第87話『Phantom Beyond the Boundary(境戒の幻影)』 A Part
誰にも劣らぬ流麗な闘争ぶりと悠久の美しさが同居するベランドナ。
漸く幼女の域を出られたばかりなヴァデリ・カルベロッソの面前。稀有な黒星を付けられそうな危うさに沈みかけた。
そのベランドナと共にヴァデリの兄、スペキュラ・カルベロッソの足止め係に名乗りを上げたファグナレン。
此処までどんな困難とて涼しい面持ちで乗り越えた盟友が危機に瀕した姿に心引き摺られ、戦慣れした漢の魂が思わず揺らいだ。
ヴァデリが余裕を抱いて自ら晒した異能『怨響現界』明らかに音響を幻の世界へ落とし込むであろう力。
未だ何も見えず聞こえぬファグナレン──視界が捉えない以上、音頼みの結界術だと思えた。
「ベランドナ! まやかしなんかに囚われるな! こんなの気丈で綺麗な君らしくないッ!」
ファグナレンが異性の両肩を無遠慮に握り、必死の形相で揺さぶりをかける。
ベランドナ嬢と云う愛称を捨て、『綺麗な君』と女性の自意識にも訴えた。
互いの距離感を詰めた発言──敢えてなのか必死さ故に口から吐かれた本能の絶叫か。いずれも混じった色合いの引き留めである。
「あ、あぅ……。ふぁ…ファグナレン? わ、私は一体?」
琥珀色の瞳が虚ろに曇天の空を向き、口紅要らずの唇から涎を垂らしたベランドナが僅かに反応──意識が飛んだかに思えた処、堕ち掛けた彼女の意識を如何にか繋ぎとめた。
「ベランドナ! 良かった!」
「ふぁ……グナレン?」
肩当の上から握った跡が残る程、握力を加えたファグナレンが自身でも思いがけぬ抱擁を以て心寄せた戦友を洩れた涙と共に寄せた。
未だ瞳孔が移ろうベランドナの動転──300年生きた半生で実は初めての経験。
両親以外のましてや異種族の男から抱かれた戦場の営み。抱かれた恥ずかしさより驚きの方が勝り、顔を朱色に染める暇もなかった。
「あらあら……敵の私達が居るのに見せつけてくれちゃって。大人って本当汚らわしい。──でも判ったぁ? 右からぁ左からぁ気持ち好い音がその長くて綺麗な耳に響いてとっても楽しかったでしょ?」
戦場なのに……いや戦に立ち込めた命の危険蠢いた状況を好い訳に大人の男性が人形の様に可愛いエルフ族を抱いたと感じた少女ヴァデリの煽り。
小さき首と長く伸びた銀髪を楽し気な感じで左右に揺らす異能の種明かしを告げた。
ビュッ! カッカッ!
「も、もぅ我慢ならんぞッ! 子供だと情けをかけるのは止めだッ!」
馬鹿にするヴァデリの足元へ投擲用のナイフを飛ばしたファグナレンの激昂。ベランドナを地面に寝かせ、眉を吊り上げ飛び掛かろうとした矢先──。
「ムゥッ……?」
ファグナレンの瞳へ飛び込み始めた過去の恥辱。
黒騎士マーダ率いる両指の数に満たない一騎当千の輩から深夜の強襲を王国で受けた嘗ての苦い記憶を呼び覚ます。
『生き残れた兵は逃げよ』
当時辛うじて生き残り急場凌ぎの騎士団長役を受け負った者が下した恥ずべき指令。『戦力は残せ、我々さえ生き延びれば王国は再び取り戻せる』何とも身勝手な言い逃れに従ったのだ。
同じ騎士のみならず城下町に住まう民草さえも救えなかった最悪の逃走。
ファグナレンの周囲に苦渋の記憶が突如、目に映り込む絵柄で蘇り取り囲んだ。
『た、助けて(ファグナレン)お兄ちゃん……』
『み、見捨てないで……くれ頼む騎士様ぁ』
近所で親類の様に馴れ親しんだ女の子からの哀願。
逃げる自分の足元にしがみつく中年男性。足首を握られる現実。空、地面、ファグナレンの360℃を取り巻いた地獄絵図。
「ぐっ! や、止めろっ! 見せるなぁッ!」
戦友ベランドナを恐怖のどん底へ叩き落とした声と音の凶閻。同質の怨響がファグナレンに襲い来るのだ。
然も視覚さえも支配され、五感全てを堕とされた錯覚に蝕まれたファグナレンの煩悶。
耳を塞ぎ頭を振って幾ら拒絶しようが好きに纏わり憑かれる。冥土の淵際から引き込む脅威に支配されかけた。
「背の低いお兄さんにも漸く見えたね。僕の『恐面幻下』の地獄が」
先程第一声にて『背丈なら僕とたいして変わらない』倍以上は生きている大人の男性を小馬鹿にした兄スペキュラがまたもや身長の話を持ち出しこけにした冷笑。
「……成程、兄が奈落を見せつけ妹が絵に合わせた地獄の音を聞かせる。それが貴方達の幻術。伝播の精霊──私達の聴覚に障壁を張れ」
ファグナレンが自分の代わりに子供が造った地獄を受け持ってくれたお陰で普段の冷静に戻れたベランドナが言い放つ異能の正体と得意の精霊術。
あれ程苦しみに顔を歪めたファグナレンの顔立ちが少しだけ安らぐ。音の波を空気に載せ運ぶ音の精霊を呼んだベランドナ。妹ヴァデリが仕掛けた音響の囲いを防いだ。
「あ、あれ?」
堕ちたファグナレンが落ち着きを取り戻す。彼が救えなかった王国の住民達が地獄に喘ぐ絵面、未だ視界に映り往く。されどあれだけ胸を絞めつけた絶叫が突然止んだ。
「チィッ……」
独り舌打つスペキュラの苛立ち。どれだけ現実的に迫る映像を見せられた処で音声がなければ白ける必然。ベランドナとて見ながら聞かされていたのだ。
パチパチパチパチ……!
「へぇ、凄い凄い。流石精霊の使い手エルフ族。絵も音も人一倍、だから感づいて私が出す音だけ止めたのね……だ・け・どぉ」
兄スペキュラが兄妹の異能で成した地獄の幻術をベランドナに防がれ怒りに拳を握る傍ら、妹ヴァデリは拍手喝采を以て大歓迎。
ブィィィンッ!
「ぐぅッ! ま、また?」
「こ、これは空気じゃなく地面が震えてぇ!?」
止んだ悲鳴が再び降り積もり弓形に頭を抱えるファグナレン。
長い耳とは違う感覚がヴァデリの怨響を受け留めたしまったベランドナの辛苦極まる憂鬱。地面に伏せ苦しみ藻掻いた。
「アハハッ……! やっぱり可愛いたっまんなぁぁい。魔法の種が判っていながら何も出来ないとかマジウケるぅ」
ヴァデリが人差し指を咥えさぞや美味しそうな洋菓子を欲しがる体で喜びを態度で表した。
さらに己の御業を伝導させる為、ベランドナの金髪を地に押し付けた。
「音を伝えるのは空気だけじゃないの。特に私のは地面を伝わり骨に響く。ほぉら凄く気持ち好いでしょ? ほら、お兄ちゃんも早く殺っちゃいなよ?」
お気に入りの玩具で遊び尽くすヴァデリ喜悦の笑み。ヴァデリの怨響現界は骨伝導。まさしく躰に刻まれたベランドナとファグナレンの二人。
バリンッ!
兄スペキュラが飾りに思えた腰の細くて短いレイピアを抜き、虚空を刺した。そう──何も無き曇天の空。然し何が割れた真実の音響が轟く。
『い、嫌ァァァッ!』
「や、止めろォォッ!」
なれどファグナレンだけには確実に聞こえて見えた──過去に見捨てた女の子の悲鳴が胸を打つ。
近所の可愛かった女の子が額を射抜かれ割られた絶叫が木霊した。
「ねぇねぇ今の見たぁ? 鏡に映った過去の偽物を割られただけでこの悲鳴。ゾクゾクしちゃう! そんなに苦しいならせめてさっきみたいに抱き合ってみたらぁ? 苦しみが二重になるだけだけどねキャハハッ!」
調子に乗ったヴァデリが兄スペキュラの異能『恐面幻下』の種すら明かした。何とも酷い言葉遊び。恐面とは鏡面の言い換えに過ぎなかった。
カルベロッソ兄妹の異能『恐面幻下』と『怨響現界』
どちらか一方欠けても成立しない子供騙しの術式であった。
されど所詮児戯の域を出ないのだ。自分達の力の根源を示し過ぎた。




