第7話 崩れたダムのあとで
帰宅し、カチリと鍵を閉める。その金属音が、今日はやけに重く、耳の奥に突き刺さった。
リビングからはテレビの音と、母が編み棒を鳴らす規則的な音が聞こえてくる。私の帰宅を察した母が「おかえり」と顔も向けずに声をかけてきた。その無関心な響きに、私は「ただいま」とだけ力なく言い残し、背中を向けた。まるで、背後に忍び寄る影から逃げるように、自室へと駆け込む。
電気をつける気力さえ湧かず、そのままベッドの端に倒れ込んだ。重力に身を任せ、シーツの冷たさに顔を押し付ける。
会議室での、あの醜態が何度も脳裏を再生される。先輩の前で、あんなふうに子供みたいに、声を上げて泣きじゃくってしまった自分。社会人として、大人として、あってはならない姿をさらけ出してしまった。
もう二度と、先輩の顔を直視できないかもしれない。羞恥心は毒のように胸に回り、暗闇の中で「なんて浅ましいのだろう」と私自身を責め立てる。
けれど、その絶望の底で、奇妙な感覚が私を支配していた。
ダムが決壊し、濁流がすべてを押し流した後のような、恐ろしいほどの静けさ。あれほど張り詰めていた胸の痛みが、今は嘘のように消え失せている。空っぽになった心の奥底に、ひんやりとした新しい風が通り抜けていくような――そんな、不思議な心地だった。
私は暗闇の中、這うようにして机の引き出しを開け、あの夜の色をしたノートを取り出した。
ペンを握る指先は、まだ細かく震えている。インクの染みが、私の揺れる鼓動をそのまま紙面に写し取っていく。
『先輩の前で泣いてしまった。死ぬほど恥ずかしい。顔から火が出るようだった』
『でも、泣いたあと、驚くほど息がしやすくなった』
『私はずっと、泣くことさえ我慢していたんだ。自分自身の感情に、蓋をして、押し殺して』
書き連ねるうちに、頬を伝った一滴の雫が紙面に落ち、インクを大きく滲ませた。その滲みを見つめながら、私はノートにこう書き足す。
『このままだと、私は私という輪郭を失って、壊れてしまう』
『誰かのための笑顔なんて、もういらない』
『私が、私自身を守るための場所が必要だ』
それは、ただの弱音や愚痴ではなかった。私という存在を繋ぎ止めるための、魂の叫びに近い「宣言」だった。
もう、これ以上自分をないがしろにはしない。誰の許可もいらない。親でも、佐藤さんでもない、私だけが本来の呼吸を取り戻せる場所――。
その夜、私はカーテンの隙間から街の明かりをぼんやりと眺めていた。都会の光は冷たいけれど、遠くに見える駅前のあの古い喫茶店の灯りだけが、なぜか温かく思えた。
いつも通り過ぎていただけの、あの古びた木製の扉。あの向こう側なら、私を縛る「いい子」という呪縛も、少しだけ薄まるかもしれない。
翌週の月曜日。オフィスで書類を捌きながらも、私の心はあの扉の向こう側に飛んでいた。
仕事が終わる頃、私は決意を固めた。指先をきつく組み直し、自分自身に言い聞かせる。
「今日こそ、あの扉を開ける」
それは、世界を裏返すような大きな出来事ではないかもしれない。けれど、私という檻の中から一歩踏み出すための、最初で最後の、尊い決意だった。




