ついてくるやつ
店を出ると、夜の空気がひやりと頬に触れた。
食事で温まっていた体から、少しずつ熱が抜けていく。
「……じゃあね」
ノアは軽く手を振るように言って、そのまま歩き出した。
少しして、後ろに足音があることへ気づく。
振り返る。
少し離れた場所に、さっきの少年が立っていた。
「……何」
少年の肩がわずかに揺れる。
視線が泳ぎ、少しだけ後ずさった。
「……別に」
小さな声だった。
ノアは気にせず、また歩き出す。
けれど、足音は消えなかった。
一定の距離を空けたまま、ずっと後ろをついてくる。
ノアは軽く頭を掻いた。
―――
宿の前で足を止める。
扉の前でそのまま中へ入ろうとして、ふと振り返る。
宿の灯りが届くぎりぎりの場所で、少年は足を止めていた。
少し離れたまま、それ以上は近づかない。
来れないのが分かっているみたいに、視線だけがこちらを見ている。
ノアは少しだけ黙り、それから肩を落とした。
「……今日だけ」
少年の目が、わずかに揺れる。
ノアはそのまま中へ入り、受付に金を置いた。
「一人、増える」
―――
部屋へ入る。
少年は扉の近くで立ち止まったまま、動かなかった。
「……入れば」
そう言われて、ようやく少しだけ足を動かす。
落ち着かない様子で、部屋の中を見回していた。
ノアは気にせず荷物を置く。
「……とりあえず、体綺麗にしてきて」
奥を指さした。
「そこ、風呂」
少年は風呂場へ近づく。
けれど、入口の手前で足を止めた。
中を覗き込み、壁から突き出た刻印付きの金属管をじっと見ている。
ノアはその様子を見て、小さく息を吐いた。
「……ああ。使えないか」
少年の肩が、びくりと揺れる。
「……ごめんなさい」
反射みたいに謝る。
ノアは少しだけ眉を寄せた。
「違うって」
短く返し、そのまま壁際へ向かう。
刻印へ触れると、温かい湯が流れ落ちた。
「ここ触ると、湯が出る」
今度は反対側の刻印を軽く叩く。
湯が止まった。
「止める時はこっち。分かった?」
少年は少し遅れて頷く。
まだ緊張している。
ノアはそれ以上何も言わず、そのまま外へ出た。
扉が閉まる。
少しして、水音が聞こえ始めた。
ノアは荷物を引き寄せ、中を確認する。
財布を取り出し、服の内側へ仕舞い込んだ。
それから一度だけ、風呂場の扉へ視線を向ける。
「……念のため」
小さく呟いた。
―――
扉が開いた。
少年が出てくる。
髪はびしょ濡れのままだった。
水がぽたぽたと床へ落ちている。
ノアは一度だけ見て、額を押さえた。
「……何それ」
少年が固まる。
「……わかんなくて」
小さな声だった。
ノアは近くに置いていた魔道具を手に取る。
「……じっとしてて」
刻印へ触れる。
風と熱の流れが生まれ、温かい風が少年の髪へ当たった。
肩がびくりと揺れる。
少しだけ後ずさった。
「動くな」
短く言うと、少年は止まった。
温風が当たり続ける。
濡れた髪が揺れ、少しずつ水気が飛んでいく。
張っていた力が、ほんの少しだけ抜けていった。
ノアは一瞬だけ手を止める。
懐かしい、と思った。
それからまた、静かに風を当て続ける。
しばらくして、ノアは手を離した。
「……終わり」
魔道具を置く。
少年はすぐには動かなかった。
少し遅れて、小さく息を吐く。
ノアはベッドへ腰を下ろした。
「……明日、出るから」
それだけ言う。
返事はない。
ノアはしばらく少年を見る。
「名前」
短く問うと、少年がゆっくり顔を上げた。
視線が落ち着かないまま、小さく揺れる。
「……エル」
小さな声だった。
「エルでいい」
付け足すように言われ、ノアは小さく頷く。
「そう」
それだけ返して、視線を外した。
沈黙のあと、ノアはふと思い出したように口を開いた。
「……ねえ」
エルが顔を上げる。
「長髪の男、見なかった?」
「三十代くらいで、魔道具いじってるやつ」
軽い調子だった。
どうせ、当てにはしていない。
エルはすぐには答えなかった。
視線が少し落ちる。
迷っているみたいだった。
「……見た、かも」
小さな声。
ノアの手が止まる。
「……本当に?」
「……分かんない。勘違いかも」
曖昧な答えだった。
また空振りかもしれない。
そう思うのに、
「……どこで見た?」
声だけが、少し早くなっていた。




