第51話:Disturbing Gossip
エミリアたちが病院を後にして、オールドサウスとセントラルスクエアの境界付近にある停留所からトラム(路面電車)に乗る頃には、もうお昼をかなり過ぎていた。まだ雨は降っていないが、今にも落ちてきそうなほど重たい雲が、街の上にのしかかっているようだ。
トラムは、古めかしいデザインのレンガの家や石敷きの道、海の近い街らしい針葉樹林の並木をゆっくりと通っていき、緩やかにカーブした線路上を走って、セントラルスクエアの中心部へと向かっている。
途中で何度か乗客が入れ替わるも、車内で窓の外を眺めながら座っている人や、吊り革を掴んで小声で談笑しているオフィスレディたちは、金曜日の仕事終わりに浮ついた気持ちでいるように見えた。
「ねぇ、このまま一度マスカレイドに寄ってもいい?」エミリアの隣に座っているエレが、小声で尋ねた。
「そうですね……、私は大丈夫ですが、ディウくんは疲れたりしてませんか?カワセミさんは?」
「え?うん、俺は大丈夫〜。ってかカワセミさんも大丈夫っしょ。セントラルスクエアに住んでんだし。」ねぇ?とディウがカワセミに振る。
「……平気。」カワセミは吊り革に掴まって、立ったままそう言った。
確かにいつもマスカレイドにいるなぁ、とエミリアは思い出したが、ディウの言葉を聞いて、それでなのかと納得していた。カワセミはぼんやりとした目で窓の外を眺めていたが、時折激しくトラムが揺れる中でも、ほとんど姿勢を崩すことなく立っている。
「カワセミさん、さっきは何をみてたんですか?」オールドサウスの廃図書館を後にした直後に、少し後ろで立ち止まっていたカワセミにエミリアが尋ねた。
「なんでもない。……少し嫌な気がしただけ。」カワセミはそう一言言っただけで、詳しい説明はしなかった。
「本当に何もなかったんですか?」トラムに揺られながら、改めてエミリアが確認すると、カワセミはこちらを一瞥して首を傾げた。
「何かはいたかもしれないけど、それがなんだったのかはわからない。……嫌な気はしたけど、殺気ではなかった。……動物である可能性も捨てきれない。」
「そうですか。」
「殺意ではないなら危なくはないんじゃない?」ディウがカワセミの説明を補うようにそう言った。
「そこまでは流石に、なんとも言えない。」カワセミはそう言うと、再びぼんやりと窓の外を見つめている。
カワセミはいつもはっきりとものを言うので、そんなふうに言葉を濁したことが、エミリアには少しだけ気がかりだった。
「まぁ、何かはいてもおかしくないよね。……パージウェストほどじゃないにしても、あそこはちょっとよくない人も多いしね。」ディウが小声でそう言った。
「エミリアさん、パージウェストだけは行っちゃダメだよ?……あそこは流石に危険だからね。」
「わ、わかりました!」エミリアはディウの有無を言わせぬようなもの言いに、ドキッとしながら返事をした。
パージウェスト……。その言葉を聞いてエミリアは、この街のマップでグレー表示になっていた場所が二つあったことを思い出した。そのうちの一つがさっきまでいたオールドサウスなのだから、後一つがパージウェストか。位置的にはセントラルスクエアの西側だったかな。そんなことをエミリアが考えているうちに、トラムはセントラルスクエア中央部の停留所へと到着する。
「エミリアさん!早く降りよう?」物思いに耽るエミリアを、エレがぐいっと手を引いて立ち上がらせると、一緒に急いで下り口へと向かった。
「あ、そうですね!ありがとうございます!……今降ります!」エミリアはエレにお礼を言いながら、急いでIDをかざしてトラムを降りる。
エミリアとエレがトラムを降りると同時に、トラムはまたゆっくりと発車した。あたりを見回すと、ディウが停留所の横で手をあげた。当然カワセミもすぐ横に立っている。
「ごめんなさい!考え事をしてしまって!」
「いいよいいよ。行っちゃうかと思って心配したけど、ね?」焦って謝るエミリアに対して、ディウはあっけらかんとしてOKサインをして見せた。
「いらっしゃいませ。……おや?珍しい組み合わせですね。」停留所から移動して、カフェ&バー・マスカレイドの店内に入ると、マスターのリンドウが出迎えた。
リンドウは事情を知っているはずだが、ニヤリと笑った口元からは、彼が冗談を言って揶揄っているのだと伺えた。何度見てもそのすらっとした立ち姿の青年は美しく、一つに結い上げられた青紫の長髪が、彼の後ろで優雅に揺れているのをエミリアは見ていた。
「えっと、お疲れ様です!リンドウさん。」エミリアが挨拶をするとリンドウはまたニコリと微笑む。
「今日は、どうされました?」またいつものように、白髪のウェイトレスが案内してくれたカウンター席にエミリアたちが座ると、リンドウが水のグラスを差し出して言った。
「あの。」エミリアがエレを見るより先に、被せるようにエレが答えた。
「あのね!ちょっと小腹が空いちゃって寄りたくなったの!……何日か来れなかったし!」
「あぁ、確かにそうですね。」ふふふと笑いながらリンドウが言った。
「実はね、ちょうどさっき焼いたマドレーヌがあるんですよ?おやつ用ですが、よかったら一緒にどうですか?」リンドウの差し出したお皿には、綺麗にしっとりと焼き上げられたマドレーヌが乗っている。
少し重たいバターの風味がほんのりと香り、エミリアのお腹が思わず鳴った。「あっ!」と思わずお腹を抑えると、「すげぇ鳴ったね。」とディウが笑った。
「今から紅茶も淹れますね。……ディウとエレはオレンジジュースがいいかい?」
「あ、俺も今日は紅茶で〜。」
「私も!」リンドウの問いかけに対し、ディウとエレは口々に答えた。
「わかりました。では今日はミルクが似合うアッサムにしましょうかね。……ミルク、入りますか?」
「あ、はい!お願いします。」エミリアに続いて、エレもミルクが欲しいと言った。
ディウは「俺はストレートが良いな!」と言ったので、リンドウは「ストレートならアールグレイが良いですね。」とさらりと言った。
リンドウが紅茶を淹れている間にマドレーヌのお皿を見ると、半分はオーソドックスな色合いのものであるのに対し、もう半分には何か粒のようなものが混ざっているのが見えた。一つを手にとって匂いを嗅ぐと、僅かに酸味のある柑橘系のような匂いがする。
「あ、これ、マーマレードですね?」
「そうなんです。よく気づきましたね。……カナリアさんもこちらへどうぞ。少し休憩にしましょうか。」リンドウは手際よく紅茶を淹れながら、白髪のウェイトレスに向かって声をかけた。
「……でさ、ほら、最近また切り裂き娼婦が。」エミリアの耳に、他のテーブルの会話がちらほらと聞こえてくる。
「最近物騒だよねぇ。……あ、いつもか。」
「ほんとやめてよぉ〜。その通りだけどさぁ。」エミリアたちからは少し離れたテーブル席の女性の声に耳を澄ませながら、エミリアはマーマレード入りのマドレーヌを一口かじった。
しっとりとした焼き菓子の食感に加えて、爽やかな酸味が口内に広がり、エミリアは思わず「美味しい」と呟いた。バターで湿った唇を舐めると、さらに強く甘さが感じられるような気がする。
「でも客の男しか狙わないんでしょ?なら大丈夫じゃん?」
「そうらしいね。……でも、女性の死体も見つかってるって聞いたけど。」
「え、やだ、こわぁい。」言葉とは裏腹に、彼女たちはくすくすと笑いながら話のネタを楽しんでいるように聞こえた。
「エミリアさん?どうかしましたか?」ちょうどリンドウがエミリアの前に紅茶を差し出しているところだった。
「あ、すみません!……ありがとうございます。」
「どういたしまして。」リンドウはそう言うと、軽く手を拭いてから自分のカップに口をつける。
すでにみんなの前にも紅茶とミルクが置かれているのを見て、エミリアは少しだけ恥ずかしくなり、急いでミルクを淹れてかき混ぜ、その温かいミルクティーを一口飲み込む。アッサムのミルクティーが、喉に残った重みをさらりと流していくが、エミリアにはそれが、ただのマドレーヌの苦味だけではないように感じた。




