第55話:苦戦の中の
冷たい風が吹くとともに、エレ・ザードの結んでいた長髪が解けて揺れた。何度か互いに攻撃を繰り返すうちに、相手のナタの斬撃によって髪ゴムが切れたらしい、とエレは思った。濡れて重たくなっていた髪もすでに乾いてしまい、シャワーを浴びたばかりの体も、潮風を浴びてベタついている。
キリキリとした心臓の痛みを堪えながらも、久々に遭遇した生命の危機と言うやつに、嫌な昂りを感じてしまう。さらに切られた左腿と右腕も、頬と同じように血が流れている。しかし、相手にはまだ致命的な一撃を与えられていないことに、エレは不安と焦りを感じてもいた。
「はぁ、あんた、長居はしたくないんじゃないの?」エレはまだ目の前で余裕そうに立っているスラッシャーに対して、強がりにも似た言葉を発した。
「あは……、そうねぇ……。」スラッシャーはまだしぶとく折れないでいるヒールのつま先で、地面をグリグリと抉るように削った。
「そうなんだけど、少し予定が変わったわ。……どうせこの辺りに手出しできる奴なんかいやしないんだし、一人くらい殺ってからにしたって、別に文句なんか言われないでしょ?」
「はぁ?」エレはスラッシャーの言っていることが理解できずに眉根を寄せた。
「あは、つまり……、あんたを殺してからでもいいかなってこと!!」スラッシャーは再び地面を大きく蹴ると、右手に持っていたナタを両手に持ち直して振り上げた。
「!!」エレは驚きながらも少し後ろに引いて回避をし、ついで左腕の方から返すように振り下ろされるナタの刃を、頭を低くしてやり過ごす。
先ほどまでよりもさらに速く繰り出される連撃に、エレは足の重たさを感じながらもなんとか二連三連とやり過ごす。そのままジリジリと後退する様に回避を続け、ほぼ真水平に振り切られたナタを交わした後、地面に手をついて踏み込み、相手の懐へと飛び込むと、そのままの勢いで右足を蹴り上げた。
ーバキッ
顎に喰らわせた一撃で、女が大きく仰け反ったのを確認しながら、返しの反撃に注意しつつ右足を引き、左足を軸として回転した勢いで、今度は女の腹部に踵を入れる。少し浅いかとは思ったものの、スラッシャーは想定以上によろめきながら後ろへ下がった。
ドシャっと吐き出す音が聞こえて、女が目の前で血を吐き出した。そのまま咽せるようにゲホゲホと咳き込んだ後、手の甲で口を拭うと、なおもスラッシャーは強気な顔でエレを睨んだ。
「ゴホッ……、はぁ、今のは流石に、痛かったわよ?」スラッシャーはすでに肩で息をしているように見えるが、それでも倒れるほどではなかったことを、エレは素直に悔やんでいた。
しかし、すぐに頭を振って雑念を追い払うと、目の前の敵に視線を定める。再び踏み込んで追撃しようと試みるも、スラッシャーもまた、呼吸の荒いエレの様子を見て、エレの限界が近いことに気がついたようだった。スラッシャーは髪をかき上げながらゆらゆらとエレの方へ近づき、今度はナタではなく右足を軽く振り上げ、目の前の少女の体を蹴飛ばす。
「エレさん!!」少し遠くの方に聞こえるエミリア・バートンの声に、キーンとつんざくような耳鳴りが重なった。
蹴られた箇所と、転がって擦れた体に痛みを感じながらも、エレはどうにか体を起こす。近づいてくる女の赤いドレスが空間ごと歪み、何度も頭の中で耳鳴りがする。どうしよう、とエレは唇を噛んでわなわなと震えた。
「あはっ!あんたも流石に限界ってわけね?」スラッシャーがナタを振りながら近づいてくる。
「はぁ、くっ。」力を振り絞って片膝を立てたはいいものの、立ち上がるほどの力はなかった。
「全く、子供のくせに……、大したものね。こんなに手こずったのは初めてよ?」目の前までやってきたスラッシャーが、大きくナタを振りかぶってニヤリと笑う。
「それじゃ、まずはあなたから殺ってあげるわ?」
大ぶりのナタは街灯の下で不気味に光り、エレは自分の震える肩を抱きながら、半月のように歪むその赤い瞳をキッと睨んだ。
「待って!!」
ードスン
今にもナタが振り下ろされようという時、何かがエレを突き飛ばし、そのままごろごろと転がった。土埃の中で瞳を開けると、目の前には自分を抱きしめるようにエミリアがいる。
「あ……、どうして。」エレが掠れた声を振り絞ると、エミリアはぎこちなく笑ってエレの頭を軽く撫でる。
「ちょっと!!2人とも!?お願いだから、どうにかして!?」ディウの声に、エミリアが急いで起き上がる。
「クソ、あんた!……離しなさいよ!!」ついでスラッシャーの声も聞こえ、エレが後ろを振り返ると、ナタを持って暴れる女と、女を後ろから抱きしめる形で動きを止めようとしているディウがいた。
「ディウくん!?」エミリアが立ち上がって叫ぶ。
同年代の子たちの中では、ディウは体格も良くて身長も大きい方だった。しかし、高いヒールを履いているとはいえ、スラッシャーの身長にはまだ追いついていない。
「くそ!力強すぎ!!」ディウは腕を振り回して抵抗するスラッシャーに、必死でしがみついている。
「あ、ど、どうしましょう!!……あの、もう少しでアインさんがくるみたいなので!!もう少し頑張れますか!?」
「わかってるけど!!無茶言わないで!?」焦ったようなエミリアの言葉に、ディウも息を切らせながら言い返す。
「あぁあああああ!!もう!!鬱陶しい!!」女が左膝をあげたかと思うと、そのままディウの足の甲へと、ヒールの踵を突き立てる。
「いっだぁ!?」ディウはスニーカーを突き抜けてくる痛みに耐えかねて、思わずスラッシャーから腕を離した。
ードサッ
「いっ……!!」後ろへと倒れる時に、ディウはスラッシャーの肘を腹部に受け、打ちつけた腰の痛みと腹部の痛みで咳き込んでしまう。
「ゲホッ。」
「ディウくん危ない!!」エミリアの叫び声が聞こえ、ハッとしたディウが慌てて振り向くと、街灯の光を遮るようにして覆い被さってくる女の影が目の前にあった。
ーパァン
突如として響いた破裂音のあと、目の前にあった女の影が、一度右側に大きく揺れた。そのあとさらにもう一度破裂音が響き、女の足が大きく崩れる。女はそのまま体勢を低くして、一度は倒れ込むかと思ったが、そのまま右腕を引き、音のした方へと大きく振った。
ーガコン!!
一連のスローモーションのような出来事のあと、ディウは思わず目を瞑った。
「ディウくん!?大丈夫ですか!?」エミリアが声をかけると、ディウは眩しそうにゆっくりと目を開けた。
「あ……、せんせ……、エミリアさん。」ディウが掠れた声を発するのを聞いて、エミリアは心の底から安堵した。
「はぁ……、よかった……。」
ディウは地面に倒れ込んだままだが、目立った怪我はなさそうだ。そう思うとエミリアは、思わずその場に座り込む。脳裏には先ほど目の前で繰り広げられていた光景がフラッシュバックした。
ディウを弾き飛ばし、くるりと背を向けた赤いドレスの女が、大きくナタを振りかざす。「ディウくん!!危ない!!」と叫びながら、エミリアは彼のいる方へと必死に手を伸ばした。突如として大きな音が響き渡り、女の手から血が飛んだ。その次は女の足だった。
女は何かを大きな声で叫び、持っていたナタをどこかへ飛ばす。ガコンと何かがぶつかるような音に、エミリアがナタの飛んで行った方へと顔を向けると、そこにはバイクにまたがり銃を構えた、アイン・ザードの姿があった。
「エミリアさん……、大丈夫ですか。」ハッと顔をあげると、アインが屈んでこちらを見ている。
先ほどまではゴーグルを掛けていて見えなかった瞳が、今は心配そうな色を帯びていた。彼はそのまま目を細めると、何かをいいたそうにして口をつぐむ。
「あ……。」喉が詰まったように言葉が出ずに、エミリアはぐっと唾を飲み込んだ。
「はい……、大丈夫です。」右手で耳に髪をかけると、エミリアは思わず唇を噛んだ。
そのまま深く息を吐きだすと、エレやディウのことが心配になって、エミリアは立ちあがろうとする。しかし、浮かせようにも上手く腰が持ち上がらないことに気づき、エミリアはかぁっと頬をあからめた。
「あの……すみません、手をかしていただけないでしょうか。……その、少し腰が抜けてしまったみたいで。」
「……はい。わかりました。」アインはエミリアに手を貸すと、ためらうように彼女の腰に手を添えた。
「ありがとうございます……、アインさん。」引き攣っていないか心配しながらエミリアが微笑むと、アインのその青みがかった黒色の目が、苦しそうに歪んだ気がした。




