9.お義兄さんとお姉ちゃん
「アンタがいなくなってね。そりゃあ、色々大変だったのよ」
お姉ちゃんが話す。
馭者も侍女も、「お嬢様から離れろ!」とお姉ちゃんを止めに入るけど、「うっさいわね! 姉妹の再会を邪魔するんじゃないわよ!」でお姉ちゃんに凄まれ、何もできなくなってしまった。
わたしも。
お姉ちゃんに、抱きしめられ、動くことも封じられてしまった。
馬車からも降りて――ううん。引きずり降ろされて。黙ってお姉ちゃんの話を聞かざるを得ない。そんな状況。
「アンタがいなくなってからね。父さんは、アンタがいない寂しさに耐えかねて、酒浸りになってしまったの」
嘘だ。
お父さんは、わたしがいた頃からずっと、お酒ばっかり飲んでた。
お酒を飲んで、気に入らないことがあると、好きなだけわたしを殴ったりけり飛ばしてた。
「母さんも。アンタ恋しさに、アンタを捜しに出てそれっきりよ。帰ってこなくなったの」
嘘だ。
あのお母さんが、わたしを捜すわけがない。
しょっちゅうご飯抜きでわたしを閉じ込めてたお母さんが捜しに行くなんてありえない。
「わたしもね。ずっと。ずっとアンタのことを捜してたの。アンタが戻ってくれば、また元のように家族みんなで仲良く暮らせるだろうって」
嘘。嘘だ。
お父さんとお母さんがわたしを虐待するのを見て、ゲラゲラ笑ってたくせに。寒いのに、毛布を奪い取って。寒いのに、水を浴びせられたこともあったのに。
「ね? だからノエル。あたしといっしょに帰りましょう? 帰って、姉妹仲良く暮らしましょうよ」
仲良く? 暮らせる?
そんなわけない。そんなことあるわけない。
「こんなところで会えたのも、何かの縁よ」
縁?
これが「縁」なのだとしたら、最低な「悪縁」だ。
「……わたし、帰りません」
ガタガタと膝が、足が震える。
わたしの首に巻きつくお姉ちゃんの腕。それは冷たい蛇のように恐ろしい。
けれど。
「今のわたしには、本当の家族がいるんです! 本当の! だから、お姉ちゃんとは帰りません!」
精一杯。
あるだけの勇気を振り絞る。
帰らない。帰りたくない。
あんなところには、絶対帰らない。
「――ナマイキ」
えっ?
「――――ンッ!」
ドンッと体を押された衝撃。次いで襲ったお尻から背中の痛み。
「お嬢様!」
馭者が声を上げる。
両の手のひらも痛い。
お姉ちゃんに突き飛ばされたのだと気づいたのは、道に転倒したわたしを、お姉ちゃんが冷たく見下ろしてきたから。
「アンタ、伯爵家に引き取られたんだって?」
「――――っ!」
お姉ちゃんが近づいてくる。
「伯爵家に引き取られて、ご令嬢として暮らしてるそうじゃない」
逃げたい。
けれど、逃げる方法もわからなくて。
冷たく鋭い悪意ある笑みのお姉ちゃんが近づくに任せてしまう。
「ねえ。誰がアンタを育てたと思ってるの? 育てられた恩を返すつもりはないわけ?」
声が出ない。
声が喉に貼り付いて、出るのはヒューヒューと嗄れた息の音だけ。
「ねえ。少しでも恩義を感じてるならさ。少しぐらいアンタの幸せってやつを、分けてくれてもいいんじゃない?」
唾を飲み込むことすらできなくなったわたしの顎を、お姉ちゃんの指がつまむように持ち上げる。
「お金よ、お金。アンタ、伯爵令嬢になれたんだし、少しはお金、持ってるでしょ?」
歯の根が合わない。カタカタと震える。
「アンタの着てるドレスでもいいわ。それでも売れば、多少はお金になるでしょ」
「い、イヤ……」
怖い。けど。
「脱げ!」
ビクリと体を震わせる。
脱がな……ければ。
でないと――
ぶたれる。
蹴られる。
殴られる。
「早くしなさいよ、このグズ」
寒いよ。
痛いよ。
ひもじいよ。
寒いの嫌だよ。
痛いの嫌だよ。
プチンプチンとボタンを外していくわたしの指が震える。その手の動きに突き刺さる視線。腕に絡みつくようなお姉ちゃんの息。
怖いよ。
嫌だよ。
脱ぎたくない。けど、脱がなきゃ怖い。
誰か、助けて――
「――ノエルっ!」
――え?
グイッと乱暴に引っ張り上げられたわたしの腕。
無理矢理立たされ、誰かの胸に抱きとめられる。
「お義兄……ちゃん?」
力強く、わたしをお姉ちゃんから庇うように抱きしめてくれたのは、なんと義兄。
いつの間にか、侍女が呼びに行ってくれてたんだろうか。少し遅れて姿を見せた侍女。息が荒れている。
「無事か、ノエル」
「う、うん……」
冷たく凍りついたような体に、温もりが戻ってくる。
「アヤナ・ゼール……か」
お姉ちゃんを睨みつけながら、義兄がお姉ちゃんの名前を呼ぶ。
お姉ちゃんのこと、知ってたの?
「今さら、何の用だ」
義兄が発するのは、低く威嚇するような声。
「あら。自分の妹に会いに来て何が悪いの?」
悪びれず、あっけらかんとしたお姉ちゃんの声。
肩をすくめ、両手を軽く上げて。困った人ねと、義兄を見る。
「アンタたちに攫われて、会えなくなってたかわいい妹を、ようやく見つけたところなの」
フンっと鼻で笑うお姉ちゃん。
「かわいい妹、ね」
わたしを抱きしめる義兄の手に力がこもる。
「そんな妹の身ぐるみを剝ぐのが、姉というものか」
「いやあね。今までのお礼にと、あたしにドレスをプレゼントしようとしてくれただけよ」
義兄の怒りなんてどこ吹く風。すっとぼけるお姉ちゃん。
「幼い頃から育ててやったお礼。もらってどこが悪いっていうの?」
そのまま尊大に、開き直った。
「こうして、せっかく会えたんだし? 育ててやった恩を改めて返してもらおう。そう思っただけよ」
「――ノエルの後をつけてまで、か」
え?
「君がノエルの後をつけて、王宮の周りでウロウロしていたことは聴いている。衛兵が君を見ていた。王宮に何かしてくるのなら咎めるが、そうでないならと、動きだけ確認していた。そして君は、ノエルが出てくるのを待って、それで馬車の前に飛び出したんだろう?」
そう……なの?
あの馬車の急な停止は、お姉ちゃんが飛び出したからなの?
正解を求めて、馭者を見ると、ウンと頷かれた。
王宮の前からつけてきたお姉ちゃんは、わたしを無理矢理止めるために、馬車の前に飛び出していたらしい。
「いいじゃない、別になんだって」
偶然でなかったこと。
バラされても、悪びれないお姉ちゃん。
「アンタだけズルいのよ」
声高に。
何事かと集まってきた人達に聴かせるように声を張る。
「そう思わない? いっしょに育ってきたのに、アンタは伯爵家に引き取られて。あたしは、あの親父と二人っきりで残されて! アンタはそんないいドレスを着て、馬車に乗れるってのに、あたしは食うにも困って、毎日花を売らされて!」
胸に当てた手を、悲痛な顔してバッと広げたお姉ちゃん。
その動きは、悲劇のヒロインそのもの。
「毎日、朝から晩まで花を売って、路上に立って! 家に帰れば父さんに酒瓶ぶつけられて! 同じ姉妹なのに、なんでアンタだけ、優雅に暮らしているの! そんなの不公平だわっ!」
ワッと顔を覆って泣き始めたお姉ちゃん。
辛い暮らし。逃げ出したい日常。
それに比べて妹は、伯爵家に引き取られて裕福に、何不自由なく暮らしている。
集まった人の同情が、お姉ちゃんに流れていく。
けれど。
「――言いたいことはそれだけか」
低く、地を這うような義兄の声。
「言いたいことはそれだけか、アヤナ嬢」
抱かれている体に響いてくるその声の低さに、わたしも驚く。
「ノエルが令嬢らしく暮らしているのは、それが元々彼女の権利だったからだ。伯爵家の一人娘として生まれたノエルには、その暮らしを享受する権利がある。虐待していた君とは違う」
義兄が凄む。
「そもそも、君とノエルは姉妹でもなんでもない。君の両親は、誘拐され、拘束されていたノエルを見つけはしたが、そのまま利用し、虐待を続けていた。劣悪な環境化でノエルを酷使していた君たち親子を、誘拐犯たちと同じ仲間とみて、連行させることもできるんだぞ」
「ヒッ!」
その剣幕に、その気迫に押されたのか。お姉ちゃんが息を飲んで後ずさる。
「君たち親子には、ノエルを見つけた時に、二度と会わないことを条件に、それ相応の謝礼は渡したはずだ。なのに、こうして姿を現した。ノエルの前に姿を現さないともう一度だけ約束するなら、このまま今回だけは見逃してやる。そうでなければ――」
「あっ、会わないわよ! もう二度と! 絶対に!」
焦ったお姉ちゃんが、踵を返し、一目散に逃げ出した。
集まって来ていた人たちも、見世物終了と思ったのか、三々五々に別れて離れていく。
「――大丈夫か、ノエル」
問いかける義兄の声が、いつになく優しい、とても優しい本来の彼らしい声に戻る。
「君の侍女が知らせに来てくれたんだ。間に合ってよかった」
やっぱりそうなんだ。
わたしの窮地、知らせに行ってくれてたんだ。
そして、この義兄は、わたしを助けに来てくれた。
「ありが……とう」
安心と、幸せが、体の隅々まで広がっていく。
怖いものは去った。
怖いものから護ってもらえる。
縮こまっていた体から力が抜け、滞っていた血が、体を駆け巡っていく。
すべてが解放されていく。
わたし――
「ノエルっ!? しっかりしろ!」
義兄の腕の中で。茫洋と意識が薄れていった。




