第8話 音、零なる世界 ep END
たどり着いた砂浜に、一人の少女が佇んでいた。
春の陽光はどこまでも優しく、波は穏やかにキラキラと輝いている。
けれど、そこに響くはずの命の音は、もう彼女には届かない。
「忘却」という名の救済を選んだ島。
大切な約束も、共に笑い合った記憶も、すべては白い砂嵐の中に消えていく。
それでも、僕の心にはまだ、彼女が遺した「味」の記憶が熱く残っている。
これが最後の言葉になるとしても。
世界が彼女を、あの子を忘れてしまったとしても。
僕は彼女の魂が鳴らす、最高に誇り高き「音」を呼び戻したい。
四月六日――。
音の途切れた世界の果てで、僕らはもう一度、真実を味わう。
四月六日――――――
足がもつれそうになりながらも、僕は砂浜へと続く小道を駆け抜けた。
視界が開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、春の柔らかな陽光を反射してキラキラと輝く穏やかな海――。
そして、波打ち際にぽつんと佇む、見覚えのある制服の少女の背中だった。
「……レイナ!」
声を張り上げて名前を呼ぶとレイナが僕を見て涙を流した。
「アオイ……!良かった…もう何も聞こえなかと思った……」
彼女は言う、もう僕を除く誰の声も何の音も聞こえなくなっていたと、防衛隊の声、家族の声すらも。
「なんでだろうね……他所からきたあんたが最後の音ていうのは……でももう明日にはきっと……」
レイナは砂浜に膝を付け泣き崩れた。
「なぁレイナ、お願いがある」
僕はレイナに近づきしゃがみ言った。
「……お願い? こんな時に、何よ……」
レイナは顔を上げず、震える声でそう返した。砂を握りしめる彼女の指先が、絶望の深さを物語っている。僕はその前に膝をつき、彼女の目線に合わせて真っ直ぐに告げた。
「もう一回、レイナのとっておきを食べさせてくれないか」
「……え?」
レイナがゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「何言ってるの……? ワタシ、もう音もまともに聞こえないのよ? 家族の声さえ『砂嵐』になっちゃったの。そんな状態で、まともな料理なんて作れるわけ――」
「作れるよ。だって、お前の手は覚えてるだろ」
僕は彼女の震える手を、そっと、けれど強く包み込んだ。
「ハルナ……いや、コハルに言われたんだろ? 『絶対に最高の料理人になれる』って。その言葉は、島がどれだけ音を奪っても、お前の体の中に刻まれてるはずだ。お前の料理の音は、コハルが大好きだった音なんだろ」
「……っ!」
「お前が耳を塞いだら、コハルがいた証拠が本当に消えちゃう。世界が彼女を忘れても、僕が……僕の舌がお前の味を覚えている限り、コハルとの約束は終わらないんだ」
レイナの唇が、小さく震えた。
「だからさ、レイナ。明日になれば僕の声も聞こえなくなるって言うなら、聞こえてる今のうちに作ってくれ。僕が死ぬまで忘れないような、最高にうるさくて、最高に美味しいやつを」
波の音だけが、静かに僕らの間を流れる。
やがて、レイナは僕の手に力を込めると、グイッと袖で涙を拭った。
「……バカね、あんた。ほんと、とんでもないバカだわ……シオザキ亭に……来て」
「……あぁ。喜んで」
僕は彼女の手を取り、砂浜から立ち上がらせた。
レイナの足取りはまだ覚束なかったけれど、その瞳には、先ほどまでの絶望を焼き切るような、料理人としての意地が灯っていた。
島を覆う静寂の中、僕らは「塩崎亭」へと向かった。
店に入ると、厨房にはまだ朝の準備の残り香が漂っていた。レイナは迷いなく調理場に立ち、エプロンを締め直す。
彼女にはもう、調理器具がぶつかる音も、水が流れる音も聞こえていないはずだ。
けれど、レイナの動きに迷いはなかった。
冷蔵庫から食材を取り出し、包丁を握る。
無音の世界でも手際よく料理が着実に完成に近づく。
それは彼女がこれまで積み上げてきた努力の結晶であり、コハルという少女が「美味しい」と笑ってくれた、たった一つの誇りの形。
「……できたわ」
出てきたのは昨日よりも遥かに仕上がり具合が違うように見えたアジフライ定食だった。
ありふれた料理かもしれない。けれど、そこには彼女が取り戻そうとしたすべての「音」が凝縮されているように見えた。
「いただきます」
一口食べた瞬間、脳裏に強烈な「音」が響いた。
味噌汁を注ぐ音、魚を捌く音、油で揚げる音。
「……最高だ。めちゃくちゃに、うるさいくらい美味しいよ、レイナ、最高な料理人の味だよ」
僕が顔を上げて笑うと、レイナは唇を噛み締め、再び涙をこぼした
「美味しいの……?」
「あぁ、人生で最高の料理だ」
「……っ、う、うあぁぁぁぁ……っ!」
僕が言い切った瞬間、レイナはその場に泣き崩れた。
それは砂浜で見せた絶望の涙じゃない。自分の存在を、そしてコハルとの約束を、今この瞬間にようやく取り戻した喜びの涙だった。
「ワタシ…怖かったの……最高な料理人になる理由を見失って……ある時は味を否定されて」
僕は彼女の嘆きにただ頷いた。
「コハルちゃんいなくなって、ワタシの料理を理解してくれる人がいないと思ってた……」
「そんなことないよ。僕がいる。ミカちゃんだっている。それに……」
僕は店内に満ち始めた、温かな空気を感じながら言った。
「お前が『美味しい』の音を鳴らし続ける限り、理解してくれる人は増えていく。この島がどれだけ忘れようとしても、お前の料理が、食べた人の心に新しい音を刻んでいくんだから」
「……う、うん……っ。そうよね。ワタシが鳴らさなきゃ、あの子との約束が……消えちゃうもんね」
レイナは何度も何度も頷き、ようやく顔を上げた。
その頬を伝う涙は、店の窓から差し込む陽光に照らされて、宝石のように輝いている。
すると、その時だった。
「あら?レイナ帰ってきてたの、それにアオイくんも!まぁ休業日だけどレイナのお友達?なら歓迎よ!」
「……ッ!?お母さん!?」
「レイナ、聞こえるのか!」
なんと、レイナは聞こえなくなっていたはずの母の声が聞こえるようになっていたのだ。
「テレビも、換気扇の音……アオイ、ちょっと一緒に外出て!」
昨日と違い僕の手を強く引っ張り店に外に出される。
「聞こえる……全部、みんなも、風の音も……アオイ!聞こえるよ!」
「ああ、聞こえてる。最高に賑やかで、いい音だ」
僕が答えると、レイナは眩しそうに目を細めて島を見渡した。
商店街の喧騒、遠くで響く工事の音、誰かの話し声――。昨日までは、彼女を追い詰める暴力的な「ノイズ」でしかなかった音が、今はすべて、彼女がこの世界と繋がっている証として鳴り響いている。
レイナは不意に立ち止まると、空を仰いで大きく息を吸い込んだ。
「ワタシ……決めた。もう二度と、耳を塞いだりしない。あの子が残してくれたこの音を、ワタシがもっと大きく、もっと美味しい音に変えてやるんだから!」
その横顔には、もう迷いも影もなかった。あるのは、一人の料理人としての、そして一人の少女としての誇り高い決意だけだ。
「アオイにも、なんでも美味しい思える料理作ってあげるんだから」
「あぁ、約束だ」
彼女の顔にはあの時の絶望に満ちた顔ではなく、自信に満ち溢れた、向日葵のような明るい笑顔が戻っていた。
「約束よ。あんたが『もう食えない』って音を上げるまで、毎日これでもかってくらいの最高を聴かせてあげるんだから!」
そう言って、レイナは少しだけ照れくさそうに、けれど今までで一番綺麗な表情で僕を見た。
ふと視線を落とすと、道端に一輪のハルジオンが、春の潮風に揺れていた。
夢の中で見た、あの静かな野原に咲いていた花と同じだ。
その向こう側に、一瞬だけ、銀色の髪をなびかせた少女が微笑んで手を振った気がした。
(……ありがとう、コハル。もう、大丈夫だよ)
僕が心の中でそう呟くと、彼女の姿は陽光の中に静かに溶けていった。
島が何を忘れさせようとしても、僕の舌が覚えているこの味と、レイナが取り戻したこの「音」だけは、もう誰にも奪えない僕らだけの真実だ。
「約束したんだから、これから味の研究には付き合って貰うだからね!」
「……へ?」
あまりに食い気味なレイナの提案に、僕は一瞬だけ呆けてしまった。
「な、なによ、その顔は。嫌だって言うの?」
「いや、嫌なわけないだろ。むしろ光栄だよ。……でも、毎日って、僕の体が持つのかな」
「何言ってんのよ!浪人生なのにその程度で負けるなら落ちるわよ!」
「おいやめい、それは古傷に障る……」
僕が苦笑いすると、レイナも少しだけ顔を赤くして笑った。
商店街のざわめき。
遠くで鳴るカモメの声。
そして、隣で聞こえる、彼女の少しだけ誇らしげな呼吸。
昨日までの「零」の世界が嘘のように、今はすべての音が愛おしく、そしてうるさく響いている。
「ほら、戻るわよ!もう一品作ってあげるわよ!」
音、零なる世界 END
これにて音、レイナる世界編終了です!
いやぁ!どこかで矛盾してそうで怖いです!
さて次の喪失者は誰になるんでしょうかね、勉強しながら考えます!




