第十話 二人めの刻み
春の献立表は、三人分で始まる。
朝いちばんに書いて厨房へ渡す紙である。人数の欄に三と書き、その下に献立を並べ、最後に自分の名を書く。ユリアーナ、と書く。三年間、この欄には夫の名前が入っていた。
厨房へ渡しに行くと、料理番が先に卵を割っていた。
「奥様。本日は四人分でよろしいですか」
「四人」
「ケルナー先生が、朝からいらっしゃるとのことでしたので」
わたくしは紙を返してもらい、三を四に書き直す。この紙は、屋敷でいちばん頻繁に修正される書類になった。人数が増えるほうに直るのは、三年でこれが初めてである。
食堂ではクラウスが新聞を広げていた。広げているが読んでいない。読む速度で紙をめくらない人である。
「おはようございます」
「ああ」
「今日は何か」
「代書人が午後に来る。保証の照会が片づいた」
「片づきましたか」
「三十七通、全部無効になった。書いた者が当主でないことが認められた」
そう言って、新聞を一枚めくった。
「あと、叔父上の件だが」
「はい」
「領外へ移った。借家だそうだ」
「そうですか」
それだけだった。それだけで足りる。
ハンナが茶を運んできて、卓の端に置いた。置いてから、少し迷って言った。
「奥様。先方から、お手紙が」
「読みましたか」
「いいえ」
「では、そのままお返しください。開けずに」
「かしこまりました」
ハンナは盆を持って下がっていく。廊下で足を止める気配もない。
叔父様がどんな家に住み、誰に手紙を代筆してもらっているのかを、わたくしは知らない。知る必要のあることは、書類の上で全部終わっている。
マリカが入ってきた。石板を抱えている。
「おはようございます」
「おはよう。それは」
「先生に見ていただきます。昨夜、書いてしまいましたので」
椅子に座り、石板を卓の脇に立てかけた。表面が灰色に濁っている。何度も消して書き直した跡である。
「見てもよろしいですか」
マリカが頷いた。
数字と、地名と、作物の名前が並んでいた。この領地の三年分の収穫と、その隣に、隣領の同じ年の数字がある。
「隣の領は、うちより麦がよく穫れます。土は同じです。ということは、やり方が違います」
「調べたのですか」
「先生に頼んで、隣領の帳面の写しをいただきました」
十二歳の朝食前の話題ではない。
石板の隅に、消し損ねた数字が薄く残っていた。去年の薪の量である。三年ぶんを数えたときの数字が、まだ消えきっていない。
「マリカ」
「はい」
「この先、何をしたいのですか」
匙が止まった。止まってから、思ったより早く動いた。用意していた答えらしい。
「領地を継ぎます」
「ええ」
「継いで、麦を増やします。数が増えれば、人の食べる量を減らさなくて済みますので」
その理由だと思った。
三年、この子は減らされる側にいた。減らされる側にいた人間は、増やし方を考えるようになる。
「先生には、なんと」
「商いの計算を教えてくださるそうです。あと、隣領の帳付けの方をご紹介いただけると」
「では、そのように」
「よろしいのですか」
「あなたが決めたことです。わたくしが許すものではございません」
マリカは何か言おうとして、麺麭を口に入れた。口に入れてから、しばらく噛んでいた。
食事のあと、クラウスが庭へ出る。わたくしもついていった。芽の出た木の下で、この人は用もなく立ち止まる癖がある。
「話がある」
「はい」
「守備隊の職を辞した。書類は先月出してある」
「聞いておりません」
「言うと、あなたが理由を考えるからだ。理由はない。ここにいることにしただけだ」
理由がないという言い方をするのに、この人は三年かかっている。
「それから、もう一つ」
クラウスは上着の内側から紙を出した。折り目のついた紙である。
「婚姻の契約を、結び直したい」
「……結び直す」
「三年前のものは、俺とグスタフ殿の間で決まった。あなたは署名しただけだ」
そのとおりだった。婚礼の日、わたくしは末尾に名前を書いた。中身を読んだのは、書いた後である。
「今度は、あなたが条件を書いてくれ。俺が飲めるかどうかは、それから答える」
紙を受け取った。白紙だった。
「何も書いていないではありませんか」
「書くのはあなただ」
わたくしはその場で笑ってしまう。声を出して笑ったのが三年ぶりだと、笑いながら気づいた。
「では、一つめ。手紙は二行以上にしてください」
「善処する」
「善処ではなく、してください」
「する」
「二つめ。決めごとは、決める前に話してください。事後承諾は結構です」
「分かった」
「三つめは、まだ考えておりません。思いついたら書き足します」
「余白は残しておく」
そう言って、クラウスは紙を折り返した。折り目の位置がずれている。この人は書類を扱う手つきが下手である。三年、書類はわたくしが扱っていたのだから、当然といえば当然だった。
「ユリアーナ」
「はい」
「婚礼の日、俺はあなたの名を呼んで、それきりにした」
「覚えております」
「言葉が出なかったのだと、ずっと思っていた」
「違うのですか」
クラウスは芽の出た枝を見上げ、それから視線を戻した。
「怖かった」
風が吹いて、枝の先が揺れた。
「有能な人だと分かった。分かって、こちらが釣り合わないと思った。それで、当たり障りのないことしか言えなくなった。一行の手紙は、その続きだ」
「三年かけて、そこまで」
「遅い」
「ええ。とても」
言いながら、頬が熱くなっているのが自分で分かる。三十に近い女がすることではない。
クラウスが手を出した。紙を返せという手つきに見えたので渡そうとしたら、紙ではなく手のほうを取られた。
「返してくださらないのですか」
「これは俺が持つ。書き足す場所を空けておくのに、両手が要る」
理屈が通っていない。通っていないことを、この人は分かって言っている。
昼過ぎ、玄関の柱の前を通りかかった。
マリカが立っていた。背を柱につけ、頭に小刀の背を当てている。市場で買った新しい刃である。
「測っておりますか」
「はい」
「わたくしが押さえましょうか」
「結構です。自分でできます」
その言い方が三月前と同じで、中身だけが違っていた。
刃が一本、横に引かれた。木の繊維がささくれる音がした。
マリカが振り返り、それから、少し考える顔になる。
「お継母さま」
「はい」
「そこに立っていただけますか」
「なぜです」
「二人めですので」
わたくしは柱に背をつけた。二十八歳の女が身長を測られる理由は特にない。特にないので、そのまま立っていた。
「動かないでくださいませ」
「動いておりません」
「踵が浮いております」
「浮いておりません」
「浮いております」
十二歳に指摘されて、踵を下ろした。
マリカの手が頭の上に触れる。位置を決めるのに、ずいぶん時間がかかっていた。
刃が引かれた。
離れて見ると、傷は四本になっていた。三年前の母親のもの。冬にこの子が自分で引いた一本。その少し上に、この春の一本。そして、いちばん上に新しいものが一つ。
「来年も測りますか」
「測ります」
「では、そのときは四人分にいたしましょう」
「四人」
「先生も測ります。ご本人はいやがると思いますが」
そう言って、マリカは小刀を袖に入れ、廊下の奥へ歩いていった。石板を取りに行ったのだと思う。
わたくしは柱の前に残った。
指で傷をなぞる。ささくれが引っかかる。この屋敷でいちばん古い部分に、いちばん新しい傷がついている。
廊下の奥から足音がした。
「何をしている」
「測られました」
クラウスは柱の前に立ち、四本の傷を上から順に見た。それから、いちばん上の一本を指でなぞった。
「来年は、俺も入れてくれ」
「背が伸びるご予定が」
「縮むかもしれん。それも記録だ」
真顔で言うので、わたくしは口元を押さえる。
五年後に断罪される予定だった女は、その日、玄関の柱の前で自分の背丈を測られていた。
柱の刻みは、あの日より指一本ぶん高いところにあった。




