ?」彼の言葉に促されるように、エミリアはカップに口を付けた。
口に含んだ紅茶からは、さわやかな柑橘の味がした。いつも飲んでいるアールグレイに近い気がしたが、この紅茶には渋みがあまり感じられない。飲み込むと、鼻にふわっと抜ける爽やかな香りと、喉をするりと抜けるような味わいが心地いい。
「ほんとだ……。すごく飲みやすくて、おいしいです。」
「……そうでしょ?それで、君はなんでこの街に来たの?君の管理用IDカードはランクEx。つまり、外からの来訪者であって市民ではない。……それが何でなのか、ずっと気になっていたんだよ。」ヨナスの問いに、彼がいつ自分のIDカードを見たのか疑問に思ったエミリアだったが、なぜかどうにも頭が回らなかった。
「えっと……、それは私が、教師だから……。」
「教師?」エミリアの口から漏れた言葉に、ヨナスは興味深そうな視線を投げる。
「それは、どうして?」彼は再び紅茶を飲み、エミリアの方へと体を寄せた。
「Liberty Moon連合から、正式な推薦をもらったんです。」深く考える前に、エミリアは素直に返答した。
「ふーん……。あのじじぃども、一体どんな風の吹き回しなんだ?」唇に手を当てながらヨナスは言った。
「それはどういう?」
「何でもないよ。」ヨナスはクッキーを一口かじると、再び紅茶を口に含んだ。
「ほら、君も食べるといいよ。……昼前でお腹もすいてるだろ?」ヨナスはお茶菓子の皿をエミリアの近くへ軽く押した。
「ありがとうございます。……でもなんでそんなことが気になるんですか?」エミリアはマドレーヌを手に取りながら質問した。
温め直したとはいえ、しっとりとしたマドレーヌはほんのりとバターの香りがしている。口に運んで一口かじると、舌触りの滑らかな生地から焼き菓子の香ばしい味がした。
「美味しいでしょ?行きつけのお菓子屋さんで買ってるんだ。」エミリアを見つめているヨナスは、とても気分がよさそうだ。
「はい、でも本当に、私の体験とは何もかもが違うんですよね。」
「……それはどういうことだい?」ヨナスは少し驚いたようだった。
「なんていうか、上手く言えないんですけど。」エミリアはマドレーヌを食べきると、紅茶をさらに一口飲んだ。
柑橘類の爽やかな香りに、近くにいるヨナスの柔らかな香水の匂いが溶けている。今やヨナスの体はエミリアのすぐそばにあり、少し指を伸ばせば触れられるくらいの距離にいる。
「どうして……、この街はこんなにも差が激しいの?」近くて遠い、何かぼんやりとした感覚を覚えながらも、エミリアはずっと思っていた言葉を吐きだした。




