第九話 降りた役に戻る気はございません
後見人の解任には、立会人が三人要る。
領地の名士から二人と、司法書記が一人。屋敷の広間に卓を出し、椅子を並べた。並べたのはわたくしではない。新しい使用人頭になったハンナが指示を出し、若い者が動いた。指示の出どころが変わると、屋敷は思ったより早く形を変える。
朝から冷えた。窓の桟に霜が薄く残っている。クラウスが外套を脱いで椅子の背にかけると、肩の部分だけ色が濃かった。溶けた霜がまだ乾いていない。
「緊張しているか」
「しております」
「やめてもいい」
「やめません」
クラウスは頷いた。それ以上は聞かなかった。この人は確かめはするが、繰り返さない。
書記が書類を並べ終えた頃、叔父様が来た。
リゼットを連れていた。連れてくる場ではない。連れてきたということは、そのつもりがあるということである。
「クラウス殿。ユリアーナ」
叔父様は、わたくしの名を呼んだ。三年、この人はわたくしを名で呼ばなかった。用件だけを言って、名を省いた。
「本日の議は、後見人の解任でよろしいか」
書記が事務的に始めた。
「当主の帰還により、後見の必要が消滅した。加えて、後見期間中の債務の負い方について当主より異議が出ている。以上について、当事者の陳述を求める」
叔父様が立ち上がる。
「陳述の前に、一つだけ申し上げたい」
名士の一人が頷いた。
「儂は、この三年、家のためにやってきた。当主が国境へ発たれ、屋敷には女と幼い子だけが残った。誰かが立たねばならなかった」
言葉は整っていた。昨夜のうちに考えてきたものだと分かる。
「至らぬところはあった。書類の扱いに、行き過ぎもあったろう。だが、私利のためではない。この家の名を絶やさぬためだ」
名士の二人が顔を見合わせた。悪くない印象を持ったらしい。この人は昔から、公の場でだけは上手い。
「そして、ユリアーナ」
叔父様がこちらを向いた。
「儂はお前を、実の娘のように思ってきた」
その言い方は初めて聞いた。
「至らなかったのは儂だ。お前の働きに、儂は報いてこなかった。詫びる。この場で詫びる」
そして、ひと呼吸置いてから続けた。
「屋敷の実務は、これまでどおりお前が見ればよい。儂は口を出さぬ。名だけ残してくれれば、それでよいのだ」
詫びの続きに条件が入っている。この人はまだ、交渉をしていた。
叔父様が頭を下げた。
広間が静かになる。名士が姿勢を正し、書記が羽根ペンを止めた。
隣でクラウスが動きかけた。わたくしは膝の上で手を一度だけ横に開く。それで止まる。この人は、確かめてから止まる。
わたくしは立ち上がった。
叔父様の前まで歩き、足を止めた。頭を下げたままの叔父様の、白いものが増えた頭頂が見える。手が震えていた。演技ではない震え方だった。
「叔父様」
顔が上がった。
その顔に、期待がある。名を呼ばれたことで、通じたと思ったらしい。三年間、わたくしが承知しましたと答え続けた声で名を呼ばれたのだから、無理もない。
「詫びのお言葉、確かに伺いました」
「ユリアーナ」
「受け取ります。お返しはいたしません」
叔父様の口が半分開いた。半分開いたまま、次の言葉が出てこない。詫びれば返ってくるはずのものが返ってこないという事態を、この人は経験したことがない。
「わたくしはこの子と組むと決めました。降りた役に、戻る気はございません」
言い終えて、それだけだった。
つけ足すことがない。三年ぶんの内訳も、三十七通の話も、北の小部屋の話も、この場でしなくてよい。それはもう終わった計算である。
「……待て。儂は詫びた。詫びたのだぞ」
「はい」
「詫びれば、戻るものだろう」
そこで、名士の一人が短く息を吐く。
聞こえるほどの音だった。もう一人が目を伏せる。書記の羽根ペンが動いた。今の一言を、そのまま書いている。
叔父様は気づいていない。自分が何を口に出したか、まだ分かっていない。
「グスタフ殿」
クラウスが立った。
「詫びは、支払いではない。あなたが三年受け取ったものの額を、あなたはまだ一度も計算していない」
「クラウス殿、儂は」
「計算していないものは、返せない」
叔父様が椅子の背をつかんだ。
「儂は、家のために」
「家は、あなたのいない三年で回っていた。回していた者に、あなたは一度も支払っていない」
クラウスは声を張らなかった。守備隊で号令をかける人が、この日は普通の声で話した。声を張らないほうが、広間ではよく通る。
そのとき、リゼットが立ち上がった。
「お姉様。ひどうございます。お父様がここまで頭をお下げになったのに」
高い声だった。広間の天井に響いた。響いてから、誰も同意しないことに気づいたらしい。
「わたくし、ロータル家との縁組も、これで」
「リゼット様」
呼んだのはマリカだった。
「お黙りください」
十二歳の声である。声量はない。ただ、静かな部屋では十分だった。
「まだ、わたくしの番が来ておりません」
書記が顔を上げた。
「マリカ・ヴァレンダール嬢。当事者としての陳述を求めます」
マリカが前へ出る。椅子から立ち、卓の前まで歩き、両手を体の横に下ろした。誰かの後ろに立つ癖のある子が、その日は真ん中に立っている。
昨夜、この子は自分の部屋で言うことを紙に書いていた。書いた紙は持ってきていない。持たずに来たのは、覚えたからだと思う。
「わたくしは三年、北の小部屋におりました」
書記の羽根ペンが動いた。
「食事は一日一度で、冷めておりました。教師はおりません。手紙は届いておりませんでした。父の手紙は三百十二通あって、そのすべてが屋敷の中で止まっておりました」
「マリカ、それは」
「大叔父様。まだ終わっておりません」
叔父様が黙った。
「その三年を作った方針を出したのは、大叔父様です。実行したのは継母です。継母は、それをやめました。やめただけでなく、順番に戻しました。食事、部屋、教師、手紙。全部、戻せるものから戻しました」
マリカは書記のほうを向いた。
「わたくしの後見は、わたくしが選びます。継母を選びます」
書記が書き終えるまで、誰も何も言わない。
羽根ペンの音だけがしていた。マリカは立ったまま、それが止まるのを待つ。待ってから、一度だけこちらを見た。目が合って、すぐ前に戻す。確かめただけの目である。
後ろに誰かがいると、言葉が前に出る。この子が前に言ったことを、この日は自分の目で確かめていた。
名士の一人が、卓に手を置いた。
「異議は」
叔父様は答えなかった。
「では、後見人の解任を可とする。グスタフ・ヴァレンダール氏の後見資格は、本日をもって消滅する。加えて、後見期間中に成立した保証契約については、署名の真正に疑義があるため、書記が別途照会に付す」
三十七通の署名の話が、それだけで済んだ。並べれば分かるものは、並べれば済む。
叔父様が何か言おうとして、書記に制された。
「本件は照会に付されます。この場での陳述は、記録の対象外です」
手続きの言葉である。感情の入る余地がない。三年間わたくしを縛っていたのも、同じ種類の言葉だった。
書類に印が押された。
叔父様は椅子に座ったままである。腰を下ろしたというより、立てなくなっている。リゼットが袖を引いても、動かなかった。
わたくしはそれを一拍だけ見て、目を戻した。
見続ける必要がない。
外套を取った。クラウスが先に手を出しかけ、それから引っ込めた。自分で着ると分かっている人の手つきである。袖を通すと、肩の濃かった部分が乾いていた。
「ユリアーナ」
背中で、名を呼ばれた。
わたくしは歩き続ける。歩幅がいつもより広いことに、廊下へ出てから気づいた。三年間、この屋敷の中で急いだことがない。急ぐと、誰かの用事が増えるからである。
窓の桟の霜は、もう溶けていた。
マリカが横に並んだ。並んで、しばらく黙って歩いてから、言った。
「お継母さま。手が震えておりません」
「ええ」
「前は震えていらっしゃいました」
「終わったからでしょう」
「終わりましたか」
「終わりました」
「では、帰りに市場へ寄ってもよろしいですか」
「何かご入用ですか」
「小刀を。柱に使ったものは、刃が鈍っておりますので」
広間のほうで、椅子の動く音がする。それから足音。扉の動く気配。
扉の閉まる音を、わたくしは最後まで聞かなかった。




