第2話 凪の風と海の空
二月。大学不合格の通知を受け取ったあの日、僕の視界は滲み、世界から色が消えた。
進学校ではない高校の卒業式。一足先に『次』へ進む仲間たちの笑い声を聞きながら、僕は一年間の『空白』という孤独を背負うことになった。
そんな僕に母が提案したのは、離島・根大島での生活。
母の親友である月見里さんの家で過ごす、一風変わった浪人生活の始まりだった。
島へ向かうフェリーの中で出会った不思議なおじいさんは、僕にこう言った。
「余裕があったら、気にかけてやってくれ」
その言葉の意味を考える間もなく、僕は深い眠りの中で、奇妙な夢を見る。
視界一面に広がる、ハルジオンの野原。一本の大きな桜。
そこに立っていたのは、銀髪に白いワンピース、大きな麦わら帽子を被った――顔の見えない少女。
彼女は震える声で、誰かの名前を呼んでいた。
アナウンスによって残酷に引き剥がされた夢の余韻。
耳の奥に張り付いた少女の声を抱えたまま、僕は根大島の土を踏む。
突き抜けるような青空の下、僕の止まった時間が、静かに動き出そうとしていた。
四月一日。和暦が丁度変わる日に、僕は根大島にやってきた。
ここで僕は一年間、浪人生として過ごす。今はその下宿先である、母の親友・月見里凪彩さんの家へと向かっているところだ。
道中、島の人たちに何度か声をかけられた。「ここでしばらく暮らすんだ」と言うと、皆が温かい言葉と笑顔で歓迎してくれた。
歩き始めて三十分ほど経っただろうか。自宅を出てから計八時間をかけ、ようやく目的地である月見里家に到着した。
和風な平屋に少し広い庭があり、中にはししおどしが置かれている。気品とおしとやかさの漂う家だった。
(緊張するな……)
意を決してドアをノックする。中から「バタバタ」と騒がしい足音と、静かにドアへ向かう足音の二つが聞こえてきた。
ガチャリ、と重厚な木のドアが開く。
「あらーいらっしゃい。コユキから聞いたわ、アオイくん……よね?」
出迎えてくれたのは、どこか既視感のある人だった。銀髪という点に何か思い当たる節があったが、僕が知っている記憶よりも髪は少し短かった。
「こ、こんにちは!今日からお世話になります、浅葱碧唯です。何卒よろしくお願いします!」
「あらまぁ、そんなにかしこまらなくてもいいのよ~。ほら入って、長旅で疲れたでしょ? リビングで休んでていいわよ」
お邪魔します、と玄関をくぐると、家の中は古い木材の落ち着く香りがした。
ナギサさんに促されるままリビングへ足を運ぶと、そこには激しい足音の主であろう、茶髪ツインテールの少女が座っていた。しかし、僕と目が合った瞬間、彼女は別の部屋へと逃げ込んでしまった。
バタン! と奥の扉が閉まる音がリビングに響く。
「……えぇ、僕なんか嫌われるようなことしたかな」
「ふふ、ごめんなさいね。あの子、人見知りが激しいのもあるけれど……たぶん、驚いちゃったのよ」
ナギサさんはクスリと、でもどこか寂しげな色を混ぜて笑った。
「あなたの髪の色、あの子のお父さんとよく似ているから。……今のアオイくんと同じ、綺麗な茶色だったの」
「だった」という過去形に、何か訳ありな気配を感じて、僕はそれ以上深く聞くのをやめた。
案内されたのは十畳ほどの、一人で過ごすには十分すぎるほど広い和室だった。
「こんなに広い部屋を用意してくれるなんて、ありがとうございます、」
「いいのよ。そっちの方があの人も喜ぶわ……」
その一言に、部屋の空気がふっと温度を下げたような、不思議な静寂が流れた。
聞き返そうとしたけれど、ナギサさんは「晩ごはんまでには呼ぶからね」とだけ残して、部屋を後にした。
一人残された空間。畳の上に荷物を置き、深く息を吐き出す。
窓の外では、庭のししおどしが「カタン」と規則正しい音を立て、僕の不安な鼓動を落ち着かせてくれるようだった。
「さて、荷物を整理して勉強しようか」
使い込まれた英単語帳、厚みのある赤本、そして志望校の名前が書かれたノート。
無機質な勉強道具が並ぶと、この和室が少しずつ「僕の居場所」に書き換えられていくような気がした。
バタンッ!
突然、閉めたはずのドアが少し開いた。
不審に思って部屋を出てみると、隣の部屋の角から少女がこちらを覗いていた。
「あ……」
「みゃっ!?」
驚いて顔を隠す彼女に、僕は努めて優しく声をかける。
「こ、怖くないよー。あーあ、片付けで疲れちゃったな。リビングで休もうかなー」
わざとらしく独り言を言いながらリビングへ向かうと、案の定、背後から「トトトッ」と控えめな足音がついてきた。計画通りだ。
ソファーに座ると、少女は少し距離を置いてこちらを凝視してくる。
「ミカ、何してるの? アオイくんは怖くないわよ」
ナギサさんに促され、彼女はモジモジしながら僕の近くまでやってきた。
「み、海夏……11歳……」
「僕は浅葱アオイ、18歳。一年間よろしくね」
挨拶が終わると、彼女は再び自分の部屋へ逃げ込んでしまった。
「……ふぅ。嫌われてはない、のかな?」
「大丈夫よ。あぁ見えて前は手に負えないくらい明るかったんだけど……色々あってね。よかったら、ミカにたくさん話しかけてくれると嬉しいな」
ナギサさんの縋るような眼差しを、無下にはできなかった。
夕食前、手伝いを申し出た僕に、ナギサさんは「ミカとお話してきて」と背中を押した。
ミカちゃんの部屋の前で声をかける。
「や、やっほー……ミカちゃん」
中から騒がしい音が聞こえ、慌ててドアを開けると、布団に包まったミカちゃんがいた。
「みゃっー! な、何の用ですか!?」
驚いてベッドから落ちたらしい。散らばった学習ドリルを拾い上げると、一つだけ使い込まれた日記が混じっていた。
僕は不審者に間違われないよう気をつけながら、東京から持ってきたお菓子を差し出した。
「餌付け作戦」は成功だった。布団から這い出してきたミカちゃんは、お菓子を口に含むと「んー!」と歓喜の声を漏らして震えている。
「お兄ちゃんは怖くないから、お話しない? 家族みたいなものだしさ」
ようやく彼女は机の前に正座してくれた。
「あ、あの……お菓子、美味しかったです」
「良かった。もしよかったら、明日、島を案内してくれないかな?」
勇気を出して誘うと、ミカちゃんは目を逸らしながらも、ゆっくりと、無言で頷いてくれた。
「ありがとう!」
つい大きな声が出てしまい、また「みゃっ!?」と驚かせてしまったが、ドアの隙間から覗いていたナギサさんは、とても嬉しそうに微笑んでいた。
夕食の匂いが漂ってくる。この香りは、受験前を彷彿とさせる……。
「もしかして、今日はカツ丼でしょうか?」
「正解よ! 受験の前にも食べたかしら?」
「カツ丼! 楽しみ……あ」
ミカちゃんが一瞬喜んだ声を出し、すぐにまた静まり返る。
「今日はアオイくんの歓迎会よ。召し上がれ!」
サクサクの衣に、とろとろの卵。
「「いただきます!」」
声が重なり、食事を始める。噛んだ瞬間に肉汁が広がり、僕は顔がとろけそうになった。
ふと見ると、ミカちゃんはハムスターのように頬を膨らませて必死に食べている。
「ミカちゃんのお母さんのご飯は、美味しいね」
「当然です……」
「あらあら、照れるわね」
浪人が決まってからずっと虚無感の中にいたけれど、この温かい輪の中にいれば、いつか立ち直れるような気がした。
夕食後、皿洗いを申し出たが、ナギサさんに「ゆっくり休んで」と断られ、僕は部屋に戻った。
英語の文型に頭を悩ませていると、背後に視線を感じた。
少しだけ開いたドアの向こうで、ミカちゃんが尻もちをついていた。
「大丈夫?」
手を差し伸べて立ち上がらせると、彼女は小さな手を差し出してきた。
「これ……さっきのお菓子のお礼」
手渡されたのは、一粒のアメ。
「ありがとう。一生の宝物にするね」
「ちゃんと食べてくださいね…」
真顔で言い返すと、彼女はまた疾走して自室へ戻っていった。
アメを口に含むと、不思議と勉強も捗る気がした。
二時間後、強烈な眠気が襲ってきた。
お風呂に入ろうと思ったが、抗えず机に突っ伏して眠りに落ちてしまう。
『……おき……きて……あの……』
耳元で、知らない声がした。
『あ、起きた。だいじょう……ぶ?』
「君……は?」
周りを見渡すと、フェリーで見かけたのと同じ、ハルジオンの咲き誇る野原だった。
振り向くと、そこに立っていたのは白いワンピースと麦わら帽子の銀髪少女。
顔を見ようとするのに、なぜか視線が勝手に下を向いてしまう。
「なんだこれ……顔が見えない……君の名前は……」
『私は……×××××』
突如、脳内に爆音の波の音が響き、彼女の声が完全にかき消された。
(……きてく……朝です……起きてください!)
『どうやら時間みたい。また会いましょう……』
少女の姿が消え、聞き覚えのある幼い声が重なる――。
「起きてください! 朝ですよ!」
「なぁっ!? ……あれ、ミカちゃん」
目を覚ますと、そこは朝の和室だった。
「夢……でも、あの時と同じだ」
「お母さんが、朝食の準備ができたって……」
朝食ができたようでミカちゃんが僕起こしに来てくれんだ。
まだ寝ぼけてると思い洗面所で冷たい水で顔を洗う。
今日はミカちゃんと島を巡る日だ。夢の余韻を引きずりながらも、僕は新しい一日を歩き出した――
読んでくださりありがとうございます!
次回から色々登場人物増えるのでお楽しみに!




