左手の傷跡
「ほらアイン、隠さないでその左手を見せなさい。」ジーナはタブレット型端末を脇に抱えて、アインに右手を差し出した。
「……その、これは、見せるようなものではありません。」アインは両手を後ろで組んだまま、ジーナから少し視線を逸らした。
「……チッ。たく、何言ってんのよ。どうせレオンにはバレたんでしょ?それなら今更隠したって仕方がないわよ。」ジーナの言うことはもっともだ、とアインは思った。
しかしこれは、自分の不手際でつけた傷であり、ジーナのような非戦闘員に見せるのは、とアインは考えていた。ところが昨夜この傷に触れた人間がすでにいたことを思い出し、アインはしばらくフリーズした。
「……ちょっと……聞いてるの?」痺れを切らしたようにジーナが問い詰める。
「……いえ、はい、聞いています。」
「いえっつったわね、このバカ。おい、手ぇ見せろっつってんだろうが。……どうせこの後医療セクションに行かなきゃいけないんだし、まごまごしないで早くする!」ジーナがいよいよキレ口調になってきた。
これ以上は仕方がないと思って、アインは自分の左手を差し出した。左手にはグローブをしていたが、それを取れとは言われていない。
「それとって。してたら分かんないじゃない。」やはりジーナは目ざといと、アインはついに観念した。
アインがしていたグローブは新品だった。昨夜破けたものではなく、スペアとしてとっておいたものを家からとってきたのだ。エミリアが巻いてくれた包帯はそのままなので少しきついが、傷が固定されてかえって痛みは感じなかった。
「……どうぞ。」アインはするりとグローブを脱ぐと、包帯の巻かれた左手の甲をジーナに見せた。
「……まさか、あんたがやったの?」ジーナは包帯を見て少し驚いたようだった。
「いえ。……その、昨夜、エミリアさんが……。」アインは今朝レオンにしたのと同じ説明をジーナにもした。
「……へぇ〜?」ジーナはなぜか口の端をニヤリとあげた。
「……あんたがなんでエミリア・バートンのことをさん付けで呼んでるのかって、少し気になってたんだよねぇ〜。……もうすでに接触済みだったってわけかぁ。」ジーナはまじまじと包帯を見ている。
「……もういいですか。」アインは少しだけ居心地が悪かった。
どうしてみんな、自分が応急処置をしていることを気にするのだろう、とアインは思った。傷が化膿したら使い物にならなくなるという知識はあったが、アインにとってそれは、戦場にいれば常に付きまとう必然だった。
「ええ、いいわ。あんたがちゃんと傷を手当てしてるかどうかが気になっただけだもの。……まぁ、思ってたのとはちょっと違ったけどね。」ジーナがふふふと笑っているのを見て、アインは少しもどかしかったが、何も言わずにまたグローブをはめ直した。
「……けどさ、あんた、エミリアさんのことどう思ってるの?」
「……どう、とは……?」ジーナの問いが、アインにはよく分からない。
「ほら、第一印象とか、なんかあんでしょ。あんたから見てどうだったのよ。」ジーナはタブレット型端末に打ち込みながら、チラリとこちらに視線を向けた。
おそらく、先ほど分析した内容をレポートに打ち込んでいるのだろうとアインは思いつつ、エミリア・バートンについて何かを思い出そうと試みた。
燃え盛る家に入り込んだとき、アインが声をかけても苦しそうにするだけで返事を返さなかったことや、反応を見て抱えあげた後、すぐに気を失ってしまったことなどが思い出されたが、それはあのような状況であれば誰でもそうなるであろうことをアインはすでに知っている。
「……優しそうな人でした。妹たちとも、すでに馴染んでいるようでしたし。……だから……。」アインは言葉を出そうとしたものの、なんと言って良いのか分からなかった。
「だから家に入れたわけ?」アインの言葉を補うようにジーナが尋ねる。
「……EVCですか?」
「……まぁ、そんなところかもしれないわね。」ジーナは僅かに視線を逸らした。
ジーナはそれからしばらく何も言わずに、タブレット型端末へと何かを打ち込んでいる。アインは特にすることもないので微動だにせずに待っていた。ジーナの指が鳴らすタップ音がする以外には、特にこれといった雑音はない。屋根が焼け落ちているため、頭上からは常にぼんやりとした太陽の光が降り注いでいる。
「……あ、そういえば。」ジーナは何かを思い出したように顔を上げた。
そのまま一度、辺りをぐるりと見渡すと、家の入口付近へと向かい、表へと出た。もっとも、自分たちは常に屋外にいる、とアインは思った。
「……あった。ここよ……。」ジーナは表へと出てからもしばらく歩き続け、また別のレンガ造りの家の前までやってきた。
「……やっぱりね。」ジーナは何かを勘付いていたのか、家と家の間の暗がりをじっと見つめて考え込んでいる。
アインもジーナの肩越しに、その暗がりを確認しようと静かに覗き込んだ。
「……なるほど、放火魔ライターはここに立っていたわけですね。」今度の痕跡はアインにも見て取れた。
「そうね。靴底の厚いブーツの足跡が二つ。ライターはおそらく小柄で軽い……。」ジーナは再び顎に手を当て痕跡を読み解いた。
「……あら、待って?ライターは、ここで一体何を見ていた?」ジーナはライターの分析をやめて、足跡と同じ方を向くように、くるりと回転する。
「……?」アインもまた、ジーナの向いている方へと体を向けた。
放火魔ライターの靴跡が向いている方には、三棟の家の焼け跡が見える。火元になった中央の家と、導火線で繋がれた左右の家。ライターが、エミリア単体を狙っていたのだとしたら、なぜわざわざ隣の二棟も一緒に火を放ったのか。その謎がまだ残っていたな、とアインは思い出した。
「……分からないわ。ライターの意図がわからない。」ジーナが思わず唸りを上げた。
「……ターゲットの確認です。」アインは焼け残った跡を見ながら話を続けた。
「おそらく、ライターはターゲットが燃え尽きるのを待っていた。現場に残る理由なんて、それ以外にはありません。そうでなければ……燃える家を見て、楽しんでいたのか……。」アインは抑揚のない声音で言い切った。
「つまり……?」
「つまり、放火魔ライターがエミリアさんに対して明確な殺意がある場合には、目的を完遂するまで待っていたことになりますし、……そうでないならば、ただ火を放って楽しむ愉快犯だったことになります。……あるいはその両方の可能性もありますが。」アインはジーナの問いに淡々と答えた。
「……ふーん?なるほどね。はぁ……タグなしの愉快犯ね……。」ジーナはすこぶるめんどくさそうな声でそう言った。
アインは特に何とも思わなかった。愉快犯なら、最近にも会ったことがある。特にあの金髪でお転婆な爆弾魔ラビットなどがそうだった。今回の放火魔ライターも、根本的には同じ部類だと言うことだろうと、アインは黙って考えた。
「……殺し、損ねたってことよね?ライターは。殺意が明確であるならば、だけど。」重苦しく漂っていた沈黙を破って、ジーナが言った。
「そういうことに、なりますね……。」アインはジーナの問いの意図をいまいち掴み損ねていた。
「戻ってきたり、しないのかしら。」恐る恐るといった様子でジーナは話す。
どこに?と一瞬聞きかけたものの、アインはすぐその意図を理解した。
「また、殺しに来ると?」アインはさっきまでよりも自分の声が、思ったよりもずっと低く重く響くことに驚いた。
「ええそうよ。ライターはターゲットを殺し損ねたことを知っている可能性が高い。だって、あんたの救出劇を間近で見ていたはずでしょう?」ジーナはアインに向き直る。
「もしかしたらまた、エミリア・バートンを殺しに来るかもしれない。……そしたら次に狙われるのはあんたの家よ。……なんとかならない?」ジーナは僅かに不敵そうな笑みを浮かべた。




