誰にでもやる
街へ入った瞬間、空気が違った。
人が多い。
だが、それだけじゃない。
顔が見えなかった。
通りを歩く人間も、露店の店主も、走り回る子どもまで、誰もが仮面をつけている。
露店には色付きの仮面が吊るされていた。
笑っているもの。
無表情なもの。
歪んだもの。
色も形もばらばらなのに、不思議と全部似て見える。
みんな、人の顔を隠していた。
「祭りか」
ノアが小さく呟く。
通りは騒がしかった。
笛と太鼓の音が、通りの奥から響いてくる。
仮面越しの笑い声が、あちこちで重なっていた。
露店の呼び込みが、人波の上を飛び交う。
雪国とは思えない熱気が、人の隙間から溢れていた。
その中で、ノアは視線だけを動かした。
聞き込みできそうな場所を探す。
少し後ろでは、エルが静かについてきている。
人混みの中でも、距離は近かった。
離れない。
「ちょっといい?」
ノアは露店の男へ声をかけた。
仮面を並べている店だった。
「最近、技師見てない? 長髪で、三十代くらいのやつ」
軽い調子で聞く。
男は少し考え、それから首を振った。
「いや、知らねえな」
「そっか」
ノアはそれだけ言って離れようとする。
すると、男が声をかけた。
「姉ちゃん、技師か?」
男がカウンターの下から壺を取り出す。
「なら、これ直せないか?」
小さな浄化壺だった。
水を入れておくと、汚れを抜く生活用の魔道具。
「最近、水が変な味してさ」
ノアは壺を受け取り、裏側を見る。
刻印の一部が薄れていた。
「……これだ」
刻針を取り出し、消えかけた線をなぞるように刻み直す。
淡い光が流れた。
壺の内側で、水が静かに揺れる。
「おっ、戻った」
男が目を丸くする。
「やっぱ技師じゃねえか」
ノアは軽く肩をすくめた。
「まあ、一応」
男が笑う。
「助かった。また壊れたら頼むわ」
「勘弁して」
ノアも少しだけ笑った。
その時、不意に視線を感じた。
ノアは振り返る。
「……エル?」
エルは少し離れた場所で立っていた。
じっとこちらを見ている。
目が合った瞬間、ふいに視線を逸らした。
「……?」
ノアは眉をひそめる。
何か変だと思った。
でも、理由は分からない。
そのまま顔を戻し、次の露店へ向かった。
「最近、北へ向かった技師知らない?」
軽い調子で聞く。
エルは何も言わない。
後ろから続く足音だけが、少し遅れていた。
「試してみないかい?」
別の露店の男が声をかけてくる。
手には、仮面。
「今、流行ってるんだ。これをつけるとね——」
少しだけ声を落とした。
「嘘がつけなくなる」
周りが笑う。
「ほんとかよ」
「さっきもやったけど、確かに変な感じになるんだよな」
ノアは仮面へ視線を向ける。
「……面白いね」
軽く返す。
「お試しどうだい?」
ノアは仮面を受け取り、裏側を見る。
刻印が刻まれていた。
認識。
発語。
誘導。
ノアは眉を上げる。
「……へえ」
言葉を、そのまま口に出しやすくしてる。
「……まあ、いいか」
そう言って仮面をつけた。
少し遅れて、エルも仮面を受け取った。
迷うように指を止め、それから静かにつけた。
視界が少し変わる。
妙な違和感が残った。
「どうだ?」
店主が笑う。
ノアは少しだけ黙った。
「……別に」
そう答えた瞬間、自分で少し引っかかる。
妙に刺がある。
少しして、周囲の声色が変わり始めた。
「お前、その仮面似合ってねえな」
「うるせえよ」
周りが笑う。
「いやでも、前から思ってた」
「今言うなって!」
また笑い声が上がった。
普段なら飲み込むような言葉が、ぽつぽつと零れている。
隣で、エルが小さく口を開く。
「……あんなふうに」
少し間が開いた。
「……誰にでも笑いかけるの?」
ノアは視線を向けた。
「何が」
「さっきの」
ノアは少しだけ考える。
「……ああ。その場の空気でしょ」
あっさり言った。
「普通だよ。仕事なんだから」
エルは視線を落とした。
「……じゃあ、別に」
小さな声だった。
「誰でもよかったんだ」
ノアは眉をひそめる。
「何の話?」
エルは答えない。
視線だけが揺れる。
ノアはそれを見て、小さく息を吐く。
「……そういうの、めんどくさい」
言った瞬間、自分で違和感を覚えた。
思ったことが、そのまま口から落ちた感覚。
指先が仮面に触れた。
「……ああ」
小さく呟く。
「抑え、薄くなるのか」
ノアは仮面を外した。
「エルも外すよ」
それだけ言う。
エルも何も言わずに外した。
空気が戻った。
頭の奥へ貼りついていた感覚が、ゆっくり薄れていった。
仮面を店に返す。
店主は面白そうに笑っていた。
「どうだった?」
ノアは答えず、そのまま歩き出した。
エルも後ろからついてくる。
けれど、少しだけ距離があった。
「……あの技師さ」
後ろから声がした。
別の客だった。
ノアの足が止まる。
「顔隠しててさ、気味悪かったけど」
男は少し笑った。
「腕は、確かだったな」
ノアは振り返った。
「……どこ行った」
短く聞く。
「北の外れだよ。崩れたとこ、あるだろ。そっちの方」
ノアは小さく息を吐いた。
「……そう」
視線が落ちる。
崩れた地区。
人が寄らない場所。
雪の日の記憶が、一瞬だけ過った。
「……あの人なら」
それだけ呟き、歩き出す。
少し遅れて、後ろから足音がついてきた。
けれど今度は、いつもより少しだけ遠かった。




