第4話 歩み知る、春の心延、行く先は、未だ見えずとも
賑やかな防衛隊の面々と、夕暮れの展望台で交わした「お兄ちゃん」という約束。
灰色だった僕の浪人生活は、根大島の鮮やかな色彩に染まりつつあった。
けれど、目を閉じれば現れる、白く透き通った商店街。
名前を失った少女に僕が贈った、『ハルナ』という名。
夢と現実、二つの場所で交わされる「約束」が、
止まっていたはずの僕の時間を、少しずつ動かし始める。
四月三日。
昨日の賑やかさを胸に、僕はまた、自分の「歩幅」で歩み出す。
四月三日――。
今回はあの夢を見ることもなく、穏やかな朝を迎えた。
僕は少しの物寂しさを覚えながらも、顔を洗うために部屋を出た。
「あ、お兄ちゃん! 起きましたか!」
廊下に出るなり、待ち構えていたかのような元気な声が響く。
声の主はミカちゃんだ。その表情は、昨日までの怯えた様子が嘘のように明るい。
「おーう、おはよう。ミカちゃんの声で目が覚めたよ、ありがとう」
「お安い御用です! お兄ちゃんは寝坊助さんですね!」
ミカちゃんはどこか得意げに腰に手を当て、えっへんと胸を張った。昨日まで僕の視線から逃げていた彼女とは、まるで別人のようだ。
「お兄ちゃん、顔を洗ったらすぐリビングに来てくださいね! お母さんがもう朝ご飯作って待ってますから!」
パタパタと小走りで去っていく彼女の背中を見送りながら、僕は洗面台に向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。手のひらから伝わる刺激が、心地よく脳を覚醒させた。
(お兄ちゃん、か……)
鏡の中の自分は、まだ少し寝ぼけた顔をしている。
十八歳の浪人生。昨日から始まった、血の繋がらない妹との新しくて不思議な生活。
タオルで顔を拭いリビングへ向かうと、そこにはナギサさんが微笑みながら立っていた。
「おはようアオイくん。よく眠れたかしら?」
「おはようございます。はい、ぐっすりでした」
「それはよかったわ。さあ、座って。今日はミカが朝から張り切ってお手伝いしてくれたのよ」
テーブルの上には、炊き立てのご飯と味噌汁、そして脂の乗った焼き魚。
ナギサさんの表情も、昨日よりずっと晴れやかに見えた。
「あらあら、すっかり懐いちゃってるわね」
「えへへ、一人の家族として見てくれてるようで嬉しいです」
「お母さん、お兄ちゃん、早く食べましょ!」
「「いただきます!」」
三人の声が重なり、賑やかな朝食が始まった。
「……ん! このお味噌汁、すごく美味しいです」
「本当!? それ、わたしがお味噌を溶いたんですよ!」
ミカちゃんが身を乗り出して、誇らしげに教えてくれる。
「へぇ、ミカちゃんが。どうりでいつもより元気が出る味だと思ったよ」
「もう……お兄ちゃんは褒めすぎですっ!」
照れ隠しに焼き魚を一生懸命つつく彼女を見て、食卓に温かな空気が流れる。ふと視線を向けると、ナギサさんと目が合った。彼女の穏やかな眼差しは、僕に「ミカを救ってくれてありがとう」と告げているような気がした。
昨日までの不安や、浪人生という重圧が、この瞬間だけは少しだけ軽くなる。
「今日はお兄ちゃん、何をするんですか?」
「まあ、勉強かな。とりあえず十二時までは」
「その後は?」
「うーん。もう一回、一緒に島を回っちゃう?」
「いいですね! 行きたいです!」
ミカちゃんが身を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせる。それを見ていたナギサさんが、お茶を一口飲んで提案した。
「それなら、ミホちゃんのところの神社に行ってみたら? 彼女、都内の有名私立大学を現役で卒業して戻ってきたの。勉強のアドバイスもくれると思うわよ」
有名大学を、現役で。
その言葉に一瞬だけ劣等感が疼いたが、それ以上に、こんな小さな島にそんな才女がいるという驚きが勝った。
「学業成就のご利益もありますし、ミホさんはとっても優しいんですよ!」
ミカちゃんの熱烈な推薦もあり、正午に神社へ行く約束をして、僕は自室へと戻った。
(よし、張り切って勉強するぞ!)
ペンを取り、今日は古文の勉強を始めた。神社へ行くという連想から選んだ、自分でも単純な動機だとは思う。けれど、今の僕にはそんな小さなきっかけが重要だった。
『む・ず・じ・しむ・まほし……』
カタン、とししおどしが庭で音を立てる。
静寂の中に響く規則正しいリズム。次第に古文特有の言い回しが、波の音と混ざり合って脳に染み込んでいく。気がつけば、ノートの数ページがびっしりと僕の筆跡で埋まっていた。
――キン、コン、カン、コン。
島に正午を告げるチャイムが響き渡った。
『根大防衛隊メンバー、三雲リョウタが12時をお知らせするぜ!!』
スピーカーから流れてきたのは、昨日僕を木刀で「歓迎」したあの少年の威勢のいい声だ。
「……あいつ、放送ジャックでもしてるのか?」
思わずツッコミを入れながらペンを置く。
「お兄ちゃーん! 十二時ですよ! リョウタさんの変な放送、聞こえましたか?」
部屋に入ってきたミカちゃんがクスクスと笑う。どうやら希望者の中からランダムで選ばれる当番制らしい。
僕は苦笑いしながら立ち上がり、外出の準備を整えた。
「おーいミカちゃん、準備できたよー」
玄関に向かうと、ミカちゃんは昨日の清楚なワンピースとは打って変わり、アクティブな装いだった。
白いノースリーブのブラウスに、薄手のサマーニットを肩にかけ、デニムのショートパンツからは健康的な脚が伸びている。
「あはは、ミカちゃん。今日は昨日よりずっとアクティブだね」
「ふふん! 今日は結構歩きますからね! ほら、お兄ちゃん、早く早く!」
今の彼女は、お気に入りの場所へ大好きな人を連れて行きたくて仕方ない子犬のように、全身でワクワクを表現している。
僕は思わず頬が緩むのを感じながら、彼女の差し出した手を握った。
紗倉神社への道中、歩き始めて十分ほど経った頃だった。
「むむむむむむむ……」
僕の視線の先に、全身を真っ白な布で覆い隠した奇妙な「何か」が立っていた。
布の下からは細い脚が覗き、地面を踏み締めている。
「ミカちゃん……あれは、なに?」
「あー、あれはメジェド様です! 島でたまに見かける謎の人なんです。詳細はわたしもわかりません!」
あまりにシュールな光景だが、そのメジェド様はある一点を凝視して唸っていた。視線を追うと、木の上で一匹の三毛猫が降りられなくなり、心細そうに鳴いている。
「む、むむ……っ!」
メジェド様は意を決したように、布を揺らしながら木に登り始めた。布の隙間から細く白い腕が伸びる。だが――。
「むー……ヒャッ!?」
案の定、引きずる布が足に絡まったらしい。短い悲鳴と共に、メジェド様がバランスを崩して落ちてくる。
「危ない!」
僕は反射的に駆け寄り、その白い塊を正面から受け止めた。
腕の中に飛び込んできたのは、驚くほど軽くて柔らかな感触。
「だ、大丈夫……?」
「ふぇっ……!? あ、あう、あぅ……っ」
布の中から漏れたのは、パニックに陥ったような可愛らしい女の子の声だった。彼女は僕の腕の中で石のように硬直していたが、次の瞬間、弾かれたように飛び退いた。
「あ……あ、アリガとうございますぅぅ!!」
感謝の言葉を叫びながら、彼女は脱兎のごとく逃げ去ってしまった。肝心の猫は、その騒ぎに驚いたのか自力でスルスルと木を降りていた。
「……行っちゃった。やっぱり不思議な人ですね、メジェド様」
「追い詰められて、降りるタイミングを失ってたんだろうな、猫も」
やれやれと苦笑いしながら、僕たちは再び歩き出した。
やがて、潮の香りに混じって瑞々しい木々の匂いが強くなってきた。
視界が開けた先には、天に向かって伸びる立派な石段。一段ずつ踏みしめるごとに、下界の喧騒が遠ざかり、静謐な空気が僕たちを包み込んでいく。
「到着しました! ここが『紗倉神社』です!」
朱色の大きな鳥居をくぐると、拝殿の前で一人の女性が竹箒を手にしていた。
真っ白な小袖に、鮮やかな緋袴。さらりと流れる紫髪。
「あらー、ミカちゃんじゃない。お久しぶりね」
落ち着いたアルトの声。顔を上げた彼女は、知性と慈愛を形にしたような、美しい大人の女性だった。
「ご紹介します! 昨日からおうちに新しく来た、お兄ちゃんのアオイさんです!」
「初めまして、アオイといいます」
緊張して頭を下げる僕に、ミホさんはふわりと微笑んだ。
「あなたがアオイさん。アズサちゃんからお話は伺っていましたわ。……18歳ということは、大学に?」
その質問は、僕の古傷に触れる。
「いえ……実は浪人していて。来年の春に向けて勉強中なんです」
視線を落とす僕に、ミホさんは責めるような響きを微塵も見せず、包み込むような声音で言った。
「少し、自分を追い詰めすぎてはいませんか? ……一番大切なのは、自分の歩幅を知ることですわ」
「自分の、歩幅……」
「ええ。学びは本来、誰かと競うものではなく、自分の中の未知を既知に変えていく尊い営み。……もっとも、私みたいに卒業しても、本来いるべき場所から引き剥がされることだってありますけれどね」
一瞬だけ、彼女の瞳に鋭い「痛み」のような影が走った。
有名大学を卒業し、エリート街道にいたはずの彼女がなぜ島に戻り、巫女をしているのか。その理由の一端が、今の重い言葉に沈んでいた。
「……ミホさん。もし僕でよければ、いつでもお話を聞きます」
自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。劣等感を感じていたはずの「高学歴」という肩書きが、今は彼女が抱える重荷のように見えて、放っておけなかった。
「ふふ、頼もしいですわね。ありがとう、アオイさん」
ミホさんは僕の頭を優しく撫でた。その手は温かく、けれどどこか儚い。
「社務所で休憩しましょうか。お茶を淹れますわ」
社務所の和室で、ミホさんは茶器を準備しながら昔話を少ししてくれた。
「ミホさんは、防衛隊の皆さんとお知り合いなんですか?」
「ええ、私も元防衛隊メンバーで、元リーダーでしたの。5年前までは木刀を持って島中を駆け巡っていましたわ」
今のおしとやかな姿からは想像もつかない。
「今のリーダーは誰なんですか?」
「……今は、アズサさんが『臨時リーダー』を務めている形ですね。……すみません、今はこれ以上は」
ミホさんの声が少しだけ低くなった。
その瞬間、お茶を飲んでいたミカちゃんの動きがぴたりと止まる。
(臨時リーダー……?)
「臨時」ということは、本来そこに立つべき「本当のリーダー」が他にいるということだ。
「……ミカちゃん?」
「あ、あはは……ごめんなさいお兄ちゃん! ちょっと、お茶が熱くて!」
ミカちゃんの持つ湯呑みが、わずかに震えている。ミホさんは何も言わず、ただ静かに彼女の湯呑みにお茶を注ぎ足した。その表情は、どこか祈るような厳かさを湛えていた。
この島に漂う、誰かの帰りを待っているような、けれど諦めているような不思議な空気。
今の彼女にそれを問い詰める勇気は、僕にはなかった。
「さて、学業成就のご祈祷をしていきましょうか。神様にお願いする以上に、自分の心に『決意』を刻むために」
拝殿の前で、僕は目を閉じ、手を合わせた。
(第一志望合格。そして――この島の皆が、また心から笑えるようになりますように)
気づけば、隣で静かに祈るミカちゃんの横顔を思い浮かべていた。
「また心が落ち着かない時は来てくださいね。待っていますから」
ミホさんの温かな言葉に見送られ、僕たちは石段を下りた。
登る時よりも、足取りがずっと軽くなっている。
「自分の歩幅を知る」
その言葉が、焦燥感でガチガチだった僕の心に、ゆっくりと溶け込んでいった。
「お兄ちゃん、次は砂浜に行きませんか! 海を見ましょう!」
ミカちゃんの提案で、僕たちは白い砂浜へと向かった。
やがて視界が開け、午後の陽光を反射してキラキラと輝く砂浜が広がった。
「おお、綺麗だ」
「広い海を見ると、悩み事が小さく感じる気がします」
二人で並んで波を眺めていると、砂浜に一人、制服姿の青髪の少女が座っていた。
「あれ、レイナさん?」
「……っ!? 誰っ!? ……なんだ、アオイか」
驚いた拍子に何かを隠す仕草をしたが、彼女はすぐに力を抜いた。
昨日見かけた凛々しさはなく、透き通った緑色の瞳は、ただ海を虚ろに見つめている。
「昨日ぶりです、レイナさん。こんなところでどうしたんですか?」
「……別に。ただ海を眺めてただけ」
僕はふと、強烈な違和感を覚えた。
彼女の目の前では、激しく白波が立ち、岩にぶつかる大きな音が響いている。なのに、レイナさんはまるでお通夜の席にでもいるかのように、静まり返った顔をしているのだ。
「……いい波の音ですね」
僕の言葉に、レイナさんの肩がびくりと跳ねた。
「…………そうね」
その声は、ひどく掠れていた。彼女は自分の耳を、自嘲気味に指先でなぞる。
「レイナ! 波、波が来るぞ!」
大きな波がこちらへ迫っている。本来なら誰でも気づくような轟音。それなのに、レイナさんは無反応だった。
「え……? って、はぁー!?」
僕は慌てて彼女の腕を掴み、陸の方へ引き寄せた。直後、さっきまで彼女が座っていた場所を、白い飛沫を上げた大きな波が飲み込んでいった。
「……あぶないわね。あんた、急に何すんのよ」
「何って、波がすぐそこまで来てたんだよ! 結構な音がしてたのに、聞こえなかったのか?」
「…………聞こえてたわよ。ただ、考え込みすぎて……そう、考えすぎ。あんたに心配されるようなことじゃないわ」
レイナさんは強がって見せたが、その瞳はひどく泳いでいた。
「帰るわ。じゃあね」
彼女は僕の手を振り払うと、砂を払うことも忘れたまま、逃げるように去っていった。
「……レイナさん、どうしちゃったんだろう」
ミカちゃんが不安そうに僕の袖を引く。
「僕たちも帰ろうか。……もうすぐ日が暮れる」
「はい。手を繋いで帰りましょう、お兄ちゃん」
再び手を繋ぎ、僕は背後に残る波の音を聞きながら歩き出した。
ちょっと時間かかっちゃいました!筋肉痛やらバイトやらであんまり書けませんでした笑
それでは次回かそのまた次回からは喪失編に突入します、防衛隊の各それぞれのエピソードが書かれます、一人一人の魅力を知れる章となっていますのでお楽しみに!
女性陣に至ったては後ほどIFルート?としてその子たちの恋愛ルートを書く予定ではあります、それもお楽しみに!




