The Midnight Ghost
ライター戦のその後
第1部第1章ep25~ep26の間のサブストーリです
「帰る。後はよろしく。」カワセミは力の入らない右腕を押さえながら、無線を通してアインに告げた。
燃え盛る火の向こう側に、標的の気配がなくなったからだ。正しくは、逃げられた、と言うべきか。しかしカワセミにとってはもうどちらでも構わなかった。いないのであれば、仕事は終わりだ。ひとまず今日は。そうして現場に背を向ける。後のことはあのタグ付きのスナイパーがなんとかするだろう、とカワセミは思った。
「はぁ……めんどくさい。」カワセミは喉から息を吐き出して、右腕を押さえていた手をスッと離した。
なぜ押さえていたのかと考えていると、指先に、何か液体の滴るような感覚がして違和感を覚える。あぁそうだった、と思い出しはしたものの、カワセミにはそれ以上何かをする気は特に起きなかった。
右手に握っていたナイフを太もものホルスターに差し込むと、カワセミは自分の家への道を辿って歩き始めた。炎を直に見たせいか、まだ視界の中央で光が踊っているように見える。珍しく月のない暗い夜だというのに鬱陶しい、とカワセミは僅かに顔を顰めた。
「はぁ……、ふぅ。」ぐっと喉を鳴らして唾を飲み込む。
心臓の鼓動が早く、咽せそうになって咳が出る。薄い皮膚がピリピリと震えるような感触に、カワセミの歩幅が狭くなる。あぁ、そうだ、といつものルーティンを忘れていたことを思い出し、右手で携帯端末を取り出そうとして、そのまま地面に落としてしまった。
「チッ……。」苛立ちからか思わず舌打ちをしてしまい、カワセミは「はぁ」とめんどくさそうに髪に触った。
苛立ちすらも煩わしい。そう思いながらも、カワセミは左手で端末を拾い上げ、リンドウのアドレスである「R」の番号へとコールする。
―ピッ
「カワセミくん、リンドウです。終わりましたか?」1コールも待たずに通話越しにリンドウが現れる。
「……あぁ、終わった。……でも取り逃した。傷は与えたけど……はぁ、致命傷は与えきれなかった。」カワセミは短く息を吐き出しながら報告をした。
「……あなた、大丈夫ですか?呼吸が苦しそうですよ。」リンドウが一段声を低くしてカワセミに問いかける。
「……?いや、特に、何も。」カワセミはいつもより浅い呼吸を繰り返している自覚はあったが、大したことはないと思っていたので否定した。
「……そうですか。いえ、構いません。カワセミくん、あなたそのまま帰れますか?……迎えに行きましょうか。」カワセミにはリンドウが、いつも以上の世話焼きに見えていたが、特に助けは必要ないとカワセミは判断した。
「……問題ない。一人で帰れる。……今日の仕事は、終わりでいい?」カワセミは霞む目をこすりながらリンドウに伝えた。
「はい。問題ありません。……ふむ、しかし……。いえ、とにかく、気をつけて帰ってくださいね。」一瞬何かを考え込んでいる様子のリンドウだったが、それ以上は何も言わずに通話を切った。
その後のことをカワセミはよく覚えていなかった。気がついたら貧相な裏路地のアパートに辿り着き、端末のキー認証でドアを開け、部屋の中へと立っていた。ゼェゼェと呼吸の漏れる音がする。ジャケットコートを脱いで適当な場所に放り投げ、ブラックアウト寸前の視界のままベッドの上に身を投げる。
「う……はぁ。」カワセミは右腕を上にして横になり、手足を丸めて目を閉じる。
体温が内にこもって鬱陶しい。呼吸を繰り返すたびに胸が上下し、鼓動が鼓膜に響くほど大きく鳴っている。しばらくそうしていると、どこかで端末の震える音がした。バイブレーションだ。誰かから通話が来たらしい。そうは思っても、端末をどこに放り投げたかを思案するのも煩わしく、カワセミは意識を手放した。
―ガチャ……ウィーン、カチッ
ドアが開錠された音がする。ドアの前の気配はリンドウと、もう二人。そもそも自分以外に鍵を開けられるのはリンドウだけだが、一緒によく知らない気配があるため、カワセミの体は自然と硬直して身構えた。
無意識に、右腿のホルスターにナイフがあることを確認し、小さく息を吐く。一体何の用だろうか。自分は少し眠っていたらしいが、リンドウは店の準備があるのではないか、とカワセミはぼんやりと疑問に思った。
「カワセミくん、入りますよ。」やはりリンドウの声がしたが、カワセミは軽く唾を飲み込んだだけで、特に返答はしなかった。
「……どうぞ、お入りください。」リンドウは廊下にいた誰かを招き入れたようだ。
「……はぁ、またこりゃひでぇな……。」声の主は、部屋の中央あたりで立ち止まると、わざとらしくため息をついている。
「ええ、まぁ、ここまでだとは思いませんでした。……彼、自分の状態を全く説明しないので……悪く見積もっていたつもりでは、あるのですが。」リンドウが小さく息を吐く。
「ええと、どうしましょうか、ドクター・ジゼル?……この部屋で、処置を始めるんですか?」続けて入ってきたもう1人がやや高めの声で話している。
「あぁ、やるしかねぇだろ……。まぁどのみち、連れてこられたって大した設備はありゃしねぇしな。」ジゼルと呼ばれた男は、低く掠れた声で面倒そうに返答した。
「承知しました。ええ、私も構いやしませんとも。」もう1人は女だろうか、とカワセミはなんとなく推測する。
どちらの声も聞いたことはない。おそらく会ったことのない人間だろうなとは思う。だからカワセミはそれ以上の記憶を掘り起こそうとはしなかった。
「……おい、意識はあるか?」ジゼルがカワセミに向かって声をかけながら近づいてくる。
ジゼルの影がカワセミに被さるほど近くなったタイミングで、カワセミは反射的に腿のホルスターからナイフを抜いて、一直線に喉元に向けて切りつけた。
「……!」息を呑むような音がした後、カワセミは右手をいなされたことに気がついた。
それはジゼルと一緒に来た女だった。ナース服の薄ピンク色が目に映る。女はカワセミの右腕をいなした後、腕を捻ってベッド脇に固定する。カワセミは反動で左足を振り上げようとするも、それを察した女に膝関節で制される。さらにその流れから、カワセミの鎖骨付近に体重をかけてきた女によって、カワセミは完全に無力化されてしまった。
「大丈夫ですか?ドクター・ジゼル。」カワセミの顔から目を逸らさないまま優雅に微笑んだ女を見て、カワセミは少し咳き込んだ。
「おい、俺は大丈夫だが、怪我人の傷を増やすなよ?マドニア。」ジゼルはため息をつきながら、マドニアという女に言った。
「はぁ……まぁいい。しばらくそのまま押さえといてくれ。ルート(血管)を確保するぞ。」ジゼルが何かをゴソゴソと漁っている音が聞こえる。
「鎮静剤ですね?ええ。了解ですとも。……ほら聞こえましたか?ちょっとだけおとなしく首を差し出しやがってくださいね。」
「……殺すの?」荒い呼吸を繰り返しながらつぶやいた。
「……何言ってやがるんですか。治療しにきたんですよ?我々。大人しくしといてくださいね。」マドニアの言葉を聞くと、カワセミは大人しく力を抜いた。
カワセミが抵抗しなくなったことを確認してか、マドニアはゆっくりと体を起こしてカワセミの上から退いた。退くときに、マドニアはさりげなくカワセミの手からナイフを抜き取って行った。それを目で追っていると、マドニアは布で包んでテーブルの上に置いていた。
「ん……、ぐ。」カワセミの喉から僅かに咳が溢れ、狭まっていた胸の中に空気の入ってくる感覚があった。
カワセミの胸は軽くなったはずではあるが、脳がどうにも締め付けられる感覚がある。カワセミは頭を横に倒して呼吸を楽にしようと試みた。しかし、気管が詰まって上手くいかない。
「……酸素不足か?マドニア、カクテルの投与は俺がやる。お前は酸素缶用意しろ。……はぁ、簡易的だが、ないよりはマシだ。」ジゼルは注射針を手に持ちながら指示を出す。
「はい、ドクター。鎮痛剤も混ぜるんですね?配合は終わりましたか?……はい、ゆっくり呼吸をしてくださいませ?」マドニアはベッドに乗り上げた後、少し大きめのスプレー缶からキャップを外し、カワセミの口元にプラスチックカップを押し当てた。
「あぁ。服を脱がすのは投与の後だ。……マドニア、患者を固定しろ。首に打つぞ。」
「はい、ドクター。……もう一度抑えますわよ。そのまま頭を倒しといてくださいね。」ジゼルの指示を受けて、マドニアは一度酸素缶を置いた。
そして再び足でカワセミの下半身を固定し、右腕で上体を抑えつつ、左腕でカワセミの頭を横向きに固定する。その体勢のまま、マドニアは軽くカワセミの髪を撫で付けた。
「どうぞ、ジゼル。……リンドウさんは濡れタオルを用意してくださいませ。」カワセミの耳元で、マドニアの声がする。
「わかりました。」やや遠くで、リンドウがマドニアに返事を返した。
「よし、針入れるぞ。」ジゼルはカワセミの首筋から外径静脈を探し出し、針を刺す。
「はぁ、血管が浮き出てやがるな。……ま、ちょうどいいか。」
「んっ。」チクリと首筋を刺す感触に、カワセミの体は小さくはねた。
しかしそれも、マドニアのホールドによって抑え込まれる。刺された直後は、首の血管が脈動するように感じられたカワセミだったが、その感覚も次第に薄れて消え去った。
「すぅ……。」カワセミはマドニアの体の圧を感じながらも、どこかゆっくりと体が沈んでいくような感覚と、ゆらゆらと揺れるような感覚の中で再び意識を手放した。
どのくらい時間が経ったのか、カワセミはまだ重たい瞼をゆっくりと開けた。眩しい。脳が締め付けられるように痛み、口内や喉の奥が乾いて粘つく感覚がある。体の感覚はまだないものの、部屋の中に意識を向ける。あの二人組はもう帰ったようで、リンドウの姿も見て取れない。室内はほどよく暖房で温められており、カーテンの開けられた窓から白い光が差し込んでいる。
「……誰か、いるの。」キッチンの方に人の気配を感じて、カワセミは掠れた声で呼びかけた。
口元に押し付けられていたカップはもうなかったが、カワセミはどことなく口周りに違和感を感じて唇を舐めた。体を起こそうにもままならないが、どうにか頭を動かして状況を確認しようと試みる。
夜に着ていた衣服は剥ぎ取られ、上半身は肌が剥き出しになっていた。しかし重くならないように丁寧にかけられた毛布のおかげか、あまり寒さは感じない。右腕を見ると白い包帯がぴっちりと巻かれて固定されており、指先以外は動かせそうになかった。
「はい、おりますよ?」キッチンの奥から出てきたのはカナリアだった。
エプロンのない深緑色のワンピースに、同じ色のリボンでまとめた白髪のツインテールが揺れている。彼女は手にマグカップを持って近づいてきた。
「どうぞ、お白湯です。」
「……?」カナリアが持ってきたカップからはほんのりと湯気が立っている。
「……あ、起きられないですよね。失礼しました。……あの、触ってもいいですか。」カナリアが何度かまばたきを繰り返しながら小首を傾げた。
「……どうぞ。」カワセミは、特に深くは考えずに了承した。
「失礼します。」カナリアは一度カップを倒さないように床に置き、彼の首を支えながら上体を抱き起こす。
「口に近づけます。十分冷ましましたが、熱かったら言ってくださいね。」
「ん。」カワセミが少し口を開けると、カナリアがカップを近づけ、ゆっくりと少量の白湯を流し込んだ。
ほんのと温かみのある液体を飲み込むと、体の中の管を流れていくような感覚がある。そのうちじんわりと内側から熱が染み込むような感覚がした。
「熱かったですか?」
「……いや。」
「ではあと2〜3口ほど飲み切ってください。」カナリアの指示に従い、カワセミはゆっくりと白湯を飲み干した。
「店は?」白湯を飲み切った後、上体を起こしたままで彼は尋ねた。
「マスターがいるので大丈夫です。あとで何か食べるものを持ってきますね。」カナリアはカワセミのクローゼットから適当な上着を引っ張り出し、カワセミの腕を刺激しないように注意しながら羽織らせた。
「それでは、私は一度、お店に戻ります。……端末、落としてましたよ。血が付いてたので、拭き取っておきました。ナイフはテーブルの上です。今日は体を動かすな、とドクター・ジゼルからの伝言です。それでは、後ほど。」カナリアは澱みなく状況を伝え、スカートを持ち上げて軽く頭を下げると、自分のコートを羽織って出ていこうとした。
「あ、お部屋の中も、お掃除しておきました。お洗濯は回している最中ですが、私が後で干すので、下手に動かないでくださいね。暇なら本でもお持ちしますが……?」カナリアはくるりと振り返ると、再びカワセミに問いかけた。
「……大丈夫。いや、やっぱり何か、持ってきて。」カワセミには本を読む習慣はなかったが、この何もない部屋で動かない体を持て余すよりはマシだろう、とカナリアの提案を受け入れた。
「はい、わかりました。それではまた、後ほど。」カナリアは今度こそ部屋を出ていった。
そういえば、彼女はどうやって部屋に入ったのだろうと考えて、その辺はまたリンドウが手を回したのだろうと結論づける。今日はやけに頭が重い。カワセミは、ふぅと息を吐きながら、ベッドフレームに頭を預けた。このままもう一眠りしてしまおうか、と微睡の中に思考を預ける。もう今日のことはどうだっていいと思いつつ、カワセミは再び瞼を閉じた。
第1章後のサブストーリーはこれで一区切りとなります。
次回更新は4/17(金)19:40、第2章から再開予定です。
少し間が空きますが、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




