第四話 野育ちと呼ぶ人
リゼットは前触れなく来る。
前触れを出さないことが親しさの表現だと思っている人で、実際には、こちらの支度が整っていない時刻を選んでいるだけである。
「ユリアーナお姉様。お邪魔しておりますわ」
馬車を降りる前から声が届いていた。連れが二人。近隣の娘たちで、リゼットの背後に半歩下がって歩く位置取りが身についている。
「ようこそ。お茶の支度をさせます」
「まあ、お気遣いなく。すぐに失礼いたしますもの」
すぐに失礼する人は、菓子の皿を三度取り替えさせない。
応接に通す。ハンナが茶を運び、下がる前に一度だけこちらを見た。マリカを呼ぶかどうかの確認である。わたくしは小さく頷いた。
呼ばない選択もあった。守るというのは、そういうことだからだ。
けれど、この子は守られることを条件から外している。
マリカが入ってくると、部屋の空気が半拍遅れた。
「まあ」
リゼットが茶器を置いた。
「マリカさん。お元気そうで何よりですわ。お食事、召し上がっていらっしゃるのね」
「ええ。近ごろは朝も」
「近ごろは。まあ」
連れの娘の一人が、扇を口元へ持っていった。笑いを隠す道具として使うには、扇は大きすぎる。
「わたくし、心配しておりましたのよ。この家の躾は、その、独特でいらっしゃるから」
「独特と申しますと」
「ほら、社交のお稽古もなさっていないと伺いましたし。そういうのを、野育ちと申しますでしょう」
言い終えてから、リゼットは自分の言葉の効き目を確かめるように、連れの二人を順に見た。二人が笑った。作った笑いではなく、笑ってよい合図を受け取った笑いである。
三年、この子はこれを一人で受けてきた。
わたくしの手は茶器の把手にかかっていた。かけたまま、動かさなかった。
守らない。約束したのは、こちらである。
マリカは立ったままだった。表情を作りもせず、リゼットの顔を見ている。それから、言った。
「野育ちでございます」
リゼットの扇が止まった。
否定を待っていた顔だった。否定されれば、そんなつもりはなかったと笑って引ける。肯定されると、引き方が分からなくなる。
「わたくしは三年、北の小部屋で暮らしておりました。食事は一日一度で、冷めておりました。教師はおりません。ですから、野育ちという言い方は正確です」
「あの、マリカさん、わたくしはそういう意味では」
「どういう意味でも構いません。ただ、順序を確かめたいのです」
十二歳の声である。声だけが十二歳で、中身が違う。
「わたくしを野育ちにしたのは、大叔父様のご指示です。リゼット様は、そのご指示の内訳をご存じでいらっしゃいますか」
部屋が静かになった。
扇の娘が、扇を下ろした。もう一人は茶器を見ている。笑ってよい合図が、どこからも出てこない。
「……わたくし、家のことは存じませんわ」
「そうですか」
マリカは頷いた。追撃をしなかった。
追撃をしないほうが効くということを、この子は知っている。誰にも教わらずに、隅の部屋から屋敷を見ているうちに覚えたのだろう。
「お茶をお持ちしましょうか。わたくしが淹れます」
「え」
「野育ちですので、淹れ方は自己流でございます。お口に合いましたら、そのときはお褒めください」
リゼットは何も言えなかった。連れの二人が、椅子の上でわずかに座り直す。座り直したほうが、笑ったことを覚えている側である。
マリカは呼び鈴を鳴らさず、自分で厨房へ行き、自分で盆を持って戻ってきた。茶を注ぐ手つきは確かに自己流で、湯を落とす高さが高い。けれど誰も、その高さについて何も言わなかった。
その後の四半刻は、天気と、婚礼の流行の話になった。リゼットは自分の婚約の話を持ち出した。持ち出さずにいられない性分である。
「ロータル家ですのよ。あちらのご次男。お父様が、春までにまとめてくださると仰って」
「おめでとうございます」
「ただ、あちらは少し慎重でいらして。うちの財より、お父様のご身分を見ていらっしゃるみたい。後見人という肩書きは、やはり重うございますものね」
わたくしは茶を一口飲んだ。
肩書き。
叔父様は当主不在の家の後見人である。当主が戻れば消える肩書きで、当主が戻らなければ続く。ロータル家が見ているのは、その肩書きの寿命ということになる。
「重うございましょうね」
わたくしはそれだけ返した。リゼットは肩書きの重さの話だと受け取ったらしく、満足そうに頷いた。
「クラウス様は、いつお戻りですの」
リゼットが、思いついた顔で聞いてきた。実際には思いついたのではなく、この質問をしに来たのだと思う。
「便りがございませんので」
「まあ。三年もお便りがないなんて」
「ええ。三年も」
自分の声が平らに出た。マリカが、こちらを見ないまま茶器を置いた。置き方が丁寧すぎた。
「お可哀想に。お姉様は捨てられたようなものですわね」
「そうかもしれません」
「あら、お認めになるの」
「認めるかどうかを、今、確かめているところですので」
リゼットは意味が取れない顔をする。取れないまま、笑って流した。流せる人は幸福である。
帰り際、リゼットは玄関で外套を羽織りながら、思い出したように言った。
「お姉様。お父様が、近いうちに書類をお持ちになりますって。春までに片づけたい件がおありだそうで」
「承知しました」
「お姉様がいらっしゃると、お父様は本当に助かるとおっしゃっていましたわ。字がお上手だからって」
褒め言葉として言っている。悪気がないというのは、こういうことを言う。
馬車が門を出るまで、マリカは玄関に立って見送った。見送るのは礼儀だからで、姿が消えるまで立っていたのは、たぶん別の理由である。
「マリカ」
「はい」
「あなたが答えている間、わたくしは何もしませんでした」
「約束ですので」
「腹は立ちませんでしたか」
マリカは少し考えた。考えるための沈黙を取れるようになったのは、この十日ほどのことである。
「立ちました。ただ、立った先に行き場がありましたので」
「行き場」
「お継母さまが後ろにいらっしゃいましたから、言葉が前に出ました」
わたくしは返事をしなかった。返事をすると、声が変になる気がしたからである。
ハンナが玄関の扉を閉め、閂を下ろす。夕方の光が廊下の床に細く残っていた。
「奥様。お茶が残っておりますが」
「淹れ直してください。三人分で」
「三人、でございますか」
「ハンナの分も入れて三人です」
ハンナは何か言いかけて、やめた。やめてから、承知しましたと言った。
三年前、この玄関で、同じことを言われたことがあるのだろうか。あったとして、そのときこの子の後ろには誰もいない。
マリカは笑わなかった。笑う必要が、もうなかった。




