第六話 一行の人
門の前で馬を降りたとき、外套の肩に霜が降りていた。
夜の間に降りたものが、朝の光でも溶けきらない。北から南へ六日走ると、こういうものが土産になる。
門番が誰何の声をかけ、途中で止めた。顔を覚えていたらしい。三年ぶりに顔を覚えられていることに、多少驚いた。
「旦那様」
「開けてくれ」
屋敷の中は暖かかった。廊下を進むと、外套の肩の霜が溶け始め、布の色が濃くなっていく。歩いた跡に雫が落ちる。後で誰かが拭くことになる。それを考えたのは、たぶん初めてだった。
玄関の広間で、女がひとり立っていた。
三年前より痩せている。姿勢は変わらない。背筋の伸び方に、緊張ではなく習慣が見える。
「お帰りなさいませ」
俺は返す言葉を探した。探している間に、間が空いた。
「戻った」
それだけになった。
三年前もそうである。婚礼のとき、この人に何を言えばよいのか分からず、名前だけ呼んで終わった。以来、機会が来るたびに同じことをしている。
「お怪我は」
「ない」
「では、湯を」
「その前に、話がある」
言った途端、この人の肩の位置がわずかに変わった。身構えたのが分かる。三年ぶりに帰った男の話がろくなものでないことを、経験で知っている構えだった。
そのとき、横から声がした。
「父様」
娘が立っていた。
三年前より背が伸びている。目の高さが変わると、人の顔は別のものに見える。俺は言うべきことを一つも用意していなかった。
「マリカ」
「はい」
「大きくなった」
娘は俺を見上げ、それから何も言わずに三歩近づいて、俺の脛を蹴った。
爪先が骨に当たった。守備隊の若いのに蹴られてもこうはならない。角度を知っている蹴りだった。
「マリカ」
妻の声が飛んだ。飛んだが、止めるにはもう遅い位置からの声である。
「よろしいのです」
娘が下がった。表情は変わらない。
「三年分でございますので」
「……そうか」
「痛うございましたか」
「痛い」
「では、届きました」
娘はそう言って、一歩下がった。
「一度で済ませました。二度はいたしません」
区切りをつけるための蹴りだったらしい。理屈が通っている。この子は母親の理屈の通し方をしている。
「旦那様。まずお風呂でございます」
侍女頭が奥から出てきて、そう言った。俺の外套の裾を見ている。廊下に落ちた雫の列を、たぶん最初から数えていた。
「話は」
「湯のあとでよろしいかと」
この屋敷では、俺の予定を俺が決めていない。
湯から上がると、卓に紙束が置かれていた。
手紙である。封の切られていないものが山になっている。表書きは俺の字だ。ユリアーナ・ヴァレンダール。マリカ・ヴァレンダール。
「三百十二通ございました」
妻が言った。
「使用人頭の部屋にありました。三年ぶんです」
俺は一番上の一通を手に取った。三年前の秋に書いたものだと、日付を見なくても分かる。雪の早い年で、薪の話を書いた。
紙が反っている。詰所の紙は湿気を吸う。乾かしてから書くようにしていたが、間に合わない週もあった。その反りが、そのまま三年ここにある。
「届いていなかったのか」
「一通も」
三年。
毎週、詰所の卓で書いた。書くことがない週も書いた。書くことがないという理由で書かないのは、こちらの都合であって、待つ側の都合ではないと思っていたからである。
そう思っていながら、俺は一行しか書かなかった。
「なぜ、確かめなかったのですか」
妻が聞いた。責める調子ではない。事実を確かめる調子だった。そちらのほうが重い。
「返事が来ないのは、来ないものだと思っていた」
「三年、ずっと」
「そちらも忙しい。俺の手紙に返事を書く義理はない」
言ってから、自分の言い分の薄さが分かった。義理の話をしていたのではない。俺は返事が来ないことを、都合よく片づけていた。片づけておいたほうが、詰所の暮らしが回ったからだ。
妻は何も言わなかった。何も言わずに、一通の封蝋を指で示した。
「色をご覧ください」
濃い赤茶。次の一通も同じ。次も。
「三年ぶん、一度も変わっておりません。蝋は使えば減ります。棒が替われば色も変わります」
「……つまり」
「届いていないのではなく、届く前に集められていたということです。誰かが一度にまとめて保管していた。あなたが出したものは、門を入ってから止まっておりました」
俺は手紙の束を卓に戻した。
三年、この屋敷の中で、俺の名前は書類の署名だけになっていた。誰かがそれを望み、そのために手紙を止めた。誰かの見当はついている。
「グスタフ殿か」
「使用人頭を通しているはずです」
「証拠は」
「ケルナー先生に写しを取らせております。薪の数も、荷の日付も。全部揃うまで、まだ数日」
「その先生は」
「マリカの家庭教師です。先月から入れました」
「教師をつけたのか」
「三年、おりませんでしたので」
淡々と言う。責める調子がないのが、いちばん応えた。この人は俺を責めるための材料を、一つも使わない。
俺は妻の顔を見た。
三年前、俺はこの人を、家を任せるのに都合のよい人だと思っていた。有能で、要求せず、静かで、手がかからない。そう思ったことを、当時は評価だと考えていた。
違った。あれは、費用を計算しなくてよい相手だという意味である。
俺と、グスタフ殿と、どこが違うのか。
「ユリアーナ」
「はい」
「俺は何をすればいい」
妻が黙った。返事を用意していなかったらしい。
「まず、俺が屋敷に戻ったことを叔父上に伝えるか。使用人頭を今日のうちに切るか。それとも、俺が全部引き取って、あなたは何もしないでいるか」
「それは」
「決めるのはあなただ。三年、この家を回したのはあなたで、俺は署名の名前だけを貸していた」
言葉が足りているのか自信がなかった。足りていないなら、足りるまで言えばいい。三年、それをしなかった。
「何をしてほしいか、あなたが決めてくれ。俺は先に決めない」
妻の指が、手紙の束の縁に触れた。触れて、離れた。
「……少し、考えます」
「ああ」
「すぐには答えられません。三年、誰にも聞かれなかったものですから」
その言い方に、俺は何も返せない。
夜、自分の部屋の卓に紙を出した。羽根ペンを取って、詰所でしていたのと同じ姿勢で座る。
書くことは、いくらでもあった。
三年分の言い訳と、確かめなかったことへの弁明と、蹴られた脛のことと、それから、湯気の立つ食堂に椅子が三つ並んでいたことについて。
紙は一枚しかない。
俺は一行だけ書いた。それから、その下にもう一行を足そうとして、手が止まった。二行めの書き方を知らないことに、この年になって気づいた。
明日、直接言えばいい話でもある。
次に書くときは、二行にしようと思った。




