第八話 数える人
期日は木曜だった。
グスタフは水曜の夜、自室の卓に書類を並べ、それから並べ直した。順序を変えたところで、署名欄が埋まるわけではない。
代書人を頼めばよい。頼めばよいが、代書人は当主の名を書けない。当主の名を書けるのは、当主か、当主が委任した者だけである。
三年間、その役は姪だった。
姪が書いた。頼めば書く。頼まなくても、日付を見て先に書いてあることもあった。書類が返ってくるときには封も済み、宛先の綴りも直っている。綴りを直されていたことに気づいたのは、直されなくなってからだった。
グスタフは羽根ペンを取り、自分の名を書いた。
グスタフ・ヴァレンダール。
書き終えて、自分の字を見た。末尾が震えている。三年、まとまった量の文字を書いていない。
紙を丸め、新しい紙を出した。二枚めも同じだった。
三枚めで諦め、卓に肘をついた。
窓の外はもう暗い。屋敷の者はとうに下がっている。
数え始めたのは、そのときである。
姪から受け取っていたものを、順に数えた。
書類の署名。年に十二通ほど。祝いと悔やみの手紙。冬は十日に一度、夏でも月に二度。領地の職人組合との折衝。取引先の当主が代替わりしたときの根回し。冬の薪の量の決定。婚礼の招待の返事。娘の縁組の身元照会。
グスタフは指を折り、途中で足りなくなって、紙の裏に書いた。
まだ続いた。使用人の給金の査定。祝祭の献立。隣領との境界の確認。書き出したものが十七になったところで、手が止まった。
若い時分に算術の教師に言われたことがある。数えられないものは管理できない、と。グスタフはそれを、金と穀物の話だと思って聞いていた。
紙の裏の十七項目には、一つも数字が入っていない。入れようとして、入れ方が分からなかった。
十七項目のうち、金を払ったものは一つもない。
払わなかったのは、額を惜しんだからではない。額を考えたことがなかったからである。天気に金を払う者はいない。姪は天気だった。降るときに降り、要るときにあった。
「天気は変わります」
姪の声が、そのまま耳に残っている。
言われたときには意味が取れなかった。今、書けない紙を三枚重ねて、意味が取れた。
翌朝、ロータル家から使いが来た。
グスタフは応接に通し、茶を出させ、それから話を聞く。使いは茶に手をつけなかった。
「縁組の件、白紙に戻させていただきたく」
「……理由を伺いたい」
「当家は、リゼット様のご人格を疑っておりません」
人格を疑っていないという前置きは、別のものを疑っているという意味である。
「ヴァレンダール家の当主がお戻りになったと伺いました。後見の任は、そのまま解かれるものと」
「儂の後見は続く。あれは名目の話で」
「その名目が、当家の見ておりました担保でございました」
使いは丁寧だった。丁寧なほど、覆らない。
「本日中に、リゼット様へもお伝え申し上げます」
「待ってくれ。当主が戻ったとて、実務は儂が」
「実務は、奥方様がなさっていたと伺っております」
グスタフは口を閉じた。屋敷の外の人間が、そこまで正確に知っている。知られていたのに、三年、誰も言わなかった。言う必要がなかったからだ。得をしているのは、こちらだった。
「額の話なら」
「額の話ではございません」
同じ言葉を、二日のうちに二度聞いた。
使いが帰ったあと、リゼットが部屋に入ってきた。扉を閉めもせずに入ってきて、卓の前に立つ。
「お父様。ロータル家が」
「聞いた」
「なぜですの」
「後見の任が続かんからだ」
「続けてくださればよろしいでしょう。お父様が続けると仰れば」
グスタフは娘の顔を見た。
この子は、後見人という言葉が何でできているのかを知らない。父が言えば続くものだと思っている。十九年、そう思っていられる暮らしをさせてきた。
させてきたのは、誰の手でだったか。
十七項目の紙が、卓の隅にある。
「リゼット」
「はい」
「お前は、マリカに何と言った」
娘の顔から、血の気が引いた。
「……なぜ、その話を」
「ロータル家の使いが、社交の場での話を聞いてきたそうだ。野育ちと呼んだそうだな。あの子は否定せず、そのまま認めて、誰の指示でそうなったのかを聞き返したと」
「あれは、あの子が」
「聞き返された先は、儂だ」
部屋が静かになった。
「ロータル家は、その話をどこで聞いたと思う。あの場にいた娘たちが家で話し、家の者が別の家で話す。三日で回る」
「わたくしは、ただ」
「ただ、笑わせようとしたのだろう」
娘が言い返さなかった。言い返せないことを、この子は初めて経験している。
リゼットが、扉のほうへ二歩下がった。下がってから、もう一度こちらを見た。
「お父様が、そうなさいと」
「言っていない」
言っていない。指示は出していない。出したのは方針で、実行したのは姪である。
紙に書いたのは姪の手で、量を減らしたのは料理番の手で、部屋を決めたのも姪だった。自分は誰の手も動かしていない。
そう並べていくと、この件には加害者がいないことになる。
グスタフは、それが成立しないことを知っていた。知りながら、三年、その並べ方で眠っていた。
夕方、侍女が屋敷へ来た。ヴァレンダール家の侍女頭である。マリカの春物の寸法を確かめに来たという用向きで、玄関先で用を済ませ、帰ろうとした。
グスタフは自分から玄関へ出た。
「ハンナ」
「グスタフ様」
「少しよいか」
侍女は足を止める。止めただけで、荷物は持ったままだった。
「姪は……ユリアーナは、息災か」
「はい」
「食事は」
「三人で召し上がっております」
三人。当主と、姪と、あの子。
「取り次いでもらえんか」
「何をでございましょう」
「話をしたい。書類のことは詫びる。額も引く。後見の件も、形だけでよい。儂は家のためにやってきた。そのことを、直接」
言いながら、自分の声の調子が変わっているのが分かった。三年前、この屋敷の使用人に頼み事をしたことは一度もない。
侍女は荷物を持ち直した。
「グスタフ様。わたくしは取り次ぎません」
「なぜだ」
「わたくしは、三年、奥様がお書きになるところを見ておりました。夜中に一人で、当主様のお名前を練習していらっしゃるところも」
グスタフは黙った。
「上手にお書きにならないと、疑われるとおっしゃって。誰に疑われるのかは、おっしゃいませんでした」
侍女は頭を下げる。下げ方は完璧である。
「失礼いたします」
門を出ていく背中を、グスタフは見ていた。呼び止める言葉を探したが、呼び止めて言うことが何もない。
自室へ戻り、丸めた紙を広げ直した。三枚とも自分の名が書いてある。三枚とも、末尾が震えている。
一枚めと三枚めを並べた。並べれば違いが分かる、と姪は言った。
数え終えて、グスタフは自分の署名の下手さに気づいた。




