第二話 共犯の条件
朝の食堂に、椅子が二つ引いてあった。
マリカは扉の内側で足を止め、卓の上を確かめてから、それから壁際に立った。
「座りませんか」
「毒の有無を確かめております」
「入っておりません」
「入れる方が、そう仰らないはずがございませんので」
理屈としては正しい。わたくしは自分の皿から一匙すくって口に入れ、噛み、飲み込み、匙を置いた。それから同じことをマリカの皿でもした。
マリカが目を細めるでもなく、ただ観察している。値踏みではなく、記録に近い視線だった。
「五つ数えます」
「どうぞ」
「一、二、三、四、五。倒れませんね」
「遅効性ということもございますが」
「ではその話は、明日の朝にいたしましょう」
マリカが椅子を引いた。座る前に、椅子の脚の位置を少しだけ手前へずらす。逃げやすい角度である。この子はいつでも席を立てるようにして座る癖がついている。
粥は温かかった。今朝の分は、厨房が新しく炊いたものである。
食べている間、マリカは何も言わない。匙の音だけがする。三口めで速さが変わり、五口めで、皿を持つ左手の位置が下がった。前世の面談でも、警戒が解けた人間は最初に手の位置を変える。
「お継母さま」
「はい」
「なぜです」
来た、と思った。
わたくしは献立表を卓に置いた。今朝厨房へ渡した紙の控えである。人数の欄に、二と書いてある。
「わたくしは、あなたを追い出す役を割り振られております」
マリカの匙が止まった。
「叔父様のご計画です。あなたを後継から外し、リゼットの筋を入れる。その実行役がわたくしで、三年かけて仕込みが進んでおりました。食事も、部屋も、教師をつけないことも、全部その一部です」
「存じております」
答えが早かった。
「昨年の秋には」
「もっと前から。父が発つ前からです」
十二歳の口から出る言葉ではない。この子は三年、誰にも言わずにそれを抱えて、隅の部屋で膜の張った粥を食べていた。
この子は状況を知っていて、なお毎朝あの部屋へ戻っていた。逃げなかったのは、逃げ場がないからだ。
わたくしは匙を置いた。
「その役、辞退いたします。代わりに、あなたと組みたいのですけれど」
食堂が静かになった。
窓の外で、庭師が枝を落とす音がした。二回。それから止まった。
「組む」
マリカが繰り返した。言葉の重さを量っている口ぶりだった。
「言葉のとおりです。叔父様の計画を、内側から止めます。わたくし一人では無理です。わたくしはこの屋敷の中を知りません。三年いて、何も知らないまま指示だけ出しておりました」
「知らないというより、見なくてよいことになっていたのでは」
そのとおりである。反論の材料がない。
「あなたは何を差し出せます」
「わたくしの署名です」
マリカの眉が、はじめてわずかに動いた。
「この家の書類は、当主が不在の間、すべてわたくしの手が代わりに書いております。叔父様の計画は、わたくしの手を通らないと紙になりません。わたくしが書かなければ、動きません」
「では、なぜ今まで書いていたのですか」
「書くものだと思っておりました」
言い訳にもならない答えを、そのまま渡した。取り繕えば、この子は一生こちらを信用しない。
マリカは長く黙った。それから匙を置いて、両手を膝の上へ戻した。
「条件がございます」
「伺います」
「一つ。わたくしを守らないでください。庇われた子どもは、次に一人になったとき何もできません。言うべきときは、わたくしが自分で言います」
「承知しました」
「二つ。嘘をつかないこと。都合の悪いことも言うこと。慰めのために順序を変えないこと」
「承知しました」
「三つ」
そこで少しだけ声が止まる。膝の上の手が、袖の縫い目を一度だけ折り返した。
「途中でやめないでください。やめるなら、今この場でやめてください」
三年の内訳が、その一言に全部入っていた。
わたくしは献立表を取り、人数の欄の下に、新しく一行足した。日付を書き、その隣に自分の名を書く。夫の名ではなく、ユリアーナと書いた。この家に来て初めて、自分の名前を書類に書いた。
「では、こちらからも一つ」
「どうぞ」
「わたくしのことは、まだ信用なさらないでください。信用は、結果が出てからで結構です」
マリカの口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかどうか、判断がつかない程度である。
「共犯ですね」
「そうなります」
「悪くない言葉です」
食事のあと、マリカが玄関脇の柱の前で立ち止まった。太い樫の柱で、屋敷の中で一番古い部分だと聞いている。
「母が、ここに刻みをつけておりました」
指の先で、柱の腹を撫でる。目を近づけると、うっすらと横に一本、傷が残っていた。木の繊維がささくれて、指に引っかかる。
「三年前の分で止まっております」
「続けますか」
マリカが顔を上げた。
わたくしは小刀を取ってきて、渡した。自分で持たせるほうが早いと思ったからである。マリカは背を柱につけ、頭のてっぺんに刃の背を当て、手探りで一本引いた。
古い傷から、手のひら一つぶん上だった。
「伸びましたね」
「三年ぶんです」
「では、来年も測りましょう」
マリカは小刀をわたくしに返し、それから、返した手をすぐには引っ込めない。何か言おうとして、やめた形の手である。
「刻みは、去年の分がありません」
「来年から二本刻めばよろしいでしょう」
「そういう計算はいたしません」
生真面目な子だった。柱に手のひらを当てて、木の冷たさを確かめるように少し押してから、離した。
「ハンナを呼んでいただけますか」
「なぜです」
「使用人頭が、毎月十六日の夜に納屋へ行きます。荷が出るのは十七日の朝で、帳面には載りません。三年、一度も欠けたことがありません」
淡々とした報告である。この子は三年間、隅の部屋から屋敷を数えていた。誰に渡すあてもないまま、ただ数え続けて。
「よく見ていましたね」
「ほかにすることがございませんでしたので」
その言い方に、わたくしは何も返せなかった。
ハンナが呼びに応じて来たとき、マリカは自分の口でもう一度、同じ日付と同じ時刻を繰り返した。ハンナの顔から表情が抜けていくのが分かる。知っていた者の顔である。
「奥様。わたくしは、三年前から見ておりました」
「言わなかったのですね」
「言う相手が、おりませんでしたので」
この屋敷では、誰もが誰かの計画の下で黙っている。黙っていることが仕事のようになっていた。
「これからは、わたくしに言ってください」
ハンナは頭を下げ、下げたまま少し長くいる。それから顔を上げ、マリカの空になった皿を下げていった。
戸口でマリカが振り返る。
「お継母さま。明日の朝も、二人分ですか」
「ええ。明後日もです」
「では、毒の話は明日にいたします」
そう言って、廊下の暗いほうへ歩いていった。足音が途中で軽くなる。
共犯という言葉を、マリカは気に入ったらしかった。




