第三話 同じ色の封蝋
十六日の夜、納屋の錠は開いていた。
わたくしは中へ入らず、母屋の二階の窓から見ていた。マリカが隣で、同じ角度で外を見ている。子どもを夜更かしさせている自覚はあったが、追い返したところでこの子は自分の部屋の窓から見るだけである。
「出てきました」
「何を持っています」
「麻袋が二つ。片方が軽い」
暗がりで判別できる目をしている。使用人頭のバルトは袋を荷車に載せ、布をかけ、それから納屋の錠を丁寧に下ろした。丁寧なのは、盗んでいる者の手つきである。慌てる者は錠をかけ忘れる。
「明日の朝、帳面を見ます」
「載っておりませんよ」
「載っていないことを確かめるために見るのです」
マリカが少し黙り、それから小さく息を吐いた。呆れたのか感心したのか、判断がつかない音だった。
翌朝、帳面には何も載っていない。十六日の欄は空白で、十七日の欄には麦の仕入れだけが書いてある。数字は整っていた。整いすぎている帳面は、書いた者が何かを避けている。
その日の午後、わたくしはバルトを呼び、屋敷の書庫の目録づくりを命じた。三日はかかる仕事である。彼が書庫にいる三日間、彼の部屋は空になる。
「目録は、グスタフ様のご指示でございましょうか」
そう聞いてきた。この屋敷では、指示の出どころを確かめてから動く習慣がある。
「わたくしの指示です」
バルトは一度だけこちらを見て、それから承知しましたと言った。承知の言い方が、伝票を受け取るときの声だった。
「奥様」
ハンナが鍵束を持ってきた。侍女頭が持つべき鍵を、なぜかバルトが預かっている。それ自体が答えのようなものだった。
「使用人頭の部屋に入るのは、規則の上ではよろしくないかと」
「規則を作ったのは誰です」
「……グスタフ様でございます」
「では規則を確認する必要はございませんね」
ハンナが鍵束を差し出した。渡すまでに一拍あったが、渡す手は震えていなかった。
バルトの部屋は片づいている。寝台の下に酒瓶が三本。棚に領収の控えが数束。それから、寝台と壁の隙間に、木の箱。
「鍵はかかっておりません」
マリカが先に開けた。止める暇がなかった。
中にあったのは、手紙の束である。
紐で十本ほどにまとめられ、封は切られていない。表書きの字は太く、角ばっていて、筆圧が強い。紙が少し反っている。
「父の字です」
マリカの声から、抑揚が抜けた。
わたくしは束を一つ手に取った。宛名は、ユリアーナ・ヴァレンダール。
次の束を取る。マリカ・ヴァレンダール。
その次も。交互に、几帳面に、同じ数だけ。
「何通あります」
「数えます」
マリカは床に座り込み、束を解いて並べ始めた。日付順である。誰にも教わっていない並べ方を、この子は自分でやる。
数え終えるのに、四半刻かかった。
三百十二通あった。
三年は百五十六週になる。宛先が二つで、週に一通ずつ。掛ければ三百十二。一度も欠けていない。
わたくしは一通の封を切った。
紙は一枚。文字は一行だけだった。
「そちらは息災か」
それだけである。日付と、署名。末尾の跳ねが、紙を破りそうな角度で上がっている。
次を開けた。
「雪が早い。薪を早めに」
その次。
「息災か」
その次。
「屋根の南側を見ておけ」
一行。ずっと一行。三年分、全部が一行だった。
「愛想のない人です」
マリカが言った。膝の上で自分宛の束を抱えている。抱え方が、さっきまでと違っていた。
「開けますか」
「……いいえ。まだ」
「そうですか」
「順番に開けます。三年ぶんを一日で読むのは、もったいのうございますので」
そう言って、束を胸に押しつけたまま動かなくなった。
もったいない、という言葉をこの子が使うのを初めて聞いた。取っておく価値のあるものを、この三年、一つも持っていなかったからだと思う。
わたくしは自分の分を並べ直した。並べているうちに、指先が止まった。
封蝋である。
一通めの蝋は、濃い赤茶だった。二通め、三通め、同じ色。十通め、五十通め、百通め。
同じ色だった。
「マリカ」
「はい」
「封蝋の色を見てください。あなたの分も」
マリカが顔を上げ、それから束をめくり始めた。一通、二通、十通。速さが上がっていく。
「同じです」
「三年ぶん、全部ですか」
「全部です」
蝋は消耗品である。棒を溶かして使い切れば、次は別の棒になる。染料の配合が違えば色が変わる。三年のあいだに一度も色が変わらないということは、同じ棒を使い続けたか、あるいは、一度に大量に押されたということになる。
辺境の守備隊長が、三年分の手紙を一日で書いて、一度に押したというのなら。
そんな暇のある職務ではない。
「お継母さま」
「はい」
「これは、父が出したものでしょうか」
問いの意味が、二重になっていた。この束が本物なら、父は三年間ずっと娘に手紙を書いていたことになる。偽物なら、父は一通も書かなかったことになる。
どちらであってほしいかを、この子は口に出さない。
「確かめます」
「どうやって」
「本物なら、届かなかった理由があります。偽物なら、作った者がいます。どちらにしても、間にいる人間が同じだからです」
マリカが手紙の束を膝に戻した。
窓の外で、書庫のほうから鍵の音がした。バルトが書庫を出た音である。三日はかかる仕事を、一日で切り上げたらしい。
わたくしは箱を閉め、元の位置へ戻した。手紙は一通も持ち出さなかった。マリカが自分の分の束から一通だけ抜いて袖に入れたのを見たが、何も言わなかった。
部屋を出て、鍵をかける。ハンナが廊下の端で待っていた。
「奥様。バルトが戻ります」
「ええ」
「お顔の色が」
「悪いですか」
「いいえ。三年ぶんの怒りを、今から数えるお顔でございます」
「数えても、まだ足しません」
「足さないのでございますか」
「足すのは、全部並べ終えてからです。順序を間違えると、取りこぼします」
ハンナが、ほんの少し口元を緩めた。この屋敷に来て、この人の笑うところを初めて見た。
わたくしは自分の頬に手を当てる。冷たい。
その夜、自室の卓に一通だけ広げた。バルトの部屋を出るとき、わたくしも一通抜いている。人のことは言えない。
一行だけの手紙を、灯りに近づける。
そちらは息災か。
三年間、わたくしは一度もこの人から便りがないことを、そういう人なのだと理解していた。理解して、納得して、それ以上考えないようにしていた。考えないほうが、屋敷が回ったからである。
蝋の縁を爪の先でなぞる。乾いてから長い時間の経った、硬い感触がした。
封蝋の色が、三年分すべて同じだった。




