第1話 ハルが過ぎ去った夢の跡
「浪人生」という肩書きは、思ったよりもずっと、僕の心を重く冷たく支配していた。
仲間たちが笑顔で卒業していく校庭で、僕は一輪だけ花開く術を忘れた蕾のように、固く閉じこもる。
予備校に通うお金も、未来を語る自信もない僕に、母が差し出してくれた唯一の選択肢――根大島。
それは、救いだったのか、それとも新しい孤独の始まりだったのか。
船に揺られ、たどり着いたその島で、僕は一人の小さな少女と、一人の母親に出会う。
そして夢で、何か大切なものが僕に訴え導こうとしていた。
凪ぎ、止まった風。その中で、僕という「異分子」がどんな風を吹かせることになるのか。
夢の跡を辿るような、僕の最初で最後の一年が、今、静かに幕を上げる。
その痛みは、耐えられないほどではない。けれど、決して無視できるほど軽くもなかった。
二月。大学からの不合格通知を見た瞬間、視界が滲み、涙が流れた。正直、落ちることは大体察していた。それでも、いざ現実を突きつけられると、胸の奥が焼けるように辛かった。
それから数日後。高校の卒業式。
「アオイ! お前は浪人だけど、俺らは応援してるからな!」
「そうだぜ! 一年くらい人生の誤差だって。俺だって大学行ったとしても留年するかもしれねえし!」
「あはは…お前は留年すんなよ」
式が終わった後の校庭。あちこちで写真撮影や寄せ書き交換が始まり、笑い声が弾けている。僕も仲間たちとそんな風にだべっていたけれど、心のどこかには常に冷たい風が吹いていた。
僕の高校は進学校ではない。ほとんどの生徒が推薦や総合型選抜(旧AO入試)、あるいは就職を選ぶ。僕のように一般受験に挑む生徒なんて、十人もいなかった。
周りのみんなが次の一歩を踏み出していく中、僕だけは一年間の『空白』が決定している。まるで、一斉に咲き誇る蕾の中で、僕という一輪だけが花開く術を知らず、固く閉じこもっているようだった。
「生徒の皆様と保護者様、学校関係者以外の方はそろそろ下校をお願いします。あと十分で完全下校となります」
無機質な放送が、僕の三年間という青い春に終止符を打つ。明日からは、道標のない真っ白な世界が始まるのだ。
「じゃあ、俺らも解散するか!」
「そうだな! 落ち着いたらみんなで飯でも行こうぜ。アオイも浪人生だからって、勉強で無理しすぎるなよ。たまには息抜きしような」
「……うん。またいつか、会おう」
名残惜しさを振り切って、独り帰り道につく。胸を占めるのは、強烈な喪失感と劣等感だった。帰り道の橋から川面を見下ろすと、いっそこのまま高いところから飛び降りたい、なんていう考えが頭をよぎるほどに。
家に着くと、車で先に帰宅していた母がいた。
「アオイ、改めて卒業式おめでとう。……入場の時、手と足が一緒に出てたわよ」
「まじか。……恥ずかしいな、それ」
これでも行事には本気で臨みたいタイプなのだ。身構えすぎて、緊張していたらしい。
「ねえ、アオイ。少し話せる?」
母に促され、僕たちはリビングのソファに腰を下ろした。
「アオイはこの一年、どう過ごしたいと思ってる?」
「……正直、予備校はお金がすごいかかるから、宅浪するつもりだよ。ちょっと、不安だけど」
僕は母子家庭であることを理由に、無意識に遠慮して一番お金のかからない道を選ぼうとした。母はそんな僕の心を見透かしたように頷き、ある提案をした。
「もし、家で勉強するのが窮屈なら、ママの知り合いがいる島に暮らしてみるのはどうかしら。その人は、母さんの親友なんだけどね。最近色々あって……アオイが来てくれると、少し都合が合うというかね……」
「都合が合う……?」
母さんのその言い方に少しだけ違和感を覚えたけれど、今の僕は自分のことで精一杯で、深く聞き返すことはしなかった。
けれど、この提案が僕に、かけがえのない経験と思い出を与えてくれることになるのだった。
そして今、僕は島行きのフェリーのベンチに座っている。
「そこの坊主、根大島になにしにきたんだ?」
不意に、隣に座る白髪のおじいさんに声をかけられた。
「あはは……。今年から浪人生なんです。集中できるように、親の知り合いの家で一年間過ごそうかと思って」
「そうか。余所者からすれば退屈な所かもしれんが、今の坊主には合うぞ。ワシも島の住民だ。何かあったら頼りなさい」
久しぶりに触れた他人の温かさに、長く色を失っていた僕の心に、少しだけ色が塗られたような気がした。心地よい春の太陽の暖かさに、急激な眠気が襲ってくる。
「眠い……。着くまで、十分だけ……」
意識がまどろみの中へ沈み込んでいく。エンジンの低い振動が遠ざかり、代わりに「ざわめくような音」が聞こえてきた。それは波の音ではなく、風が何かを激しく揺らしている音だった。
ゆっくりと目を開けると、そこは船内ではなかった。
視界一面に広がる、広大な野原。空は現実のものとは思えないほど透き通った青で、太陽の光がやけに
白く、眩しい。
「……ここは、フェリーじゃない……?」
そこは、ハルジオンの花で埋め尽くされた野原だった。聞こえてくるのは風に靡く花々の音と、そして――ここからは見えないはずの波の音。
野原の真ん中には、周囲の景色から浮き出すように、不自然なほど大きく一本の桜の木が立っていた。淡い桃色の花びらが、雪のようにハルジオンの白に混じって舞い落ちている。
その桜の根元に、誰かがいた。
陽の光を吸い込んだような、長く美しい銀色の髪。風にふわりと広がる、真っ白なワンピース。身体の割に大きすぎる麦わら帽子。
少女であろうその人の顔は、なぜかぼやけてしっかりとは見えない。
僕は彼女に近づこうとした。しかし、いくら歩いても、走っても、ある地点から先へは近づくことができなかった。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、その数メートルが、果てしなく遠い異界のように感じられた。
『………あなたは……誰か……おかあさ……み…か……』
声が聞こえた。
その声は透き通っていたが、ほのかに震えていた。震える声で紡がれたのは、誰かを呼ぶ名前。それは助けを求める叫びというよりは、あまりに長い孤独の果てに漏れ出した、祈りのような呟きだった。
「待って……君は……!」
僕が強引に壁を突き破ろうと手を伸ばした、その瞬間。
『……乗客の皆様、お疲れ様でした。この船はまもなく、根大港へと到着いたします……』
無機質な船内アナウンスが、残酷に夢の幕を引き剥がした。
「はっ……!」
勢いよく目を開けると、視界に飛び込んできたのはフェリーの天井だった。心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴っている。
あんな女の子、知らない。あんな場所、見たこともない。
なのに、耳の奥にはまだ、あの震える「名前を呼ぶ声」が、熱を持ったまま張り付いていた。
「坊主、着いたぞ。ここが根大島だ」
先程のおじいさんが再び声をかけてきた。その声で、やっと現実に戻ってきた感覚がした。
「そういえば、その知り合いの人ってのは誰なんだ?」
おじいさんに聞かれ、僕は母の親友の苗字を答えた。
「月見里さんです」
「月見里さんの所か……。まあ、いい子でいるんだぞ。後は……余裕があったら、気にかけてやったら話しかけてやってくれ」
じいさんはそれだけ言うと、僕を置いて船を降りていった。
僕も荷物を持ち、船を降りた。春だというのに、刺すような強い日差しが僕の顔に襲いかかる。手のひらを傘にして額に置き、空を仰いだ。
そこには雲一つない、突き抜けるような青空が広がっていた。
「ここが……根大島か」
ここで僕は一年間、浪人生として過ごしていく。
どんな一年になるのか。概ね、虚無と孤独に塗りつぶされるだけの時間になるだろうと、僕は思っていた。
あまりに鮮やかな空の色と、僕の心の色は、今、残酷なほど対照的だった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
本作の舞台となる「根大島」は、伊豆諸島の大島と式根島を自分なりに再構築した、架空の島です。あの突き抜けるような青空と、どこか懐かしい潮風の匂いを感じていただけていれば幸いです。
浪人生という『空白』の時間を生きることになったアオイが、この島で何を見つけるのか。そして、夢の中に現れたあの少女は誰なのか……。
これから紡がれる「凪の風」と、家族の絆の物語を、どうか最後まで見守っていただけると嬉しいです。
僕も浪人生で割と経験談とか混ぜてます笑




