終わるな
音は、もう止んでいた。
遅れて耳に残るのは、雪の擦れる音と、崩れた建材の軋みだけだ。
崩落は終わっている。
男は立ったまま浅く息を整えた。
ここまで来た。
十年。
長かった。だが、足りなかった。
これは一度きりだ。
失敗はできない。
崩れた建物の中へ入る。
足場を選びながら、壁の傾きと石の重なり方を見る。
どこが支えになっていて、どこが崩れかけているのか。
それを、一目で読む。
奥へ続く道は、完全に塞がれていた。
男はしゃがみ込み、瓦礫へ手を触れる。
冷たい。
指先で、そのまま石へ刻印を刻む。
荒い刻み方だった。
深さも揃っていない。
だが、今は精度より速度を優先する。
繋ぐ。
支える。
荷重を逃がす。
刻まれた線に光が走った。
積み重なっていた石材が、小さく軋む。
わずかに浮いた隙間へ手を差し込み、無理やり押し広げる。
崩れない。
十分だった。
男は手を離し、その隙間を抜ける。
位置は分かっていた。
崩れた柱の奥。
壁際。
そこで足が止まる。
いた。
出会った頃より、ずっと小さい体が、崩れた石材の隙間に埋もれている。
右足だけが瓦礫の下に挟まれていた。
呼吸は浅い。
顔色も白い。
遅い。
胸の奥で心臓が強く鳴る。
だが、呼吸はある。
まだ終わっていない。
「……生きてるか」
自分でも分かるくらい、声が荒れていた。
返事はない。
男はすぐにしゃがみ込み、周囲を見る。
右足。
圧迫位置。
崩落の重なり方。
想定より深い。
瓦礫へ手をかける。
だが、動かない。
無理に引けば、上から崩れる。
男はもう一度、石へ直接刻印を刻んだ。
今度は支えるための線。
荷重を横へ逃がし、支点を作る。
光が走る。
石材がわずかに浮き、足へかかっていた圧が少しだけ抜けた。
そこで止める。
「まだ抜くな」
短く言い、息を整える。
袋を開き、中から板と刻針を取り出した。
一瞬だけ手が止まる。
呼吸を整える。
刻む。
線を揃える。
余計な歪みを削る。
光が灯る。
「……固定する」
板を足へ当てる。
刻印の線が淡く走り、折れかけた箇所を支え始めた。
形を保持するための刻印。
「今抜く」
瓦礫をずらす。
圧が消える。
それでも、足は崩れなかった。
固定が形を保っている。
男は小さく息を吐く。
「立てるか」
反応はない。
「いい。こっち来い」
腕を掴み、強引に引き寄せる。
軽い。
少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。
外へ出る。
風が強い。
冷たい雪が頬へ当たる。
男は壁の残っている場所へ相手を座らせ、呼吸を確認した。
浅いながらも、さっきよりは安定している。
間に合った。
全身から力が抜けそうになる。
だが、まだ終わっていない。
薄く目が開く。
「……なんで」
かすれた声。
「なんで、来たの」
一瞬だけ、言葉が止まる。
あの時計が繋いだ先で。
十年。
全部、このためだった。
だが、それは言わない。
「終わるな」
それだけ言う。
視線は外さない。
呼吸は安定している。
固定も問題ない。
雪が静かに降り続ける。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。




