第一話 振り上げた手
わたくしは今、十二歳の子どもを打とうとしている。
右手は肩の高さより上にあった。指はまっすぐ伸びていた。打ち方を知っている手の形だった。
目の前の子どもは、目を閉じていない。
「お継母さま」
その子が言う。まっすぐこちらを見たままだった。
「お早くなさってください。粥が冷めますので」
閉じない子どもは、打たれ慣れている。前世で面談室に座らせた新人の何人かが、叱責の前に同じ顔をした。身構えるのをやめた顔である。
前世。
その二文字が頭の中で像を結ぶまでに、たっぷり三つ数えるほどかかる。人事部に十年。評価表と面談記録、それに退職の書類。三十を目前にして、通勤の電車の中で意識が切れた。
そして今、わたくしはユリアーナ・ヴァレンダールという名の後妻で、二十八歳で、目の前の子どもの継母である。
手が下りる。頬には届かない。
「終わりですか」
子どもが言った。マリカという名前である。声に恨みがない。予定が一つ消えた程度の抑揚。
「お継母さま。用がお済みでしたら、下がってもよろしいでしょうか」
問いの形をしているが、答えを待つ気配がない。この子は、答えが返ってきたためしのない場所で三年暮らしている。
「お待ちなさい」
自分の口から出た声が、思いのほか低かった。
マリカの手には木の匙が握られていた。片づけ損ねたのだろう。匙の先に、白いものが薄く貼りついている。
粥だ。麦の粥。冷めると表面に膜が張り、すくうたびに匙へ貼りついてくる。前世の実家でも、鍋の底に残った分がそうなった。
「食事は、いつからそれですか」
「いつからでしょう」
答えになっていない答えだった。つまり、覚えていられないほど前からということになる。
「お継母さま」
マリカが匙を持ち替えた。
「打つのでしたら、右のほうにしてくださいませ。左は、先週の分がまだ治っておりませんので」
先週。
わたくしはこの子を先週も打っている。記憶が戻る前のわたくしが、この手で。
「誰が」
「お継母さまが」
言い訳の余地を残さない答え方だった。恨みではなく、報告である。報告のほうが、はるかに重い。
わたくしは廊下へ出た。北の突き当たりに、使っていないはずの小部屋がある。扉を開けると、寝台と椅子と、窓のない壁があった。椅子の上に木の盆が置かれ、盆の上の器には、朝の分がそのまま残っていた。
膜が張っている。
この部屋も、この器も、わたくしが指示したものだ。三年前、この家へ来てすぐに。
いや、正確ではない。
嫁いだ月に、叔父様が屋敷へ来た。応接の椅子に浅く腰かけて、茶にも手をつけずに話した。先妻の娘は体が弱い。人の多い場所は障る。食事は静かな部屋で、教師もしばらくは置かないほうがよい。慣例だ、と叔父様は言った。慣例という語を出されると、こちらに反論の材料がなくなる。
わたくしは頷いた。頷いて、指示を出した。
出したのはわたくしの口だ。書いたのはわたくしの手だ。誰かに言われたからではない、と三年間思ってきた。言われる前に、そうするものだと思っていた。
思っていた、ではない。
そう思わされていた。
記憶の底から、もう一つ別の像が浮かんだ。色と音でできた記憶である。少女向けの物語の画面。継娘を虐げ、屋敷の財を傾け、五年後に断罪されて追放される後妻。名前をユリアーナといった。
わたくしだ。
配役は決まっていて、台詞も決まっていて、退場の日取りまで決まっている。ご丁寧に、退場のときの表情まで用意されていた。
前世の職場を思い出す。年に一度、人事評価の季節になると、上から降りてくる分布があった。誰を上げ、誰を据え置き、誰を切るか。決めたのは上で、伝えるのは、わたくしだった。実行役の名前だけが、書類に残る。
同じだ。
「奥様」
ハンナが廊下の角から現れた。この屋敷で最も古い侍女で、先妻の代からいる。
「グスタフ様の使いの方が、正面に」
「叔父様の」
「ご都合を伺いたいと」
都合を伺う、という言い方をする人ではなかった。伺うのは形式で、来るのはいつも決定である。
応接に入ると、使いの男が立ったまま待っていた。座る気がないのは、長居する用ではないからだ。男は革の折り鞄から紙束を出し、卓へ置いた。
「グスタフ様より、こちらを」
一枚めをめくる。領地の穀物取引の受領書。二枚めは職人組合への支払い証。三枚め、四枚め。どれも末尾に署名の欄があり、そこだけが白い。
「例年どおり、奥方様のお手で」
「当主が不在ですから」
「さようです」
わたくしは羽根ペンを取った。インクの壺の縁で余りを落とし、クラウス・ヴァレンダールと書く。夫の名である。三年会っていない夫の字を、わたくしは自分の字より速く書ける。
最後の一画で、跳ねが弱くなった。いつもそうだ。夫の字は末尾を強く跳ね上げる癖があり、そこだけどうしても真似きれない。並べれば分かる程度の差だが、並べる者がいない。
婚礼の日に一度だけ、夫の署名を見た。誓約の紙の隅で、名前の終わりが紙を破りそうな角度で撥ねていた。その一画だけが、あの人の表情より雄弁だった。以来、わたくしは三年かけてその角度を真似そこねている。
紙を伏せて、次の一枚を引き寄せる。
五枚めの受領書に、見覚えのない商会の名があった。穀物の運び賃としては、額が二重に乗っている。
「これは」
「グスタフ様がお決めになった分でございます」
決めた者の名は書かれていない。書かれるのは、下の欄だけである。わたくしはそこにも夫の名を書いた。
「それと、口上を預かっております」
男が背筋を伸ばした。声の調子が、伝言の調子に変わる。
「予定どおりで結構。あの子には、そのうち出ていってもらう」
紙の端を押さえていた指が、そのまま止まった。
あの子。名前を使わないのは、名前で呼ぶと人になるからだ。前世の会議でも、切る側の資料に名前は載らない。人数と年次と、費用だけが載る。
「お返事は」
「叔父様に、承知しましたと」
自分の声が、するりと出た。三年間そう答えてきた口が、勝手に動いた形である。
男が去った後も、わたくしはしばらく卓の前にいた。署名を終えた紙束が、そろえた角のまま光っていた。
この三年、わたくしがしてきたことを数えてみる。屋敷の帳面を締めた。使用人を雇い、辞めさせた。冬の薪の量を決め、社交の返事を書き、当主の名前を代わりに書いた。叔父様は一度も費用を払っていない。払うものだと思ったことがないからだ。
そして、その手で、子どもを一人押しのける段取りまで進めていた。
前世で切られていく側を見送りながら、わたくしは自分を伝達係だと思っていた。決めたのは上だ。わたくしは紙を渡しただけだ。そう考えると眠れたからである。
眠れたことのほうが、今になって薄気味悪い。
北の小部屋の器が浮かぶ。膜の張った粥。閉じない目。
わたくしは椅子から立ち上がり、厨房へ向かった。
料理番は驚いた顔をしたが、何も聞かなかった。この家の使用人は、聞かないことで生き延びている。
「明日の朝は、二人分にしてください」
「二人、でございますか」
「わたくしと、マリカです。同じものを、同じ時刻に、同じ卓で」
料理番は返事をしなかった。手を止め、鍋の縁を布で拭き、それからようやく頭を下げた。
「かしこまりました」
言ってしまってから、指先が冷たくなる。台本にない台詞を口に出すというのは、こういう感覚らしい。
厨房の窓の外はもう暗い。中庭を横切る足音がして、消えた。この屋敷では、夜に誰かが動くことがめずらしくない。誰がどこへ何を運んでいるのかを、わたくしは三年間、一度も確かめなかった。
廊下でハンナが待っていた。何も聞かない顔をしていたが、この人が何も聞かないときは、たいてい全部知っている。
「ハンナ。北の小部屋の寝具を、明日のうちに替えてください」
「北の、でございますか」
「日の入る部屋に移します。二階の東で構いません」
ハンナの手が、前掛けの端をつかんだ。
「奥様。グスタフ様は、なんと」
「叔父様には申しておりません」
「……はい」
はい、の前の間が長かった。この屋敷では、誰が誰の指示で動いているかを、使用人のほうがよく知っている。
夜、寝室で献立表を書いた。毎朝わたくしが書いて厨房へ渡す紙である。人数の欄に、二と書いた。
書きながら考えていたのは、断罪の日のことではない。明日の朝、あの子がどんな顔で椅子に座るのか。それだけを、繰り返し考えていた。
叔父の筋書きの中で、わたくしはまだ従順な継母のはずだった。




