置いていけないやつ
怪鳥が、もう一度低く鳴いた。
岩陰へ身を潜めたまま、ノアは周囲へ視線を走らせる。
巣から少し離れた崖の壁面。
そこへ目が止まった。
「あそこなら……」
小さく呟く。
ノアは鞄から小型灯具を取り出し、続けて写しレンズを手に取った。
刻針を走らせる。
レンズの縁へ、細い刻印を刻み足していく。
淡い光が滲んだ。
隣で、エルが不安そうにその手元を見ている。
「……何するの」
「ちょっと改造」
短く返す。
本来は覗いて使うレンズだ。
だが、灯具の光を通せば、映っている像を外へ投影できるかもしれない。
「エル」
エルの肩が小さく揺れた。
「これ、持ってて」
写しレンズを差し出す。
エルは少し迷ってから、それを両手で受け取った。
「落とさないで」
「……う、うん」
声が硬い。
逃げ出しそうな顔をしているくせに、手だけはちゃんとレンズを握っていた。
「映像消えたら、走って」
エルが小さく頷く。
ノアは灯具を起動した。
刻印が淡く発光する。
次の瞬間、離れた崖壁へ影が浮かび上がった。
巨大な鳥の輪郭だった。
ぼやけた翼が揺れる。
壁を掠めるように、淡い影が滑っていく。
「……うわ」
ノアは思わず目を見開いた。
ちゃんと映っている。
怪鳥の動きが止まる。
大きな目が、ゆっくり崖壁へ向く。
低い唸り声。
翼がわずかに開いた。
次の瞬間、怪鳥の視線が完全にそちらへ逸れる。
ノアは小さく息を吐く。
「……いける」
そのまま岩場を飛び出した。
怪鳥はまだ崖壁を見ている。
ノアは巣へ駆け込み、ガラクタを掻き分けた。
金属片が擦れる。
次の瞬間、指先が青い石へ触れた。
そのままペンダントを掴む。
「取った」
小さく呟く。
その瞬間、ノアは振り返った。
エルと目が合う。
短く手を振る。
エルが、はっとしたように動く。
写しレンズを抱え、その場から駆け出した。
次の瞬間、崖壁へ映っていた影が掻き消えた。
光が途切れる。
「――ッ!」
怪鳥が鋭く鳴いた。
気づかれた。
「走れ!」
ノアは叫び、そのまま岩場を蹴った。
二人で崖沿いを駆ける。
背後で風が唸った。
翼の音だけで、空気が震える。
「速っ……!」
砕けた石が跳ねた。
崖が近い。
その時、エルの足が滑る。
「っ」
身体が傾く。
ノアは咄嗟にその手を掴んだ。
「走って!」
強く引く。
エルの手は冷たかった。
次の瞬間、怪鳥の影が頭上を掠める。
凄まじい風圧に身体が揺れた。
それでも止まらない。
坂を駆け下りる。
足音が乱れる。
後ろでは、怪鳥の鳴き声が何度も響いていた。
それでも、振り返らなかった。
―――
かなり下まで降りた頃には、もう怪鳥の姿は見えなくなっていた。
ノアはその場へしゃがみ込む。
「……っはぁ……」
肺が痛い。
隣では、エルも肩を上下させていた。
しばらく、風の音だけが続く。
やがてノアは息を切らしたまま、小さく呟いた。
「……最悪」
死ぬかと思った。
なのに、少し笑いそうになる。
手の中には、青い石のペンダントがあった。
ちゃんと回収できている。
その時だった。
エルが抱えていた写しレンズの縁が、かすかに明滅する。
「……ん?」
ノアはレンズを受け取った。
縁へ視線を落とし、そのまま動きが止まる。
透明板に、細いヒビが入っていた。
逃げる途中、どこかへぶつけたのかもしれない。
「……やっちゃったか」
小さく呟く。
まだ使えそうではある。
けれど、前よりずっと不安定だった。
「……まあ、完全に壊れたわけじゃないし」
―――
「……マジで取ってきやがったのか」
バルドが低く呟いた。
机の上には、青い石のペンダントが置かれている。
灯りを受けて、石が淡く光っていた。
ノアは椅子へ深くもたれ込む。
「……死ぬかと思った」
「だろうな」
バルドは平然と返した。
「いや、知ってたなら先に言って」
「言ったら受けねえだろ」
「当たり前でしょ」
ノアが睨む。
バルドは小さく鼻を鳴らした。
そのままペンダントを摘み上げる。
古い石を眺める横顔は、少しだけ機嫌が良さそうだった。
ノアは鞄から写しレンズを取り出した。
透明板には、細いヒビが走っている。
縁の刻印も、一部だけ焼けていた。
「……まあ、使えなくはなさそうだけど」
小さく呟く。
バルドが横からちらりと見る。
「壊したか」
「いや、そもそも壊れかけだったし」
「今はもっと壊れてる」
「うるさい」
ノアはレンズを鞄へ戻し、そのまま立ち上がった。
確認したいことがある。
「……行くよ」
エルが顔を上げる。
「どこ」
「北の門」
短く答え、ノアは外へ出た。
夕方の風が少し冷たい。
少し遅れて、後ろから足音がついてくる。
止めはしない。
ノアも、もう何も言わなかった。
―――
北の門へ向かう道は静かだった。
人通りも少ない。
少し先を歩いていたエルが、控えめに前を指さす。
「……あのへん」
ノアは小さく頷き、写しレンズを持ち上げた。
ひび割れた透明板越しに景色を見る。
門の脇。
壁際。
そこに、影が立っていた。
長い髪のようなものが、風に揺れている。
輪郭はぼやけていた。
それでも、そこにいるのは分かった。
ノアはゆっくりレンズを外す。
現実の景色には、誰もいない。
もう一度、覗き込む。
やはり、影はそこに立っていた。
ディオンに似ている。
だが、ひび割れたレンズ越しでは、顔までは分からなかった。
ノアは小さく息を吐く。
「……映り悪いな」
店で見た時は、もっとはっきりしていた。
それなのに、影は薄く滲んだまま揺れている。
「……薄い」
壊れたレンズのせいか。
それとも、残っている痕跡そのものが弱いのか。
確証には足りない。
それでも、北へ向かった可能性は高かった。
ノアはレンズを鞄へ戻し、そのまま歩き出した。
北の門を越えた、その時だった。
後ろの足音が止まる。
ノアも足を止めた。
少し間を置いてから、振り返る。
エルが門の手前で立ち止まっていた。
そこから先へ進めないみたいに、じっとこちらを見ている。
少しだけ距離が開いていた。
置いていけば、それで終わる。
たぶん、その方が楽だった。
ノアは一度だけ、その顔を見る。
「……行くよ」
短く言った。
エルの目が、わずかに見開かれる。
一瞬だけ迷って、それから小さく足を動かした。
門を越える。
離れていた距離が、また少し縮まる。
後ろからついてくる足音は、今度は止まらなかった。




