第7話 音、零なる世界 ep3
夜の静寂に響く、電子音と微かな吐息。
電話の向こう側で、彼女は独り、自分だけの「聖域」を守り続けていた。
島全体が静かに色を失い、大切な記憶さえも砂嵐に消えていく中で。
夢の中で見た、舞い散る花びらと、どこか懐かしい少女の影。
「約束」という名の呪縛と、世界から取り残された孤独。
その歪な均衡を打ち破るために、僕ができることは何なのだろう。
言葉だけでは届かない場所がある。
理屈だけでは埋められない欠落がある。
僕はただ、彼女の心が叫び続けている「真実」を追いかけて、春の光の中へ駆け出す。
四月六日、朝。
たとえすべての音が死にゆく世界だとしても。
僕は彼女が鳴らすはずの、最高に「うるさい」明日を信じている。
四月五日 夜――――――
レイナの家の定食屋を後にした僕らその後家に帰った。
僕はずっとレイナが今どんな心情で時を過ごしてるのか気になっていた。
「すみませんナギサさん、レイナさんの電話て知ってたりしませんか……あはは…流石に分からないですよね……」
「分かるわよ〜」
「え、本当に分かるんですか!?」
思わず身を乗り出した僕に、ナギサさんはいつもの
おっとりした口調で、スマホの画面を見せてくれた。
「ええ、彼女も防衛隊の一員だもの。ほら、これが連絡先よ。……でもアオイくん、そんなに慌ててどうしたの? お昼に何かあったのかしら」
「……少し、様子が気になって。ありがとうございます!」
僕はナギサさんにお礼を言うと、逃げるように自分の部屋へ戻り、教わった番号を震える指で打ち込んだ。
呼び出し音が部屋に響く。
トゥルル……トゥルル……。
「……もしもし誰ですか?」
「レイナ俺だアオイだ」
「はぁー!?なんでワタシの電話番号知ってんのよ!!」
「……あ、やっぱり元気な声」
その威勢のいい怒鳴り声に、僕は思わず受話器を耳から少し遠ざけた。
昼間のあの消え入りそうな雰囲気はどこへやら、電話越しの彼女はいつもの「強気なレイナ」そのものだったからだ。
「ナギサさんに教えてもらったんだよ。……その、お昼にああいう別れ方をしたから、気になって」
「ナギサさんね……あのおっとりした顔して、相変わらず仕事が早いわね。……っていうか、わざわざ電話してくるなんて、あんたも相当暇なの?」
軽口を叩く彼女の口調は、一見すれば普段通りだった。
けれど、その言葉の語尾が、微かに震えているのを僕は聞き逃さなかった。
「……レイナ。まだ、僕の声は聞こえてるか?」
僕が慎重に、けれど真っ直ぐに問いかけると、電話の向こう側で一瞬、呼吸が止まったような沈黙が流れた。
「えぇ…でもいつアオイの声が聞こえなくなるかも分からない、今日商店街の人の一部の人の声が聞こえなくなってたの」
「思い当たる原因は?」
「…………コハル」
レイナの口から誰かの名前が挙がった。
「ワタシは約束したの……絶対に最高なら料理人になるって……」
「ちょっと待て、誰なんだコハルて」
「あんたが知らないのは当たり前のことよ……彼女が消えたのは一か月前なんだから、アオイはこの島にいなかったでしょ」
僕は言葉を失った。一か月前、僕はまだこの島にさえ足を踏み入れていなかった。
けれど、レイナの声から伝わってくるのは、そんな時間の壁さえ無意味に思えるほどの、生々しい傷の痛みだった。
「最初はみんなで探してたけど、気づいたら探すのを辞めみんなコハルの話を一切しなくなった…………みんな、諦めたのよ。いなくなった子より、今ある平和の方が大事だって。」
レイナの呼吸が、電話越しでもわかるほどに荒くなる。
「あの子を忘れて笑うみんなの声は、ワタシにはただの『砂嵐』みたいにしか聞こえない。コハルがいない現実を何事もなかったかのように塗りつぶす、暴力的な雑音。……もう何も聴きたくない、何もいらない。そう思ったら、本当に、世界が静かになっちゃった」
……原因は、島が与えた呪いなんかじゃない。
一人だけ取り残された彼女の心が、あまりの孤独と拒絶に耐えきれず、自分を守るために作り出した一種の防衛反応だったんだ。
「でも、料理の音だけは……。あれだけは、あの子が『美味しい』って笑ってくれた時の音だから。それまで消えちゃったら、あの子がいた証明が、この世界から本当になくなっちゃうから……でもそれを蘇らせてくれたのはミカちゃんとそしてアオイよ」
彼女は、存在を抹消された「コハル」という少女の記憶を、料理の音という最後の避難所に閉じ込めて守ろうとしていた。皮肉にも、その強すぎる「思い込み」だけが、彼女の世界に鋭利な音を唯一残し続けている。
「……僕と、ミカちゃんが?」
思わず聞き返した僕に、レイナは震える声で続けた。
「昼間、ミカちゃんがワタシの料理を食べて『美味しい』って言ってくれた。その瞬間、死んでたみたいに静かだったキッチンに、包丁がまな板を叩く音が戻ってきたの。あぁ……ワタシ、まだコハルの好きだった音を作れるんだって。それに、あんたが……アオイが、無理やりワタシの静寂に踏み込んできたから」
電話の向こうで、レイナが小さく鼻をすする音がした。
「ごめん、今日は寝るわ」
「……あ、おい! レイナ!」
返事を待たず、ツーツーという非情な電子音が鼓膜を叩いた。
最後に聞こえた鼻をすむ音と、無理に突き放すような冷たい言葉。
「寝る」なんて嘘だ。
あんな、世界が砂嵐に変わっていくような静寂の中で、一人で平穏に眠れるわけがない。
彼女は今、自分の殻に閉じこもることで、コハルという大切な記憶の灯火が消えないように必死で守っている。
誰の声も届かない、真っ暗な防空壕の中で独りきりで。
その後は僕は勉強をしてたがずっとレイナのことが心配で集中出来なかった、だから僕も寝ることにした。
「……はっ!やっぱマジなのかこの夢は」
僕はまたあの夢の世界にきた、正直ただの夢と思い込みたかったがどうもここまで連続してみるなら信じるしかないのか。
「おーいハルナ、いるか?」
しかしいつもとは違う、ハルナがいる気配が無かった、周囲を見渡しても誰もいない。
それよりも気になるのが今回はまたあのハルジオン広がる野原だった。
「ハルナ!いたら返事してくれ」
僕は大きな声で名前を呼んだ、しかしハルナの姿は現れなかった。
「ここに来ても何の意味もないじゃないか……」
そう僕が独り言をこぼすと、このハルジオンだけの野原の中心に奇妙に立っている桜の木から何かしら音が聞こえた。
『これワタシが作ったの食べて!』
『……美味しい、レイナちゃん絶対に最高な料理人になれるよ』
二人の幼い女の子の声が聞こえる、どちらもどこかで聞いたことがあるような声だった。
その内一人は恐らくレイナ、あと一人は誰だ。
『ほんと!?ワタシ絶対にコハルちゃんがなんでも美味しいて思える料理を作れるような料理人になる!』
『うん、約束』
幼い声から次はちゃんと聞いた事のある声が聞こえた。
『お待たせしました、アジフライ定食です』
『いただきます!……ねぇママこれあんま美味しくない、ママのやつ食べたい!』
『ちょっと店長さん呼んでください!』
(ワタシの料理はダメだったの…)
『うーん、なんかなありきたりだな』
(ワタシの料理は美味しくないの…)
(ワタシの味は理解して貰えないの……)
1つはレイナの声だってすぐわかった、しかしあとの二人は誰だ、もしかすると客だろうか。
レイナの心の中の悲痛の声も聞こえてきた。
『コハルちゃんは生きてるはずみんなで探そうよ!』
『もう2週間も島全体を探していないんだ、もう諦めるしかないでしょ』
『防衛隊の仲間としてコハルちゃんを探して欲しいの!』
『ごめんレイナちゃん、気持ちは分かるけど受け入れるしかない』
(なんでみんな諦めるの……)
『四月三日……今日で1ヶ月…』
『なぁレイナちゃんや、あなた疲れてるのよ、いない人を気にしても意味ないわよ』
(いない人……?忘れてしまったの、生きてた事その物を……)
『はて、誰だったかのう?コハルちゃんねぇ……覚えてないのう』
(嫌だ……聞きたくない、コハルちゃんを諦め、何事も無かったかのように時を過ごして笑う声も……)
(全部……「ノイズ」だ)
桜の木から溢れ出す声の濁流に、僕は耳を塞ぎたくなった。
それはレイナがこの一ヶ月間、一人で浴び続けてきた残酷な言葉の刃。
大切な存在が消えたことへの悲しみ以上に、彼女を追い詰めたのは「忘れ去られる」という絶望だったんだ。
(聞きたくない……コハルがいない世界なんて、全部砂嵐になればいいのに……!)
最後に聞こえたレイナの悲鳴のような独白。
その瞬間、周囲のハルジオンが一斉に震え、桜の木から花びらが猛烈な勢いで舞い散った。視界が真っ白に染まる。
「……ハルナ! どこだ! 出てきてくれ!」
僕は叫んだ。この夢の主である彼女なら、何かがわかるはずだ。
しばらくして、花吹雪の向こう側に、いつものようにぽつんと立つ少女の影が見えた。
『……アオイくん。そんなに大きな声を出さなくても、聞こえてるよ』
現れたハルナの表情は、唇より上を見ることができない僕だがいつもの悪戯っぽさが消え、ひどく冷淡で、それでいて泣き出しそうなほどに悲しげそうに見えた。
「ハルナ、今の声は……レイナの記憶なのか? 」
「少し思い出した、この島の事を……消えたものの隙間を埋めようとするの、この島は。そうしないと、残された人たちの心が壊れちゃうから。でも、レイナちゃんだけはそれを拒んだ」
ハルナはいつもよりも真剣な口調で喋る。
「私は彼女、レイナちゃんを知っている、でもどんな関係だったかは思い出せない……でもね彼女を戻せる可能性が1つあるよ」
「頼む教えてくれ!」
ハルナが僕の方に体を向け、口角が曲げ穏やかな声で言った。
「アオイ、君がまたコハルちゃんが言ったあの言葉言ってあげるんだよ、今まであの言葉でアオイちゃんは最高の料理人を目指すという目標に向かってこられた、でも今あの言葉を言った本人はいない、だから君が代わりに埋め合わせるの」
「……僕が、コハルの代わりに?」
思わず聞き返した僕に、ハルナは小さく頷いた。その拍子に、彼女の銀色の髪がさらりと揺れる。
「あの子を縛っているのは、もう誰にも届かない『約束』。そして、いつかの人に否定された『味』。レイナちゃんが耳を塞いだのは、世界があの子の存在も、あの子と交わした約束も、全部なかったことにしようとしたからだよ」
ハルナの声は、風に乗って僕の心に直接染み込んでくるようだった。
「アオイ。君だけが、この島で唯一『コハルちゃんを忘れた人たち』の輪の中にいないの。君が、あの子がかつて言ったあの言葉を……心からの『美味しい』を届けることができれば、それはただの感想じゃない。世界がコハルちゃんを否定しても、君が彼女の存在を肯定する『証拠』になる」
……そうか。
レイナが求めていたのは、同情でも励ましでもなかった。
「コハルという子がいて、彼女と交わした約束は今も生きている」という、絶対的な現実の肯定だったんだ。
「でも、ハルナ……。僕は、あのアジフライを食べて『美味しい』って言ったよ。ミカちゃんだって。それでも彼女の耳は……」
「言葉だけじゃ足りないんだよ、アオイ。あの子が自分自身にかけた呪いは、そんなに生易しくない。……彼女が一番耳を塞ぎたかったのは、『誰にも理解されない孤独な自分』の心の声なんだから」
ハルナは一歩、僕に近づき、僕の胸元を指差した。
「きっとアオイなら大丈夫だよ、だからレイナちゃんを助けて、お願い」
「……あぁ。任せておけ」
僕はハルナの指差した自分の胸元を、強く握りしめた。
ここにあるのは、コハルという少女を知らない僕の心だ。けれど、だからこそ、島という巨大な忘却の渦に飲み込まれずに、レイナの本当の叫びを聞き取ることができる。
「アオイ。……あの子、今きっと泣いてるよ。独りぼっちの、音のない世界で」
ハルナの声が、次第に遠ざかっていく。
視界を埋め尽くしていた白い花びらが、光の粒となって弾け、夢の世界が急速に崩壊し始めた。
「待て、ハルナ! お前は……!」
最後に何かを言いかけたハルナの唇が、穏やかに弧を描く。
その瞬間、猛烈な重力が僕を現実へと引き戻した。
「……っ!」
ガバッと跳ね起きると、そこは自分の部屋だった。
心臓が早鐘のように鳴り、全身が嫌な汗で湿っている。
時間は8時を過ぎていた、家にはミカちゃんはおらずナギサさんは出張でまだいなかった。
「……書置きか」
[お兄ちゃん!予定があって家をあけます!ご飯は食卓に置いてあるので残さず食べてくださいね!]
「……ミカちゃんのやつ、朝から忙しいな」
卓上に並んだ朝食を、僕はかき込むようにして胃に流し込んだ。
正直、味なんてほとんど分からなかった。頭の中にあるのは、昨夜のレイナとの電話、そして夢の中でハルナが残した「お願い」のことばかりだ。
「心からの『美味しい』……か」
ただの言葉では足りない。彼女が自分自身にかけてしまった「世界との断絶」を解くには、彼女が守り続けているコハルとの約束そのものを、僕が現実として繋ぎ止めなきゃいけない。
僕は食器を片付けると、すぐに家を飛び出した。 四月六日の朝。島は相変わらず静かで、春の陽光が残酷なほど穏やかに降り注いでいる。けれど、僕の足取りは重かった。
そして塩崎亭付き僕はレイナに会おうとした。
「すみません、レイナいますか?」
「あら、アオイくんじゃない、ごめんね今日は休業日なのよ、あ、レイナは朝からどこか行っちゃったみたいで多分お昼には帰ってくるんじゃないかしら」
「そうですか……分かりました。ありがとうございます」
レイナのお母さんに軽く会釈をして、僕は店を後にした。
お昼まで、あと数時間。
けれど、今の僕にはその数時間がとてつもなく長く感じられた。
「朝からどこへ行ったんだ、レイナ……」
宛てもなく歩き出す。
ふと、昨日の商店街の様子を思い出した。一部の人の声が聞こえなくなっていたという彼女の言葉。そして夢の中で聞いた、島の人々の「忘却」の声。
「あの誰もいない、砂浜か…」
僕は走り続けた、昨日ミカちゃんと行ったあの砂浜に。
ここまで読んで下さりありがとうございます!
次のエピソードでレイナ編が最後です!




