SS9:Night Shade
苦しみと救済の在処
第1部第2章第47話裏のお話です
※自傷あり
治安管理局・月影ビル19F、戦術セクション所属者のために用意された宿舎の一室が、ルーク・シュナイダーとジーク・シュナイダーの自室になっていた。ルークはまたいつもの発作に襲われ、シャワールームでしゃがみ込んでいる。
「はぁ、はぁ……。」
今日は新チーム・レオン隊の発足に加え、切り裂き娼婦スラッシャーの事件に関する調査のために、1日中動き回ったあとだった。目を閉じようにも瞼の裏ではパージウェストで見た現場や遺体の映像が際限なく流れ、目を開けば瞳孔に直接光が突き刺さる。
「おぇ……。」ゲホゲホと咳をしながら、ルークは何度目かわからない嗚咽をこぼした。
EVCの影響だ。頭ではそう分かっているはずなのに、喉の奥から迫り上がってくる不快感は、何度味わったところで慣れたりはしない。まただ。こめかみで血管がどくどくと暴れるたびに、無数の映像と声と感情が押し寄せ、色とりどりの光が瞬く。
「くっ……。」ルークは叫び出さないように必死に唇を噛み締めながら、その自分のものだけではない情報の波に流されないよう、両手が痛くなるほど洗面台の縁にしがみついていた。
「ぐ、う……。」心臓が破裂しそうなほどバクバクと鳴って、痛みに片手で胸を抑えた。
うまく呼吸ができないし、頭も痛い。いつものことではあるものの、頻繁に起きてはうんざりもする。ルークはどうにか頭痛だけでも収まるようにと、冷たい陶器に額をぐりぐり押し付けた。
しかし、次第に瞳の焦点が合わなくなり、痙攣するように見開かれた目からは涙が流れる。膝をつき、どうにかこうにか体を支え、自分の頭をガンガンと打ちつけながらルークは必死に耐えていた。
早くどうにかしなくては。ジークが心配しているかもしれない、とルークは混乱する頭の中で考えつつ、近場にあるはずのカミソリの方へと手を伸ばした。なかなか手が対象に届かない。どうにか目で見つけ出そうとするものの、明かりすらつけられていない脱衣所の中では、焦点の合わない両目はなかなか機能してくれなかった。
いつもなら、これがいつものやつだったなら、ほんの少し腕を切れば楽になれる。そんな打算的な感情をルークは抱え、手で空間を弄りながらカミソリを探す。
「あっ……。はぁ。」ルークの指先にチクリと痛みが走る。
間違って刃物の部分に触ってしまったらしいと気づいたものの、どうせやることは同じだとルークは思った。右手の指先から手首にかけて、ゆっくりと液体の滑る感覚がする。そこに意識を集中させると、少しだけ気分が良くなった。
今度はうまく、指先で挟むようにしてカミソリを抜くと、ルークは自分の手首の方へと持っていく。すでに指からは少なくない量の血が流れ、カミソリの持ち手がぬるりと滑る。
「いっ……。」落ちたカミソリが、洗面台の底にあたってカシャリと音を立てた。
手首が痛む。バクン、バクンとゆっくりになった心臓の鼓動に合わせて、傷の在処がジンジンと痛んだ。はぁ、はぁと大きく口を開けて呼吸をすると、掠れた喉から、やっと肺の方まで流れ込んできた空気の冷たさに、ルークはようやくホッとした。
ジークは携帯端末を握りながら、すっと目を細めて脱衣所の扉を見つめている。耳元から下ろされたその端末には、どこかへとコールした後の画面が表示されている。扉の向こうからは先ほどまで数十分の間、ルークの押し殺したような啜り泣きが聞こえていた。今はもうほとんど何も聞こえてこないが、ジークは扉の向こうから聞こえてくる音によって、その向こうの状況を大体は把握していた。
ルークの発作は今に始まったことではない。2人がまだ小さく、生家で両親と暮らしていた頃から、ルークはたびたび同じような発作を起こしていた。元々ルークは人の感情に敏感なやつだった。自分に向けられる眼差しや他人の言葉によく反応しては、身を縮こまらせる。最初は両親もジークも、単に繊細なだけだと思っていた。
しかし、それでは説明のつかないことが次第に増えていくのをジークは見ていた。別室にいる両親の話し声、隣の家の子供がプレゼントをもらって喜んでいる声、500mも離れた場所で起きている夫婦喧嘩まで、ルークは拾うようになっていく。
そうして拾ったものを処理しきれずに、ルークは夜になると発作を起こした。誰も理解できないそれを、ルークは誰もいない場所で耐えようとする。その様子を近くで見ていて、ジークはルークに近づくものを、必死で遠ざけようとした。
昨年、ジークとルークはLiberty Moon連合の軍から追い出されるように月影へと配属された。2人を迎えたのは局長のレオン・クラッドと戦術セクションのサブリーダー、そして局長補佐になったばかりのアイン・ザードだ。
サブリーダーは問題児と名高かったルークとジークに対して、何も言わなかったがあからさまに嫌そうな顔をした。レオンは一瞬険しそうに眉を顰めたものの、すぐにその立場にはそぐわないくらい穏やかな顔で頷いた。アインの表情は今と変わらずよくわからない。
ーコンコンコンコン
「入ってもいいか。」部屋の扉を叩く音とともに聞き慣れた声がして、ジークは思わず舌打ちをした。
「あぁ。」もしかしたら今この場の状況を察したかもしれない、とジークは思った。
脱衣所の扉の向こうは途端に静かになって、押し殺すような啜り泣きに変わってしまった。ジークの返事の後、部屋に入ってきたのは局長レオンともう1人。白衣姿にメガネをかけ、階級章には白い3本線の入った生真面目そうな男が一緒だった。
「こんにちは、医療セクション長のバークレイ・エヴァンスです。……弟さんは、どちらに?」バークレイは左手に大きめのケースのようなものを持ち、メガネの位置を僅かに直してそう言った。
「……。」ジークは無言で脱衣所の方を目で示す。
「なるほど。」そう言ってバークレイは、ジークの横を通り抜け、脱衣所の扉を軽くノックした。
「ルークくん?いらっしゃいますか?……失礼しますよ。」バークレイはドアノブを握り、扉を開ける。
扉の向こう、脱衣所にある洗面台の前では、蹲っているルークの影。流石に嗚咽は止まったようだが、ルークは部屋着のままで、まだ小刻みに肩を震わせて泣いている。
そのルークがこちらに気付き、ゆっくりと顔を上げた。目は大きく見開かれて充血し、カサカサに乾いた唇は、噛み締めたのかうっすらと血が滲んでいる有様だった。しかし、何より酷かったのは。
「これは!?いけません、すぐ止血しないと。」そういうとバークレイは、急いで手に持っていた医療ボックスを開き始めた。
「手伝おう。」そう言うとレオンもまた、脱衣所の中へと入っていく。
「お願いします。……体を支えてくれますか。」
ジークはその一部始終から目を逸らすように脱衣所を出た。酷い量の血が床を汚しており、その中で、怯えたような目で3人を見ているルークの顔が、ジークの目に焼きついて離れない。そうしてジークは、入り口近くの壁に背中を預け、全てが終わるのを待っていた。
「ふぅ……、なんとか血は止まりましたね。……全く、もう少し遅かったら大変でしたよ。」一通りことが終わった後、バークレイのやれやれと言いたそうな声がジークに聞こえた。
ルークはEVCホルダー用の鎮静剤を投与され、バークレイに抱えられてすやすやと寝ている。その左手には何重にも巻かれた包帯が見え、ジークは人知れず唇を噛んだ。
「はぁ、血の量に対して傷はそこまで深くはありませんでした。深かったら縫わないといけないのですが、現状は止血のみで問題ありません。」バークレイが、少し小さな声でレオンに対して報告している。
「そうか……。」レオンは特に言葉を発しなかったが、その深く吐き出されたため息の中に、安堵の気持ちが少なからず混ざっていることは、ジークですらも理解できるほど明らかだった。
「ジークくん、そこにいますね?もし明日、ルークくんの傷が開くようなことがあれば、即刻私を呼んでください。……いいですね?」バークレイがジークに念を押す。
「あぁ……。」ジークは返事をして初めて、自分の喉が掠れていることに気がついた。
「ありがとう、バークレイ。……助かった。」
「いいえ、構いませんよ。……仕事ですから。」まだ俯いているジークの耳に、レオンとバークレイのやりとりが聞こえる。
「ただ、EVC用の定期検診を早めましょう。明日、2時間くらい空きを作って医療セクションに来てください。傷の治療と、EVC用の検診をします。」バークレイはそう言うと、医療ボックスの中身を片付けて帰って行った。
「ジーク、よく連絡をしてくれた。」レオンの声に、ジークはびくりと肩を振るわせる。
「俺は、俺はまだ、あんたを信用したわけじゃない。」
「あぁ……、良くわかっている。」レオンはジークの言葉にも穏やかに微笑むと、ルークを横向きに抱えたまま、左右のどちらがルークのベッドかをジークに尋ねた。
「左。」ジークの言葉にレオンは頷き、柔らかいものでも運ぶかのように、そっとベッドにルークを下ろす。
「今日は君も、もう寝なさい。明日は1日非番のはずだ。捜査のことは一時的にアインに任せて、君たちは休息と治療に時間を使うように。」ジークが小さく頷いたのを確認すると、レオンはジークの肩を軽く叩いて出て行った。
ジークがルークのベッドに近づくと、先ほどとは違い、落ち着いた表情で深く眠っている双子の弟がそこにいた。ジークはふっと小さくため息をつき、レオンの言う通り、自分もさっさと寝ようと思った。
ジークは最後に、弟の柔らかい髪を軽く撫でると、着ていたユニフォームを適当に脱ぎ、その辺にあった部屋着のズボンだけを引っ掛けるように足を通して、反対側にある自分のベッドへと潜り込む。
EVC――Extra-Visual Cognition(拡張視覚認知)。それがルークを苦しめているものの元凶であることを知ったのは、2人が月影に来た後のことだった。ジークはスイッチで電気を消すと、自分の肌に触れる掛布を思いっきり引っ張り、ルークの寝息に耳をそばだてながら眠りについた。
あともう1本、サブストーリーがあります。
もうしばらくお付き合いいただけますと幸いです。




