第七話 供給の停止
叔父様は、いつも二番めに広い応接を使う。
一番広い部屋は当主のものだからで、二番めを選ぶことで、自分は当主ではないと示している。示しながら、当主の権限を使う。そういう順序の取り方をする人である。
その日も同じ部屋に通した。
「ユリアーナ。急がせてすまんな」
革の折り鞄を卓に置き、中から紙束を出す。慣れた手つきである。三年、この手つきを見てきた。
「春までに片づけたい件があってな。ロータル家との縁組の前に、こちらの財の形を整えておきたい」
「保証書ですね」
「話が早くて助かる」
一枚めを引き寄せた。ヴァレンダール家名義の連帯保証。金額の欄に、屋敷の三年分の維持費に届く数字が書いてある。
二枚めも保証書。三枚めは債務の引受。
「これは、叔父様のご事業の分でございますね」
「家の事業だ。娘の縁組も家のためだろう」
家、という語が便利に使われている。誰の家かは言わない。
「署名欄が、当主のものになっております」
「いつもどおりでよい」
いつもどおり。
三年、わたくしはその言葉で三十七通に署名した。数えたのは先週である。ケルナー先生と二人で、控えを全部並べて数えた。
わたくしは羽根ペンを取らなかった。
取らない、というだけの動作である。三年間、この部屋でわたくしがしてきたことのうち、最も簡単な部類に入る。それでも、指がインク壺のほうへ動きかけた。習慣というのは、そこまで来ている。
膝の上で手を組んだ。
代わりに、脇に用意しておいた別の紙束を卓に載せた。
「これは」
「過去の署名の控えでございます。三十七通」
叔父様の指が、鞄の留め具にかかったまま止まる。
「何のためだ」
「並べてご覧いただきたいのです」
一枚ずつ広げた。どれも同じ名前が書いてある。クラウス・ヴァレンダール。同じ字体で、同じ傾きで、同じ配置で。
「末尾をご覧ください」
叔父様は覗き込んだ。老眼が入っている人の、顎を引く見方だった。
「跳ねが弱うございます」
「……跳ね」
「夫の字は、末尾を強く跳ね上げます。紙を破るほどの角度で。わたくしにはその力の入れ方が真似られません。三十七通、全部同じように弱うございます」
部屋が静かになった。
「並べれば、誰の手か分かります。一通なら見過ごされますが、三十七通並べれば、見過ごすほうが難しゅうございます」
叔父様が一枚を持ち上げ、光に透かした。透かしても跳ねは強くならない。しばらく持っていて、そのまま卓に戻した。戻すときに、紙の角が他の紙とそろわなかった。この人が紙をそろえ損ねるのを、初めて見た。
「ユリアーナ。お前は何を言っている」
「今後、叔父様の書類にわたくしの手は貸しません。ご自分の字でお願いいたします」
叔父様の顔から、表情が抜ける。
怒りではない。理解の遅れである。この人はまだ、わたくしが何を言ったのか把握していない。三年間、この口から出てきたのは承知しましたという言葉だけだった。
「……何を怒っている」
「怒ってはおりません」
「では書け」
「書きません」
「ユリアーナ」
「わたくしが書かなければ、この紙は紙のままです。それだけのことでございます」
叔父様が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がした。
「当主が不在なのだぞ。誰が家を回すと思っている。この三年、儂が」
「回していたのはわたくしです」
自分の声が、思ったより低く出る。
「帳面を締めたのも、使用人を雇ったのも、社交の返事を書いたのも、薪の量を決めたのも、わたくしです。叔父様は決めて、わたくしが書きました。書いた手を止めれば、決めたものは残りません」
「屁理屈を」
「では屁理屈で結構でございます。結論は変わりません」
叔父様が卓に手をついた。
「儂がどれだけこの家のために」
「叔父様が、この三年でわたくしにお支払いになった額を申し上げましょうか」
言葉が止まった。
「ございません。一度も。それは叔父様が吝嗇でいらしたからではなく、支払うものだとお考えになったことがないからです。わたくしの手は、天気のようなものでございました。あって当然で、費用のかからないもの」
「そんな言い方をされる筋合いは」
「筋合いの話もしておりません。ただ、天気は変わります」
扉が開いた。
叔父様が振り返る。振り返って、そのまま動かなくなった。
クラウスが立っていた。
「グスタフ殿」
三日剃っていない顎のまま、いつもの静けさで立っている。この人は部屋に入るとき音を立てない。守備隊で身についた歩き方だという。
「クラウス殿。お戻りとは、聞いておらんぞ」
「六日前に出た。伝令は出していない」
「そのようなことをされては困る。家のことは儂が」
「妻から聞いた」
短く区切った。
「三十七通の署名は、俺のものではない。俺が書いていない紙で家が負っている債務がある。これは俺の側の問題だ。法務の代書人を明日呼ぶ」
「クラウス殿。落ち着かれよ。あれは形式で」
「形式なら、あなたの名で書けばよかった」
叔父様が口を開き、閉じた。
わたくしは呼び鈴を鳴らした。
ハンナが入ってくる。後ろに、バルトを連れていた。
「使用人頭を解任いたします」
バルトの顔が、わずかに歪んだ。歪んでから、叔父様のほうを見た。答えを叔父様に求める、その反射自体が答えである。
「理由をお聞かせ願いたく」
「三年ぶんの薪の仕入れが、部屋の数と合いません。毎月十六日の夜に納屋から荷が出て、翌朝の帳面に載りません。写しはケルナー先生が二部持っております。一部はこの屋敷の外にございます」
「奥様。三年、この屋敷にお仕えしてまいりました」
「存じております。三年ぶんの記録がございますので」
バルトは叔父様を見続けていた。助けを待つ顔ではなく、指示を待つ顔である。この人は最後まで、自分は指示に従っただけだと思っている。わたくしも三年前まで、同じ顔をしていた。
叔父様は、目を合わせなかった。
それが、この部屋で一番はっきりした答えだった。
「本日ぶんの給金はお支払いします。今日中に出てください」
バルトが何か言おうとして、やめる。庇う側の口が開かないと分かったからだと思う。ハンナが扉を示し、二人で出ていった。
部屋に残ったのは三人である。
叔父様が、椅子に座り直した。座り直してから、声の調子を変えた。
「ユリアーナ。少し急ぎすぎだ」
「そうでしょうか」
「あの保証は、額を下げてもよい。半分でいい。いや、三分の一でも構わん。それでどうだ」
交渉が始まった。
この人は、拒絶を条件の話だと理解している。額の問題だと思っている。三年間わたくしが書き続けたのは額に納得していたからで、額を下げれば書くはずだと。
「叔父様」
「なんだ」
「額の話をしておりません」
「では何の話だ」
「わたくしが、もう書かないという話です」
叔父様は、それでも理解しなかった。理解できる形の言葉を、この人は持っていない。人の手を無料で使う暮らしが長すぎた。
「マリカのことも考えろ。後見人が儂でなくなれば、あの子の立場は」
「マリカの立場は、後見人が誰であるかで決まるものではございません」
そこだけは、はっきり言っておく必要があった。
叔父様は鞄を閉じる。紙束を入れ忘れて閉じ、開け直して入れ、また閉じた。手順が乱れている。
出ていくとき、扉のところで一度止まって、こちらを見た。
「お前は変わったな」
「はい」
否定しなかった。
窓から中庭が見える。叔父様が馬車に乗るまでに、御者が二度、手を貸していた。乗り込むときに一度足をかけ損ねている。三年前は自分で乗っていた人だ。
馬車の音が遠ざかってから、クラウスが言った。
「震えている」
「そうですか」
「手が」
見ると、指先が細かく動いていた。自分では分からなかった。
「怖かったか」
「分かりません。ただ、三年ぶんの返事を一度に言ったので、そのぶんかと」
「言い足りないことは」
「ございます。けれど、今日は足りました」
言い足りないまま終えるのが、これほど平気だとは思っていない。全部言い切らないと決着しないのは、決着を相手に預けているときの話である。
クラウスは何も言わず、卓の上の紙束をそろえた。それから、自分の羽根ペンを取り出して、一番上の紙の署名欄に自分の名前を書いた。
末尾が、紙を破りそうな角度で撥ねた。
叔父の名前の下に、わたくしの名前はもうない。




